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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第三章

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46、噛みしめる無力③

 耳障りな鎖の音と共に入ってきたのは、襤褸を纏った、みすぼらしい男――いや、少年。

 見れば、雪が降りだしそうなこの季節にも関わらず、足は素足のままだ。顔は日常的に殴られているのか、真新しい傷がいくつも覗いており、砂埃に晒され続けたように傷みきった黄土色の髪にも、乾いた薄い唇の端にも、こびり付いたような血液が見られる。年齢を鑑みれば、本来あどけなさを残しているはずの腫れあがった褐色の左頬には、今、ミレニアの斜め後ろに控えている護衛兵と同じ文様が刻印されていた。

 ジャラリ、と音を立てたのは、鎖――首に着けられた鉄の枷から伸びるそれを、まるで家畜か何かにするかのように、家中の男が乱暴に引いている。手首にも同様の枷がついており、少年に自由は皆無と言えた。おそらくその枷の内側には、いつかのように魔封石がびっしりと嵌っているのだろう。

 ぐいっと鎖を引かれ、つんのめるようにして進んだ少年の鳶色の瞳には、世の中に対する怨嗟と虚無が同時に存在しているようだった。

「ひっ――」

 ズタボロの少年の姿を前に、後ろに控えていたマクヴィー夫人が、口の中で悲鳴を押し殺すのが聞こえた。根っからの貴族社会で育った淑女には、信じられない光景だったのだろう。ミレニアも、さすがに一瞬色を失う。

 ロロだけが、いつもの感情の読めない無表情のまま、淡々とその光景を紅玉の瞳で眺めていた。

「つい先日、手に入れたばかりの奴隷だ。帝都東部は物騒になったからな。ミレニア殿を見習って、屋敷の護衛代わりに購入したところだ」

「…………そう……です、か……」

 ぎゅ……とミレニアは己の右手を左手で握り締める。絞り出すような声は、微かに震えているようだった。

「婦人方には刺激が強すぎたかな?……何、少々生意気な奴隷でしてね。ここへやってきてから、敬語の一つも使えない。何度か立場をわからせているのですが、全く覚えの悪い”道具”です」

「……教えて、やれば、良いではありませんか。敬語など、作法など、教えてやれば済む話です。彼らは、ただ、教育を受けたことがないだけです。丁寧に、家人が教えてやれば――」

「ハハハッ!!……何故、道具ごときに、”教育”を?ミレニア殿は、面白いことをおっしゃる」

 嘲るような笑いを漏らし、ヴィンセントはこれ以上ないほど可笑しそうに口を開く。

「しかし、なかなかいい買い物だった!大枚をはたいただけのことはある!生意気極まりないのも、剣闘場屈指の人気奴隷ともなれば、仕方ないのかもしれん!だが、それを屈服させるのもまた――」

「――――人気奴隷……?」

 ピクリ、と。

 それまでずっと黙っていたロロが、怪訝そうに口の中で呟く。

 ぴたり、とそれを聞きとがめたヴィンセントが、下卑た嗤いをやめて口を閉ざした。

「何だ、貴様。――何か言いたいことがあるのか」

「…………いえ。……何も」

 すぃっ……とロロの視線が左下に下がる。――何か言いたいことがあるがあえて言わない、という判断をしたのだろう。

 しかし、どうやらその態度はヴィンセントの癪に障ったらしい。青年は、ぐっと視線を鋭くして、黒衣の男を蔑むように見やる。

「何だ。言え。命令だ」

「…………いえ。本当に、なんでもないことです」

 ロロは視線を下げたまま、軽く頭を下げる。従順にも見える礼を取る癖に、自分の命令を無視した発言をされて、カッとヴィンセントは瞳に怒りを燃やした。

「貴様――!」

「ロロ。構わないわ。言いなさい」

 激昂したヴィンセントが、一歩ロロに近づく。今にも手を上げそうな婚約者の剣幕を前に、ミレニアが遮るように凛とした声を上げた。

 放っておいては、ロロが殴られることだろう。――目の前にいる少年奴隷のように。

 そしてそれを、ロロはいつもの無表情で淡々と、当たり前のような顔をして受け止めてしまうことが容易に想像できた。

(そんなことはさせない……!)

