30、別離の日①
美しい花々に彩られた紅玉宮の庭園の一画――完璧なティーセットが用意され、一組の男女が向かい合って座っていた。
サワサワと心地よい風が頬を撫でるのを感じながら、女――この宮の主たるミレニアは、ゆっくりと優雅な所作で口元にカップを運ぶ。
「……ミレニア様」
「えぇ」
向かいの席から声をかけてきたのは、帝国貴族らしい褐色の肌と黒髪黒目をした、十八歳の青年――皇女ミレニアの婚約者として白羽の矢が立った、ヴィンセント・カルディアスその人だった。
涼しい顔で茶を飲むミレニアとは正反対に、ヴィンセントは渋面を刻んで酷く不愉快そうな表情をしている。
「先日、父から聞きました。――上申の、件を」
「あら、そうでしたか」
ミレニアは驚いた風もなく、そっとカップを置いて、手にした扇を広げて顔を軽く仰ぐ。――全く、帝国の夏は暑すぎる。一年の半分以上が冬という北方地域がうらやましい。
「……何ですか、あれは……!」
「何、とは?」
軽く微笑みさえ浮かべて、ミレニアは問い返す。ヴィンセントは、わなわなと、怒りに震えているようだった。
「奴隷解放、という意味の分からない施策自体、信じがたいですが――私が行軍の総指揮官となり、貴女を伴って北方地域へと攻め入る、と――!?」
ピクリ
ミレニアのすぐ後ろに控えていたロロが、小さく反応するのが分かった。気配でそれを感じたミレニアは、緩やかに唇に弧を描かせ、悠然と口を開く。
「えぇ。公子は、未来の領主様ですもの。帝都と北方地域はかなり離れていますから、侵略成功の報を待ってから移住を開始すれば、かなりのタイムロスです。どうせ手中に収めれば移住せざるを得ないのですから、侵略ついでにそのまま移住してしまえばよろしいではないですか。――どこに問題が?」
「問題だらけです!何を――何を、お考えか!?気でも触れたのか、貴女は――!」
テーブルの上で固く握られた拳が、真っ白になってカタカタと震えている。さすが上級貴族の筆頭たる公爵家の出自は伊達ではない。乱暴に感情に任せてその拳を机に振り下ろさないだけ、理性的と言えるだろう。カルディアス公爵は、嫡子でないヴィンセントにも、貴族としての、あるいは紳士としての振る舞いの最低限の基礎だけはしっかりと叩き込んだらしい。
ふぅ、とミレニアは静かに吐息をついて、瞳を伏せる。漆黒の睫毛に彩られた翡翠が陰った。
「公子。どうか、感情ではなく、論理的に反論をお願いできますか?」
「なっ――!?」
「貴方の不安はどこにあるのでしょう。戦場で生き残る武力ですか?――貴方は長く戦士としての訓練を受けているでしょう。最低限の身を守る術は持っているはずですし、そもそも指揮官は最前線に出ません」
「っ……違う、そのような――」
「では、軍を率いる指揮官としての能力が不安ですか?――大丈夫です。そこは妻である私が補佐いたします。私が帯同するのもそういう理由ですもの。私が学んだ兵法は、あの『侵略王』の異名を持つお父様直伝です。そこらの将校などより、よほど機を見るに敏な指揮をして見せます。ヴィンセント殿は、本陣でふんぞり返っていらっしゃるだけで結構だわ」
「な――!?」
ギリッ……とヴィンセントの拳が握られるのと、ぴくっ……とロロが動いたのは同時だった。ミレニアは、静かに手を上げて控える護衛を制しながら、言葉を続ける。
「それとも、お優しい公子殿は、女の身で戦場に赴こうとする未来の妻の身を案じてくださっているのかしら?――それもどうぞ、ご心配なく。私を守るのは、泣く子も黙る軍国主義国家イラグエナム帝国において、国家最強の武を誇る男です。いわば、この国の中で――いえ、この大陸の中で、一番安全を保障されているのが私ですのよ?仮に戦場のど真ん中で指揮を執ったとて、私にはかすり傷一つつくはずがないわ。――そうよね?ロロ」
