19、瞳の宝石②
それは、のどかな春の昼下がりだった。
いつも通り、酷く穏やかで、危険など殆どない皇城――その中でも、皇位継承権第一位のギークの幼少期とは比べ物にならないほど、護衛の兵士が割かれた紅玉宮。一体どれだけ過保護なんだ、と父にツッコミを入れたくなるところだが、年々亡き母の生き写しと言っても過言ではないほど面差しが似てくるミレニアを前にしては、これ以降も加速することはあっても衰えることはないだろう。
今、専属護衛のロロは休憩時間だ。今頃は、また、皇城の中を歩き回っては余念なく有事の際のシミュレーションをしていることだろう。――こんなに平和な皇城の中でどうしてそこまで、とも思ってしまうが、ミレニアへのひたむきな献身はもはや彼にとっての生きがいに近しいのだから、止めることも出来はしない。
もしもどこかで貴族とすれ違えば心無い言葉を吐きかけられ、嫌味な態度を取られて不愉快な思いをするだろうとミレニアが気を揉んでも、彼は気にした素振りもなく当たり前のように皇城散策へと繰り出していくのだから困ったものだ。
「――です――これは――で――」
ぼんやりと、今ここに無い紅玉の美しい瞳を思い描いていると、目の前のでっぷり太った男の声すら遠い。
「――という訳です。ミレニア様、いかがでしょうか」
急に名前を呼ばれ、ハッと意識がクリアになる。
「ぇ……?あ、えぇ、そうね……」
曖昧に返事をしながら、視線を落とすと、目の前に広げられた物にめまいを覚えた。
そこに広がるのは、キラキラと眩い光を放つ、色とりどりの宝飾品の数々。今、ここにある宝石を換金したら、いったいどれだけの額になるのだろうか。
(全く――どうして、こんなものに世の中の令嬢たちは、必死になってお金をかけるのかしら。意味が分からないわ……)
流行の宝石が、デザイナーが、職人が――
ロロを手に入れる代わりに、と父と約束したため、この一年、今まで一切交流のなかった貴族の令嬢たちと、何度かお茶会を開いた。そのたびに、彼女らが熱に浮かされたように何時間もぺちゃくちゃと語るそれらの話題に、ミレニアは全く以て興味を示すことが出来ない。神童と呼ばれた頭脳も、興味がないことには覚えが悪いのか、何度令嬢たちから最新の流行を聞いても、全く覚えることが出来なかった。――政策や帝国の歴史に関する書物ならば、一度目にすればすぐに覚えてしまえるのだが。
チラリと目の前の男に視線をやると、媚びを売るようなあからさまな笑みを浮かべられ、辟易した気持ちになる。彼は、皇室お抱えの宝石商――近々行われる、帝国建国祭で身に着けるための宝飾品を選べ、というのが今日のミレニアに与えられたミッションだ。
「……マクヴィー伯爵夫人は、どう思うかしら?」
「は……わ、私ですか……?」
傍に控えていた、筆頭侍女に話を振る。齢四十の声も近いおっとりした夫人は、眼鏡を押し上げてうろたえた声を上げた。
「ミレニア様は、どのような宝石も似合いますから、お好きなものをお選びになればよろしいかと」
「お好きなもの、ねぇ……」
そんなものはないのだから困っている。
皇族が使う財源は、もとは全て国民から集めた税金だ。他人が汗水たらして働いて収めた税金で、己の身を飾り立てるだけの宝飾品に、巨額を払うのは気が引ける。
「皇女殿下のお好きな石はございますか?色でも構いません。おっしゃっていただきましたら、私めが殿下に最もふさわしい宝飾を選んで差し上げましょう」
「…………好み、という話ならば、紅玉が一番好きだわ」
ミレニアが渋々、といった様子で告げると、ぱぁっと商人の顔が輝いた。
「それでしたら、このあたりが――」
「だけど、もう間に合っているの。唯一無二の紅玉の飾りがあるから、私はそれを身に着けさえすれば十分」