 キッと鋭い視線でヴィンセントを睨むように牽制しながら、ミレニアはロロに先を促す。

「……は……いえ……その……」

 しかし、ロロはなおも迷ったようだ。口の中で、歯切れ悪く何かを呟く。

「……?」

 ミレニアに命ぜられても口を開かぬとは、珍しい。ミレニアは不審に想い、ヴィンセントから視線を外してロロを見やる。

 黒衣の青年は、いつもの美しい瞳を左下に下げたまま、苦しそうな渋面を作って――

「ハハッ!……なんだ。伝説の奴隷番号66番は、人の心を持たない冷血漢と聞いていたのに――存外、お優しいところがあるんだな」

 沈黙を破ったのは、鎖につながれたままの少年奴隷だった。堪え切れない、というように、声を上げて笑い声を響かせる。

「!?貴様――!誰が口を利いていいと言った!」

 ぐいっと家人が鎖を引き、無理矢理床へと這いつくばらせる。よろめくように倒れ込んだ先、少年の腹に、待っていたとばかりに振り上げられた家人のブーツがめり込んだ。

「ぐっ――!」

「キャァ――!!」

「おやめなさい!」

 人を殴る鈍い音に、マクヴィー夫人が悲鳴を上げて瞳を覆う。ミレニアは、蒼い顔で家人を制した。思わず少年の方に近寄ろうと足を踏み出すのを、ロロが割って入るようにして留める。

「ロロ!」

「お下がりください。危険です」

 暴力行為が行われているところに近寄って、巻き添えを食わないようにとのことだろう。黒衣の青年は、いつも通りの無表情のまま淡々とミレニアを制した。

「ハハッ……優しい人に買われたんだな、アンタ。奴隷をまるで”人間”扱いだ。いいね。羨ましいよ」

「まだ言うか――!」

 ゴッ……!

 鈍い音が響き、少年の口から透明な吐瀉物が床へとまき散らされた。既に何度も吐き出して、空っぽになった胃からは、何も出てこない。

「靴が汚れます。下がってください、姫」

「でも――!」

 悲痛な顔をしたミレニアを背に庇うようにして、ロロは静かに促す。

「はは……いいね。その冷めた目。俺が聞いた通りの冷血漢だ。奴隷が何たるか、しっかりと骨身に染みて理解している、冷めた瞳だ。それなのに、なんでさっきはあんな――っ、ぐはっ……!」

 ガッ……と家人のブーツが少年の顔にめり込んだのを見て、その痛ましさを見ていられず、ミレニアは思わずパッと顔を背ける。ぎゅっと目の前の広い黒マントをつかむ手が震えた。

「はぁ……なぁ、あんた、66番だろ。有名だから、俺でも知ってる。その真っ赤な瞳と、真っ白な髪。帝国の長い奴隷史上で、五人にしか与えられたことのない、”黒布”の一人――っ、ぐ……!」

「もう、口を閉ざしなさい!それ以上何も喋らないで!」

 ミレニアは悲痛な声で叫ぶ。ロロは、無言のままミレニアの視界を塞ぐようにバサ、と己の黒いマントを持ち上げた。血なまぐさい暴力行為を、主の視界に入れることが憚られたからだ。

(姫は、優しすぎる……)

 今目の前で繰り広げられている奴隷の扱いは、決して特別でも何でもない。国内のいたるところで当たり前のように行われている”日常”だ。

 だが、心優しい主は、その光景に心を痛める。

 本来、こんな光景とは無縁の生活を送れるはずだ。生きる世界が違う両者が交わることなどあるはずがなく、彼女たち皇族の前では、奴隷は息をすることも許されない。

 それなのに、ミレニアは、虫けらにも等しい奴隷を”人間”だと言って、救おうとする。そして――救えなくて、無力に苛まれ、心を痛めるのだ。

 せめて、彼女の心の負担が少しでも軽くなるように――ロロに出来るのは、なるべく彼女を”日常”から遠ざけ、こうして彼女の視界を塞ぐことくらいだ。

 ロロもまた、虫けらに等しい存在――彼女に手を触れることも許されない、穢れた存在なのだから。

「はぁ、はぁ……っ、ぐ……はは、嗤えるな。俺は――」

「それ以上、口を開くな」

 ひやり、とした声が響く。

 一瞬、部屋に沈黙が下りた。

 その場にいた全員が、声の主を振り返る。

「――そう、俺の主が望んでいる。黙れ」

 低く響く制止の声は――黒衣の護衛兵から放たれていた。

 いつも通り死滅した表情筋を動かそうとする努力もないままに、無表情のまま淡々と告げる声は、不思議と強い力がこもっていた。

 一瞬、少年は黙り込んだ後――ふ、と吐息で笑みを漏らした。

「やっぱり……優しいよ、アンタ。――いーよ。俺なんかを、庇う義理はないだろ。本当のこと、教えてやれよ」

 蔑むような目でヴィンセントを見やり、腫れあがった頬を歪めて、ニヤリと笑う。その視線に、ヴィンセントは怪訝そうに眉を寄せた。

「何……?」

「アンタが言う、『剣闘場屈指の人気奴隷』っていうのは、そこでお姫サンを守ってるような、伝説の男のようなことを言うのさ。まぁ、さすがに黒布は伝説級としても、せめて青布――少なくとも、赤布以上じゃないと、人気とは言えないだろ」