「はい。必ず、御身をお守りいたします。この命に代えても」
「っ……!」
有無を言わさぬ冷ややかな呼びかけは、まさに女帝と呼ぶにふさわしい。主の言葉に、従順に礼をし、変わらぬ忠義と隷属を示す専属護衛の姿に、ヴィンセントは歯噛みしながらぐっと息を飲んだ。
改めて思い知る。
この、最強と名高い元剣闘奴隷が主従関係を結ぶのは、世界でただ一人、ミレニアのみだ。
仮に、彼女が正式にヴィンセントの妻となったとて――屋敷に迎え入れたとて、ロロが命を賭して守るのはミレニアの身のみで、ヴィンセントや他の者たちがその恩恵に無条件で与れるわけではない。もし与れるとすれば、それは、ロロが唯一の主と認めているミレニアに「家人を守れ」と明確に命令を下されたときだけだろう。
ブルブルとわななくようにして押し黙ってしまった未来の夫を見て、ミレニアはハタハタと扇を優雅に顔の前ではためかす。
「私が聞いたお話では、上申内容は、ギークお兄様を含め、比較的好意的に受け止められたと伺っておりますわ。病床のお父様も、施策内容を見て笑ってくださったとか。――すでに前向きに検討がなされようとしている案件と言うのに、ヴィンセント殿は、何が不安なのでしょうか」
呆れたように、チラリと視線をやる。カァッとヴィンセントの褐色の頬が怒りで赤く染まった。
(いい加減、淑女を演じ続けるのも面倒だと思っていたところなのよ。ちょうどいいかもしれないわ)
ふぅ、とため息をついて、冷ややかな視線を送る。――こんな一面を、公子の前で露骨に出すのは、二人の婚姻が決まってから初めてのことだった。ヴィンセントが面喰い、戸惑い、怒りをにじませるのも当然だろう。
これまでは、常にミレニアは笑顔を絶やさず、当たり障りのない会話をし、ヴィンセントの話に耳を傾け――その実、右から左に流しながら――害のない扱いやすい皇女、という仮面をかぶってきた。
だが、ミレニアが上申した内容が、思いのほか好意的に受け止められたのだ。ならば、このヴィンセントが北方地域の領主となる可能性が出てくる。
お世辞にも、彼は過酷な地方を治めるに足る領主としての実力も、心構えも、どちらも備えているとはいいがたい。ならば、ミレニアが彼の領土運営を補佐する他ないだろう。「扱いやすい皇女様」の仮面は邪魔になる。
この施策が成るのであれば、失敗など、決して許されない。
これは――今、ミレニア斜め後ろで、直立不動で控える美しい男の、人生を豊かにするための施策なのだから。
「こんなもの――こんなもの、ただの、体のいい厄介払いではないか……!」
「奴隷たちのことを言っているのですか?それとも――領主となる、ご自身のことかしら?」
ぐっ……とヴィンセントは一度言葉に詰まった後、ギリリと奥歯を噛んで、ゆっくりと口を開く。
「私と、貴女のことです、ミレニア様――!ギーク様をはじめ、皇族の方々が好意的にこの施策を受け止めたのは、奴隷を侍らし皇族の誇りを穢した貴女を、体よく厄介払いできる施策だと思ったからに他ならない――!」
ピクリ、とロロの頬が小さく揺れる。ミレニアは、軽く手を上げてロロを制した。
「作物も実らぬ過酷な自然を相手に、莫大な年月をかけて土地を開拓するなど――カルディアス公爵家が乗り出す必要性が、どこにある……!?」
