24、【断章】幸せな日々
パン パン
ガランとした部屋の中、手拍子の音が響く。
「はい、そこでターンですっ」
「ぅぐっ……」
とても優雅とは言い難いうめき声をあげて、ターンしようとしたミレニアは、失敗して無様によろめいた。
「もうっ……姫様……どうしてあなたは、そうも運動神経が壊滅的なんですか」
ダンス講師のドゥドゥー夫人は、はぁ……と憂鬱そうに特大のため息を吐いた。
「しょっ……しょうがないでしょう!?ず、ずっと、座学ばかりだったんだもの……」
十二歳の誕生日を迎えたのは、つい最近。少しずつ愛らしさから美しさへと面影を変えていくミレニアは、もごもごと口の中で言い訳をする。
何せ、十歳になるまで、ずっと教育課程の全てを座学につぎ込んでいたのだ。ダンスも乗馬も、何もかもの過程をすっ飛ばして。
昔から神童と呼ばれ、酷く大人びていたミレニアは、かけっこをして遊ぶなどという習慣もなかった。そんな時間があるなら、ギュンターにねだって紅玉宮の中に作ってもらった専用図書館に入り浸って本を読んでいたかった。
おかげで、ダンスはもちろんのこと、ただ走るだけでも鈍くさいと言われる羽目になってしまった。
(……有事の際は、姫に走らせず、俺が担いで逃げた方が良さそうだな)
護衛として部屋の隅に控えているロロは、冷静に無情な判断を下す。
少なくとも、彼女に走る才能はなくていい。――何かから走って逃げなければならない事態の時は、ロロが何を犠牲にしても必ず助け出すからだ。
「全く……ダンスのカリキュラムをなかなか始めていただけないと思っておりましたら……まさか、ここまでとは……」
「ぅっ……」
ロロを手に入れてから、淑女としての教育課程の遅れを取り戻すことになり――ミレニアは、真っ先に座学を詰め込んだ。美術史や音楽史、お茶会の礼儀作法などである。神童と呼ばれる彼女は、それらは難なくこなしていたのだが、なぜかダンスだけは「……もう少し経ってからでいいでしょ」などと言って後回しにしていたのだ。
ひとえに、これ以上ない苦手意識があったためらしい。
(……意外だ。姫にも、子供らしいところがあったんだな)
いつだって大人びた振る舞いで誰にでも堂々と隙を見せないミレニアのそれは、まるで好き嫌いをして苦手な食べ物を残そうと画策する子供のようだ。ロロは、意外に思いながらレッスンの様子を見守る。
「さぁ、もう一度行きますよ!デビュタントまでに、せめてデビューダンスと、あと数曲は完璧に踊れるようになっておかなければ!」
「ぅぅぅ……」
ドゥドゥー夫人は、きびきびと声をかけた。四十半ばの声を聞く彼女の身分は子爵夫人だったが、実家が伯爵家だったため、皇女の教育者として十分と判断されて任命されている。
どちらにせよ、皇帝の寵愛を受けるミレニアにこんなに厳しく接することのできる教育者は少ない。座学の教師たちが見たら驚きのあまり泡を吹いて倒れるだろう。……座学に関しては、教師が泣きべそを掻きたくなるほどミレニアが優秀だったせいかもしれないが。
「ドゥドゥー夫人は、スパルタだわ……」
「姫様を立派な淑女にするためですよ!さぁ、立って!背筋はまっすぐ、視線を上げて!」
「ぅぅ……」
不興を買えば、お家取りつぶしすらあり得る状況で、ドゥドゥー夫人は決してミレニアを甘やかすことはしない。ミレニアは、そんな夫人を嫌うどころか、むしろ好ましく思っていた。
「はい、そこでワン、ツー、ステップ!」
「ぇ、ぅ――ひゃぁっ!?」
「ぐぅっ……!」
手拍子に合わせてステップを踏もうとしたところで、思い切りダンス相手の足を踏み抜いてしまう。くぐもった低い呻きが聞こえた。