「布……?何の話だ……?」

「ハハハッ!やっぱり!そうじゃないかと思ってた。――アンタ、どうせ、一回も剣闘なんか見たことないんだろう。さすが、帝国三大貴族のお坊ちゃまは、清廉潔白でいらっしゃる!」

 嘲笑が部屋の中に響く。家人のブーツがもう一度腹にめり込んだが、一瞬苦悶の声を上げた後、少年はもう一度この屋敷の主人を見て、ニヤリと笑った。

「俺のランクは、白布――前座にしか上がれない、末端のゴミみたいな剣闘奴隷だよ」

「前、座……?どういうことだ……?」

「まだわからない?察しが悪いオッサンだな。――アンタ、騙されたんだよ。奴隷商人に吹っ掛けるだけ吹っ掛けられたんだ。腕の立つ人気の剣闘奴隷、なんて言われて高額を支払ったんだろうけれど、残念だったね。払った額は、確かに赤布や青布と変わらない取引額だろうけど、とても白布を取引するような額じゃない」

「な――!?」

 サァッとヴィンセントの顔が蒼く染まる。くく、と少年は喉の奥で嗤いながら、己の契約上の主を、床に這いつくばったままの状態で見上げる。

「今更抗議しても無駄だろうさ。だって、契約書の中には、俺が白布だってちゃんと書いてあるよ、きっと。布の色で奴隷の強さを分けるって知らないアンタは、その意味をよく分からないままにサインしたんだろうけど。おバカなのかな?」

「なんだと――!貴様っ……!」

 ドガッ!

「っ――ぐ、がはっ……ごほっ……ぉえっ……」

 癇癪を起したように、ヴィンセントの渾身の蹴りが少年にお見舞いされ、ひときわ苦しそうに身体を折り曲げて呻く。びしゃっ……と透明な吐瀉物が再び床に散った。

 ロロは軽く眉をしかめてから、ミレニアを一歩後ろへと下げさせる。

 ――ロロは、すぐに気づいていた。

 殆どの剣闘奴隷と、飽きるほどに戦闘させられていた毎日。何度も同じ相手と戦わされたこともある。命のやり取りとなるその毎日で、汚泥を啜ってでも生き延びることを信条にしていた彼は、一度戦った相手の顔は忘れない。――次に対戦するとき、戦いの癖を覚えておくために。

 ほとんどが赤布以上との戦いだったため、赤布以上の奴隷の顔は、戦いの癖と一緒に、ほとんど全て覚えていた。今、床に転がっている少年は、ロロの頭の中の赤布以上の奴隷リストに載っていない。

 だが、それとは別に――見かけたことのある顔だ、と思った。

 それは、いつも、彼が剣闘の主役として剣闘場に入っていく時――入れ替わりのようにして、前座を終えて出て来る奴隷の中にいた。――彼の腰には、白い布が纏っていた。

(……何度か見たことがある。当時最も人気があった俺の前座を務めるくらいだし、何度も出場するということは生存確率が高いと言うことだ。白布とはいえ、それなりに腕は立つんだろうが――魔法が使えない以上、限界がある。人気奴隷になんか、なりようがない)

 白布は、魔法の使えない、無属性の新人剣闘奴隷に着けられる布だ。魔法が使える新人奴隷は、黄布が付与される。

 とても、帝国三大貴族のカルディアス公爵家に名を連ねる男が、大枚をはたいて買うほどの人材とは思えない。

 商人は、優秀な奴隷をずっと手元に置いたまま、甘い汁を吸うことにかけては天才的な頭脳を発揮する。奴隷売買の契約で、こうした詐欺まがいのことが横行していることなど、少し奴隷市場に詳しければ常識だ。騙されたくなければ、自分で高い観客席の代金を払って、足しげく剣闘に通い、自分の目で確かな実力者を見極め、指名して買い上げるしかない。

 商人任せで、優秀な奴隷を、などという注文を付ければ、こうして足元を見られて騙されるのが関の山だ。

(……俺も、迂闊だったな)

 暴行を受ける少年を見ながら、心の中で反省する。

 彼が白布だとすぐにわかったロロは、ヴィンセントの言葉につい、反応してしまった。――あの迂闊な発言のせいで、今のこの惨状を引き起こした。

 商人に騙されたと知れば、ヴィンセントが激昂するのはわかり切っていた。その感情は、こうして少年に八つ当たりという形で向けられることも、わかっていた。それゆえ、不意の失言をなかったことにしようと口を閉ざしたのだが――

「もうおやめください、公子!」

 見るに堪えない暴力行為をとどめたのは、十三歳の少女の一喝だった。


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