「……そうかしら。このままいけば、せいぜいが軍上層部への就任、という程度の道しか残されていない公子が、己の領地を持つことが出来るのですよ?あの地域には、希少な鉱石が取れる金脈があるのも確実。開拓後に得られる収入は計り知れない。それに、今かの地にあるのは、一つ一つは小さな集落ですが、まとまればそれなりの人口があります。うまく治めることが出来れば、小国家並の発展が見込めるでしょう。――それを、カルディアス公爵家に連なる者が、永年率いていくのです。三つの公爵家のうち、頭一つ――いえ、三つ以上抜きん出ることは確実でしょう。貴家の長い未来を考えたとき、利がないとは思えませんが」
「だが――」
「その証拠に――カルディアス現当主は、議会の場で施策案が発表されたとき、賛成も否定もせず、考える時間が欲しい、と引き下がったと聞いておりますけれど?」
「っ――!」
現在のカルディアス当主は、酷く頭の回る男だ。冷静に損得を計算し、短期的に見れば不利に思えても、長期的に莫大な利になるようなことであれば、大胆に決断を下せる、優秀な男だ。
そう――誰もが敬遠していたミレニアとの婚姻に、絶妙なタイミングで手を上げるくらいには。
(ヴィンセント殿は三男だから――貴族としての振る舞い以外の教育を熱心に施されなかったのかしら?あの、情の欠片もなさそうな、頭の回転が速いカルディアス公爵の血を引いているとは思えぬ男よね)
過去、何度か相まみえたことのあるカルディアス当主の風貌を脳裏に描きながら、ミレニアはため息を吐く。ロマンスグレーが印象的な現当主は、義理人情などという言葉と最も遠い所に位置する、冷静に家のために最良の決断を下し続ける理性的な男だ。感情論で動くことはほぼなく、時に狡猾、卑怯、と謗られることもある、蛇や狐に喩えられる風貌を持った初老の男。
お世辞にも性格がよいとは言えないが、それでも論理的でまともな対話が出来るという観点では、ミレニアはカルディアス当主のことをそれなりに買っていた。
故に、彼と同様の能力を期待して三男であるヴィンセントとの婚約を了承したのだが、こうして月に一度、定期的に彼とお茶会を開催するようになって、感情で物事を考え、長期的な視点を持つことが出来ぬ小者であることがわかり、がっかりしていた。
(病床のお父様の気を揉ませるようなことはしたくない――とはいえ、なかなか、前途多難な結婚相手であることは確かよね。早めに本性を出しておいて正解だったかもしれないわ)
最近のギュンターは、意識を覚醒させることすら少なくなってきているという。珍しく覚醒したタイミングで、ミレニアの上申した策を聞いて、「ミレニアらしい」と笑ったのが、数か月ぶりの笑顔だったというくらいだ。その知らせは、彼の病状の深刻さを何より雄弁に物語っていた。
「ですがっ……あの、ゴーティス殿下が難色を示されたのですよ!」
「――ゴーティスお兄様が……?」
怒りに震えながらも、丁寧な敬語を崩さないのは、いくら未来の妻とはいえ、まだミレニアが皇女の位にいるせいだろう。激昂を隠し切れぬ口調の中でも、皇族に対する振る舞いという最後の理性を保てていることは評価しながら、ミレニアは口の中で怪訝そうに呟く。
ゴーティスは、第六皇子だ。皇位継承権争いからはやや遠いところにいる彼は、昔から帝国軍人としての厳しい教育を成され、『侵略王』ギュンターの右腕として名高い。
ギュンター治世の最後の大規模侵略であるエラムイド侵攻の際、たくさんの功績を残し、『軍神』と綽名されるまでになった男だ。
(おかしいわね……会議に出ていたゴーティスお兄様が、あの施策を見て、反対などされるはずがない……十二人のお兄様の中では、一番私の才を認めてくれている方なのに)
扇で顔の半分を隠しながら、ミレニアはゆっくりと頭を巡らせた。