商人の言葉を遮りながら、首に掛けられた飾りをひと撫ですると、男はうっ……と言葉に詰まった。
それは、大きさをとっても、輝きをとっても、宝石の周りに施された金細工をとっても――どこからどう見ても、ケチの付けようなどない、完璧な宝飾と言わざるを得ない代物だった。間違いなく、紅玉を使った宝飾品というカテゴリの中では、最も上等なものだろう。
今日、商人が持ってきた宝飾品の中に、彼女の首飾りを超える上等な商品はない。商人泣かせな発言をしたミレニアは、ふ、と小さく嘆息して瞳を伏せた。
幼いころから繰り返したせいで、もはや無意識の癖となってしまったいつもの仕草で、そっと首飾りの紅玉を指で軽く辿るように撫でる。
(私には、お母さまが遺して下さったこの首飾りが一つあればいい)
指の先からは、冷たく硬い感触が伝わってきた。
(ロロも、いつも傍にいてくれる。――私はもう、これ以上素敵な宝石など必要ないのに)
ふ、と思考の隙間に入り込んでくるのは、やはりあの美しい紅玉の瞳の青年だった。
世の中の令嬢たちが、美しい宝石を手元に集め、眺めるのを楽しむのは、ミレニアがロロの瞳を覗き込む気持ちと同じなのだろうか。
――それなら、理解が示せなくもない、とミレニアは一人胸中で呟く。
あの、目に見えぬ不思議な力に導かれるようにして、ずぅっと美しい光を眺めていたくなる気持ちは、とても理性では抗いがたいものだからだ。
「えぇと……そ、それでは、別の――そうですね、殿下の瞳と同じ色の宝石はいかがでしょう。こちらの翡翠は、とても上質で職人の加工も美しく――」
必死に気まずい空気を払拭しようとペラペラと必死にまくしたてる男を見て、ミレニアはもう一度嘆息した。
「翡翠は、わざわざ買うまでもなく、贈り物として無数に頂いているの。むしろ、処分したいと思っていたくらいよ」
「ぅっ……」
「瞳と同じだから、どんなドレスとでも合わせやすいだろう――って、皆同じことを思うようね。お前と同じで」
「ぐ……」
「ミレニア様。……商人がお困りですわ」
マクヴィー夫人が控えめに声をかける。ミレニアはこめかみを抑えて重たいため息を吐いた。
「悪いわね。お前が悪いわけではないのよ。ただ――今までの人生では、自分で宝石を選ぶことなど、なかったの。頼んでもいないのに、勝手に贈り付けてくる人たちが無数にいたから」
「そ……そうでしょうとも。皇女殿下の美しさは、天下に比類ない、まさに”第二の傾国”――」
「まぁそれも、去年までの話にすぎないけれどね。――今年の誕生日は、とんと贈り物が減ったのだから、人々の関心とはとても分かりやすいものだわ」
「――――ミレニア様。……また、困らせておりますわ」
「あら、ごめんなさい。ついうっかり、ね」
夫人の控えめな指摘に、ミレニアは口を噤んで扇で軽く口元を覆う。商人は気まずそうに脂汗を垂らしながらうつむいてしまっていた。
「ミレニア様。次の建国祭には貴族たちも数多く皇城に招待されるでしょう。……少しでも素敵な装いをして、ミレニア様を印象付けなければならないのでは?」
「はぁ……夫人は、いつも正論を優しく突き付けてくれるわね。――そうよ、その通りよ。だから憂鬱なの」
心優しい優秀な筆頭侍女の言葉に、ミレニアは眉間にしわを寄せてうめいた。
ロロを買い上げ、専属護衛として傍に控えさせるようになって一年――
ミレニアの周りは、手のひらを返したように、露骨に態度を変えてしまった。
それまでは、ミレニアの優秀さを歯の浮くお世辞と共に褒めたたえ、その美貌を幼女相手とは思えぬほど熱心に口説き倒し、あわよくば自分の息子との縁談を結ばせようと、必死にミレニアに取り入ろうとする貴族たちであふれかえっていた。
