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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第三章

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32、別離の日③

 ヴィンセントとのお茶会から数日後。

 それは、夏の終わり――まだまだ残暑の厳しい午後のことだった。

「全く……ダンスなんて踊れなくても、社交は出来ると思わない?」

 ぶつぶつと不機嫌につぶやきながら、ミレニアはロロを伴い、皇城の隅を歩いていく。

 この後、彼女の大嫌いなダンスレッスンがあるのだ。建物の配置上、どうしても練習場に行くには、紅玉宮を一度出て、兄たちの居る皇宮の敷地内を歩かねばならない。憂鬱な気持ちも加速するというものだ。

「ねぇロロ。お前はずっと私の練習を見ているでしょう。少しは上手くなっていると思うかしら?」

「…………最初の頃よりは、体力がついたのではないでしょうか」

 主の問いかけに、黒衣の従者が控えめに答える。ミレニアはわかりやすく顔を顰めた。

「……お前は、本当にお世辞というものが苦手なのね」

 すぃっ……とロロの視線が無言で移動する。はぁっ……とこれ見よがしに重たいため息をついてから、ミレニアはこめかみに手を当てた。

「まぁいいわ。嘘を吐かれるよりもよほどマシ。いつか、お前に「上手になった」と言わせて見せるから」

 未だにガント大尉の足を踏むことなく一曲を踊れないミレニアにとって、それは険しい道のりだった。本当に、才能が皆無であるとしか言いようがない。

 ガントが足の痛みに耐えかねて離脱すると、大抵傍に控えているロロが相手役を務めることになる。毎度嫌そうに顔を顰めてからやってくるロロは、ミレニアを眺めているだけで陰で練習などしているはずもないが、急に役割を振られても当たり前のように完璧に踊って見せるのがまた憎らしい。――そして、毎度苦悶の声を漏らすガントと異なり、足を踏み抜いても眉一つ動かさず声一つ漏らさぬ彼の奴隷根性が、さらに憎らしい。

「最近は、乗馬を楽しむ貴婦人も多いそうよ。――挑戦しようとしたら、お前に止められてしまったけれど」

「……落馬は時に、命に関わるので」

「有事の際に備えて、乗れるようになっておいた方がいいと、最初はお前も賛成してくれたじゃない」

「――――……練習で命を落とされては困ります」

「……お前は本当に正直ね……」

 最初に挑戦しようとしたときに、運動神経が皆無のミレニアはあっさりと落馬の危機にさらされた。――それも、何度も。

 馬で駆けることが出来ないなどと言うレベルではない。誰かが手綱を引いた状態で上にまたがっているだけにもかかわらず、馬が歩き出した途端に鞍の上でバランスを取れず転げ落ちる始末だ。何度、傍に控えていたロロが、スライディングする羽目になったかわからない。

 ミレニアが馬に乗っていられるのは、同乗者が身体を支えていられる時だけだった。乗馬用の講師にと呼び寄せた男は頭を抱え、やむを得ず乗馬を習うのは諦めたのだ。

「有事の際には、俺が抱えて乗ります。お許しください」

「それは構わないけれど――……なんだか悔しいわ」

「頼むから、命に関わるようなことはしないでください。――寿命がどれだけあっても足りない」

 乗馬の練習中、頭から真っ逆さまに落ちたときのことを思い出したのだろう。ロロが苦い顔で呟く。

 あの時は確かに、いつも能面のような顔のこの美青年が、蒼い顔で地面ギリギリで抱き留めてくれなかったら、危険だったかもしれない。余程肝が冷えたのか、下敷きにした黒衣の下で、彼の心臓がバクバクと聞こえるほどに音を立てていたのを、よく覚えている。

(マントを纏っているから、普段あまり気にしていないけれど――すごく、鍛えているのよね)

 ちらり、と青年に目をやる。ダンスの練習でふいに手を触れたり、落馬から救ってもらうためにがっしりと抱き留められたり、ふとした瞬間にロロの身体に触れると、その鍛え抜かれた鋼のような身体に驚くことがある。性奴隷にしても花形だっただろうと言われるほどの涼やかな美貌に似つかわしくないその体躯は、剣闘を生業としていた時から変わらず、無駄な筋肉など一つもない美しい身体だ。

(有事の時でもない限り、ロロが私に自分から触れてくることは絶対にないし――この男は、いつも私の視界に入ることすら控えているから、つい忘れかけてしまうわね)

 生まれて初めて彼を見たあの日に、剣闘場のど真ん中で、観客全員がハラハラするような命のやり取りをしていた、鍛え抜かれた最強の剣闘奴隷と、今目の前にいる寡黙な男が同一人物であることを。

(あんなところで命を散らしてほしくない――そう思って、買い上げたのに……私は、「彼のために」と言って、彼を戦場に立たせようとしている――)