男役になってくれているのは、普段ミレニアの護衛を務めることも多いガント大尉だ。侯爵家の五男坊で、結構な歳だが、もともと子供好きらしく、幼いころからミレニアの愛らしさにギュンターと一緒になって目尻をとろけさせては護衛を務めてきた。第二の父親のような彼は、一流貴族の家に生まれただけあって、最低限のたしなみとしてダンスの心得は十分ある。
「ご、ごめんなさいガント大尉……」
「いっ……いえ、姫様のためならば、なんのこれしき……」
熊のように大柄な身体から響くくぐもった声は、微かに震えている。――それもそうだろう。今日だけで、攻撃力の高そうな高いヒールで、もう何度も何度も足を踏まれている。足がパンパンに腫れていたとしてもおかしくはない。
「あとでおまじないを掛けた軟膏をあげるわ……足に塗って、早く治して」
「はっはっはっ……姫様お手製の薬をいただけるとは、何たる光栄。それもあの”おまじない”を頂けるとは」
朗らかに笑ってくれるのが幸いだが、明らかに無理をさせている自覚はある。しゅん、とミレニアは落ち込んで肩を落とした。
「全く……ガント大尉の足が限界ですね。練習は一度休憩しましょう。薬師のところへ行って、軟膏をもらってきます」
「あっ……ありがとう」
「姫様は、今のところをしっかり復習しておいてくださいね!」
夫人の厳しい声に、ミレニアは苦虫を嚙み潰したような顔で呻く。
「ははは……では、私めが、手拍子をして差し上げましょう」
「ありがとう、ガント大尉」
はぁ、とため息をついてから、姿勢を保つ。
パン パン
「はい、そこでステップ」
「っ、こう!?」
「少し遅いですな」
「ぅぅ……相手がいないとわからないわ……」
もにょもにょ、とミレニアが泣き言を漏らす。ガント大尉は困った顔をした後、そうだ、と声を上げた。
「――ロロ殿」
「――――――」
声を掛けられ、ロロは視線で問い返す。
気さくな熊のような護衛兵は、屈託のない笑顔で、奴隷紋が刻まれた青年に話しかけた。
「そなた、ダンスの心得はないか?」
「…………あるわけない」
「まぁそうか。……だが、このスリーステップだけ、付き合ってくれんか。何、男役は大したことはしなくていい」
「…………」
ぎゅっ……とロロの眉間にしわが寄る。あまり気が進まないのだろう。
ガントは、もともとの明るい性格故か、ミレニアを溺愛するせいか、ロロへの偏見を解消したのが一番早かった護衛だ。その彼が頼んでもこの表情ということは、本当に気が進まないらしい。
「お願い、ロロ。私からも頼むわ」
突っぱねられるのを承知で、ダメもとでミレニアも懇願する。ロロは、すぃっと視線をいつもの位置へ下げた。
「――――……姫に、俺ごときが、手を触れるのは」
「?」
「とても――恐れ多くて」
「「………………」」
ガントとミレニアは、そろって口を閉ざす。
(あぁ――そうだった。そうだったわ。ロロは、こういう男よね)
奴隷根性がどこまでも染み付いているロロは、基本的にミレニアの隣に並ぶことすらしない。何なら、視界にすら入ってこない。
理由を問えば、簡潔だった。
――汚らわしい自分のような存在が、清廉なミレニアの存在に近づいて良いはずがない。
そんなことを、真顔で、真剣に、何一つ疑うことなく、息をするように言ってのける男なのだ。
隣に並ぶどころか、直接手を取る必要のあるダンスの相手役など、彼にとってはとんでもない事態だろう。
「いいの。私が許可するわ。とても困っているの。――ロロ、こちらへ来なさい」
「――――……」
命令されては、従わないわけにはいかない。ロロは、眉間にこれ以上なく深いしわを刻みながらも、静かにミレニアへと近寄った。
「手を取って」
「――――……」
差し出された、白魚のような美しい手を前に、ロロは一瞬眩しそうに目を眇める。