女帝になるという野心があったミレニアは、そんな貴族に対して常に塩対応を徹底してきたが、つれない十歳の少女を相手に、必死に気を引こうと貢物をせっせと贈り続ける者たちは後を絶たなかった。
だが、ミレニアがロロを傍に置くようになったことで、状況は一変する。
まず、支度金がなくなるという時点で、大半の貴族が手を引いた。残った貴族も、幼い娘がいる家は早々に手を引いて行った。ミレニアが、輿入れの際にはロロを伴う、と明言したせいだろう。愛しい愛娘に、薄汚い奴隷と同じ空気を吸わせることは避けたいと思ったに違いない。
次に、上流貴族の令嬢の行儀見習いに全て暇を与えた件が、事態を加速させた。奴隷の買い上げに続き、中流以下の貴族を侍女として登用するという前代未聞の事態は、彼女の型にはまらない性格と行動力の大きさをしっかりと周囲に印象付けていた。あくまで、社交界での勢力図の拡大を目的としている貴族たちにとって、予想外の動きをされる危険性のある女を身内に抱えるリスクは決して無視できない。
さらに言えば、優秀とほめそやされたその頭脳もまた、ここにきてミレニアの縁談を遠ざける要因となった。皇帝が帝王学を手ずから授けたと噂の、聡い上に高飛車でかわいげのないと評判の少女は、下手に迎え入れれば、自分たちの領地運営にまで口を出しかねない。
ミレニアに残ったのは、”第二の傾国”と呼ばれる美貌だけだ。
ゆえに、ミレニアは、もはや自分の美貌に縋り、「この美姫を手に入れられるなら、他の些末なことなどどうでもいい」と言ってくれる男との縁談を進めるしかないのだろう。
この一年で、手のひらを返した貴族たちを見て、それは痛いほどに理解した。露骨すぎる損得勘定への嫌悪感も、愛を囁く人々の心の無情さも、否応なく突き付けられた。冷静に考えればミレニアを迎え入れることにもそれなりに利があるはずだが、そこまで思い至る貴族も、リスクを取ってでも、と大胆な決断を下せる貴族も殆どいないということだろう。我が国の未来が心配だ、とミレニアは頭痛を堪える羽目になった。
とはいえ、約束は約束だ。ミレニアは何としても、十五を迎えるまでに婚約者を見つける必要がある。マクヴィー夫人の言う通り、次の祭は格好の機会だろう。せいぜい美しく宝石とドレスで目一杯着飾る必要があった。
「仕方ないわね……お前」
「は、はいっ……」
「この中から、比較的上等なもので、私に似合いそうなものを五つ、選びなさい。……選択肢が多すぎて、わからないのよ。お前が選んだその中から一つ、選ぶことにするわ」
「は、はっ……!」
商人は恐縮したように頭を下げて、床一杯に広げた宝飾品の中から、いくつか厳選していく。
それを冷めた瞳で、見るともなしに見つめていると――
コンコン
控えめなノックの音が響く。扉の傍に控えていた護衛兵がすぐに顔を上げて対応した。
「……失礼します」
「ロロ……!」
輝きを失っていた翡翠の瞳が嬉しそうに輝き、ぱぁっと表情が明るくなる。
「ただいま戻りました」
「あら、もうそんな時間?……お前、悪いけれど、少し急いでくれないかしら」
「はっ、はい!」
いつも通り、寡黙な男が無表情で頭を下げたのを見て、彼の休憩時間が終わったことを悟り、予定が押していることを察したミレニアは商人を急がせる。男は、手袋の嵌った太い指で五つ宝石をつまみ上げ、台に載せて恭しくミレニアの目前へと献上した。
「こちらが、上等かつ、華やかで、殿下の御身に身に着けても美しく映える宝飾かと存じます」
「ありがとう。この中から必ず選ぶと約束するから、先に片づけを始めて構わないわよ」
「はっ!恐れ入ります……!」
ミレニアに最上位の礼をしてから、商人はてきぱきと床に広げた宝飾品を片付け始めた。