 北方地域への上申が好意的に受け止められたのを思い出し、軽く眉根を寄せると、専属護衛は目ざとくその表情の変化に気づいたようだった。

「?」

「……何でもないわ。行きましょう」

 相変わらずの寡黙さで、言葉ではなく視線だけで問いかけてくる護衛に嘆息して、ミレニアは再び足を進めると――

「久しぶりだな、ミリィ」

「――――!」

 後ろから掛けられた声に、ハッと驚いて足を止める。夜空色の髪が、振り返ると同時に空に舞った。

 振り返った先にいたのは――軍最高位である元帥の階級章を胸に着けた、精悍な顔つきの男。傍に控えていた従者に何やら合図をして、少し離れたところに下がらせている。

「ゴーティスお兄様――……」

 ミレニアは呟き――

「――――じゃない。ザナドお兄様、ね」

「ほう。さすが、私の妹は優秀だな」

「ありがとう、お兄様」

 わざわざ従者を下がらせたのは、人払いの意味だろう。公の顔である「ゴーティス」ではなく、「ザナド」としてミレニアに話しかけたいと思ったためだとすぐにわかった。

(第一――ゴーティスお兄様だったら、私をこんなに穏やかに「ミリィ」だなんて呼ばないわ)

 本物のゴーティスが呼ぶときは、揶揄するように、あるいは忌々しそうに、当てつけのように呼ぶ。家族しか呼ばない愛称は、呼びかける者との親しさで、全く異なる響きを持ってミレニアの鼓膜を揺らすのだ。下卑た嗤いすら伴うゴーティスの声と、今目の前にいる穏やかなザナドの声の違いをまざまざと思い出し、少女は軽く顔を顰めた。

 もとより、ミレニアがすぐに気づくことは想定の範囲内だったようだ。ザナドは軽く顎に手を当てながら、妹を頭の先からつま先まで軽く見つめて口を開く。

「少し見ない間に、大きくなったものだ。亡くなった父上の第七妃に似てきたな」

「そう?――おかげで、ゴーティスお兄様にはあまり好かれていないようだけれど」

 皮肉を込めて言うと、ザナドはわかりやすく苦笑した。妹の言わんとすることをすぐに悟ったのだろう。

「先日の、会議のことか」

「えぇ。――ザナドお兄様がいらっしゃらなかったせいで、くだらない理由で私の渾身の上申内容にケチをつけられたと聞いています。不本意だわ」

「そう言うな。あの日は、どうにも起き上がれなかったんだ」

 苦い顔で呟くザナドに、ミレニアは嘆息する。――これ以上言い募ることは出来なさそうだ。

 ゴーティスの影であるザナドは、政治的な場所に出るのがその役目だ。

 だが、数年前――各地域の領主や国外の集落の代表者を招いた会食の席で、ゴーティスの皿に毒が盛られる事件が起きた。当然、それは政治的な場。――出席していたのは、ザナドの方だった。

 宮廷お抱えの優秀な薬師や、すでに薬師としての資格を得ていたミレニアの助力もあって、何とか一命をとりとめたものの、どれだけ経っても体調は万全まで回復することはなかった。そのため、事件以降も彼は、継続的に様々な薬を摂取し続けることになった。

 それ以降、時折、ちょっとしたこと――気圧の変化や季節の変わり目など――で、ザナドは体調を崩すことが増えたという。昔は、ゴーティスと引けを取らぬ剣豪だったと聞くが、今は戦場に立つためではなく、身体を健康に保つために、日々剣技を磨いている。

 ミレニアの渾身の上申が審議される会議の欠席理由を、その体調不良だと聞かされては、薬師の資格も持つミレニアとしては責めることが出来ない。

「会議の後、私もお前の施策には目を通した。なかなか、面白そうな施策だな?」

「そう言ってくださって嬉しいわ。――単純な施策の内容について議論してくださるのは、ザナドお兄様くらいだと思うから」

「そうだな。――ギーク兄上は、せいぜいお前を北方地域へ飛ばせるということで賛成しただけだろう。他の奴らも同様だ。カルディアス公爵だけは、苦い顔で無言を貫いていたようだが」

「えぇ。性格は悪くても、頭は切れる人だもの」

「嫁ぎ先の当主に向かって、なかなかの言い草だな」

 くっ……と頬を歪めて笑う顔は、人懐っこさを感じさせる。

 自分の片割れであるゴーティスがミレニアを毛嫌いしている手前、ザナドは決して公の場でミレニアの味方になることはない。――苛烈な性格のゴーティスは、公の場で堂々と何度もミレニアを糾弾しているため、ザナドがミレニアの肩を持てば、強烈な二律背反に、周囲は怪訝な目を向けるだろう。

 ”影”の存在を悟らせぬため、第七皇子ザナドの存在を気取らせるような事象は徹底的に排除する必要がある。故に、ザナドは公の場でミレニアの味方にはなりえない。

 だが――冷静に判断した結果、ミレニアの言うことに理があると思えば、反対はしない。味方にはならずとも、決して敵にはならない。

 敵ばかりの十二人の兄の中で、唯一中立の立場を担ってくれるザナドのことを、ミレニア自身は決して嫌ってはいなかった。


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