「……ロロ」
促すようにもう一度言うと、恐る恐る、ロロはその手を取った。いつもの無表情が、どこか苦し気に歪んでいる。
しかしミレニアは、取られた手を見て満足そうに頬を軽く上気させて笑った。
「さぁ、それではまいりましょう!」
熊のような男の明るく野太い声が飛び、パン、パンと手拍子が開始される。
「行きますよ?……はい、ワン、ツー、ステップ!」
「っ、く……!」
ドンッ……
「――――……」
「ご……ごめんなさい、ロロ……」
思い切り、ヒールの一番痛そうなところで遠慮なく踏みぬいた気配に、ミレニアはいたたまれない顔を返す。
それはそれはいたたまれない。
――ヒールで踏み抜かれたくせに、眉一つ動かさない、奴隷根性が染み付いた従者が、いたたまれなくて。
「……痛くありません。お気になさらず」
「嘘よ!」
「姫は、羽のように軽いので」
「っ……!」
さらっと、眉一つ動かさず、表情筋を死滅させたままでそんなことを言われても、ときめかない。――ときめかない。たぶん。きっと。
感情が読めない紅玉の瞳が、一、二度瞬きをしてミレニアを見た後、そっと控えめに口を開く。
「……二つ目の足が、遅いんだと思います」
「ぇ?」
「だから、三つ目でステップが踏めない」
「――――……」
ぱちぱち
翡翠の瞳が、驚いたように何度も瞬く。
「……申し訳ありません。――お手を、触れても?」
「へっ!?」
そ、と軽く腰に腕を回され、ドキン、と胸が高鳴る。
「おぉ、いい感じですな。では、もう一度行きましょう。……はい、ワン、ツー」
ぐっ
「ひゃ――」
力強く身体を支えながら手を引かれ、強制的に二歩目が出る。
「ステップ!」
「っ!」
必死に、ミレニアは無我夢中で教えられたステップを踏んだ。
「すごい!そこで、ターンです!」
「へっ!?わっ――!」
「――――……」
ぐぃっ
スリーステップだけ、と言っていたはずなのに、勝手に続きまで踊らされて驚くミレニア相手に、ロロは顔色を変えることなくそのままくるりとターンをエスコートする。
ふわり……とミレニアの美しい黒髪が、周囲に舞った。
「す――すごい、すごいですよ姫様!完璧でした!今のステップです!」
「あ……ありがとう……」
ドキドキと全力疾走している心臓をなだめながら、必死に息を整える。するり、とロロはあっさりとその手を解放すると、いつも通り視界から離れた。
「ろ、ロロっ……!」
「踊れたのなら、俺は、これで」
頭を下げてしまう専属護衛は、どこまでもミレニアに触れることを忌避するらしい。むぅっとミレニアは口を尖らせた。
「いやぁ、ロロ殿。ダンスの心得がないとおっしゃっていた割に、きちんと踊れていましたよ」
「…………まぁ……あれだけ何度も、見ていれば」
運動神経という観点を切り出せば、ロロほど優れている者はいない。ミレニアのレッスンを見ていただけで覚えた、ということだろう。
「いや、それにしてはリズム感もばっちりでした。音楽の心得が?」
「…………それなり……に。奴隷は、やれと言われればなんでもやるので」
すぃっとロロは気まずそうに視線を下げる。あまり良い思い出がないのかもしれない。
「これからは、ロロに練習相手をお願いしようかしら」
「……勘弁してください……」
意地悪そうな顔で呟くミレニアに、ロロは珍しく顔を歪めて、苦い表情を返す。
第二の父親のような明るいガントがいて、厳しく指導してくれるドゥドゥー夫人がいて。休憩時間になれば、マクヴィー夫人が優しい瞳でお茶を入れてくれる。
そして何より――大切な大切な、紅蓮の騎士が、いつも、いつでも、常に傍にいる。
それは、間違いなく――ミレニアの人生で、一番幸せな日々に、違いなかった。