(紅玉と翡翠を候補に入れてくるのは、念のため、といったところかしら。……金剛石の細工を候補に入れたのは、一番上等というだけではなく、無色透明だから合わせやすいだろうということね。蒼玉を入れたのは、皇族が身にまとうにふさわしい高価な宝石というのと――紅玉が好きと言ったから、蒼玉も気に入るだろう、という安易な考えかしら?右端の黒い宝石は、黒瑪瑙かしらね。……髪の色と合わせた、なんて言いそうね、この男は)
むぅ、と唸りながら台座とにらめっこしていると、視界の端に黒マントが写り込んだ。
護衛の兵の装束として配布されるそれは、ロロがいつもの定位置――ミレニアの斜め後ろにすっと控えたことを意味しているのだろう。
(……そうだ)
「ねぇ、ロロ」
「はい」
定位置から、軽く頭を下げて言葉を拝聴する。――本当に、この一年で、嫌になるくらいしっかりと礼儀作法を覚えたものだ。
きっと、陰で血の滲むような努力をしたであろう専属護衛に苦笑したくなるのを堪えながら、シルバーグレーの旋毛に向かって声をかける。
「お前は、どう思うかしら」
「……は……?」
「この中から、どうしても一つ、選ばなければならないの。――お前は、どれが私に似合うと思う?」
「……俺なんかが、意見を言う立場にはありません。何の宝石を身に着けても、身に着けなくても、姫は世界で一番美しい」
「そういうことではなくて……」
ともすれば歯の浮くような台詞を、無表情のまま、当たり前のように諳んじる青年に、ミレニアは今度こそ苦虫を嚙み潰したような顔をした。――相変わらず、この男は、ミレニアを女神か何かだと思っているのだろうか。
今まで散々、年上の男からのおべっかなど聞き飽きていた。ロロを手に入れるまで、貴族たちは顔を合わせれば鬱陶しいくらいに、甘ったるい美辞麗句を並べ立てて、へらへらと笑ってミレニアを褒め称えた。そのどれ一つにだって、心を動かされたことはない。
だが――眉一つ動かさぬまま発せられる、飾り気のない無骨な元奴隷の言葉に、なんだか心の奥がムズムズとするのは、何故だろうか。
「……宝石、など。……ここに来るまで、目にしたこともほとんどなかった。――俺に、良し悪しがわかるはずがありません」
「良し悪しなんて、聞いていないわ。似合うか、似合わないかを聞いているの」
「姫は何を身に着けても――」
「はいはい、わかったから。もう……お前に聞いた私が馬鹿だったわ」
心の奥のムズムズに耐えかねて、ミレニアは話を打ち切る。どうせ、ロロはミレニアを褒めることしかしない。何があっても全肯定しかしてくれない忠臣は、こういう時に少し不便だ。
ミレニアにぴしゃりと言い切られて、ロロはすぃっと視線を左下へと流す。自分の受け答えが良くなかったというのはわかったのだろうが、何がいけないのかはよくわからない、ということだろうか。
(……宝石なんて、名前も種類も、違いも全く分からないんだから仕方がない……)
ロロは胸中で苦くつぶやく。ミレニアが何を身に着けても美しいというのも、本心だ。
ミレニアは、清廉潔白な泉の中で生まれ、育った清らかな美しい存在だ。その存在の眩さが、美しさが、身に着けるもの一つで変わるはずがない。
――ロロにとって、運命のあの日、彼を迎えに来た少女こそが、世界で一番眩く輝く存在だ。それは、美しいだの美しくないだの、そんなものを超越した、神に等しい唯一無二の存在といっても過言ではない。たとえミレニアが、世界一の醜女だったとしても、ロロは全く同じ台詞を、全くためらうことなく、心からの気持ちとして伝えたことだろう。
(そもそも俺のような奴隷に、姫の装いに関して、何かを言う資格があるはずがない。第一、宝石なんて、どれもこれも、キラキラ輝く石ころということに変わりはな――)
「――――――……」
「……?ロロ?」
台座に視線を落としたロロが、不自然に固まった。




