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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第二章

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17、至上の献身③

 薄々、気づいてはいたのだ。――ミレニアのことを『アンタ』などと当たり前のように呼んで来る時点で。

 それから、根掘り葉掘り彼の知識について聞いていくと――それはそれは、目を覆いたくなるようなことが判明した。

 まず、敬語というものの存在を、ほとんど知らない。「です、とか、ます、とかを付けるやつか……?」とぼんやりと言われたときは、さすがのミレニアも天を仰いだ。

 礼儀作法などもってのほかだ。帝国式の礼の仕方など知る由もない。食事の作法すら、躾のされていない子供かと言いたくなるほどだった。

 読み書きと、簡単な算術だけは可能だと言うのが、せめてもの救いだった。――読み書きができるならば、本を読んで知識を得ることが出来る。

「私のことは、姫、姫様、皇女殿下、殿下、ミレニア様――何でもいいけれど、どれかで呼んで」

「――――……わかった。……ます。……姫」

「――……道のりは遠いわね……」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せてもごもごと呟いたロロに、ミレニアはくらりとめまいを禁じえなかった。

 専属護衛として彼を傍に置きたいと思うなら、当然、公の場にも帯同させることになるだろう。だが、今のままではとても誰かの目に触れるところに出すことは出来ない。

 ミレニアは気にしない、と言ったところで、他の者が気にする。ミレニアへの不敬は、最悪皇女の権力をもってして何とか抑え込むことが出来るかもしれないが、ロロが公の場で他者の、上流貴族やプライドの高い兄たちに対して不遜な態度で振舞えば、うっかりした発言一つで、不敬だといって投獄され、処罰されかねない。さすがに、それを庇い立てするのは難易度が高い。

「私を守りたいなら、教養を身に着けなさい。これは命令よ」

「……わかった」

「かしこまりました!」

「……かしこ、まり、ま…した…?」

 リピートするだけの発音が、これ以上なく不安だ。ミレニアは、額を覆ってこの年長の美青年をどう教育したものか、必死に頭を巡らせた。

 それからの日々は、なんとも奇妙な毎日になった。

 まず、ミレニア自身も、今までとは異なる生活を送ることになるのは、仕方がない。今まで、徹底的に排除してきた、貴婦人としての嗜みと呼ばれることに関する教養科目が必須になるのだ。新しい教師を呼び、今まで帝王学に割いていた時間を全て絵画だの音楽だの踊りだのに振り替えていく。

 そうして、ミレニアが慣れない教養科目にヒーヒー言っている同じ部屋の隅にじっと控えたまま、ロロも眉間に皺を寄せて分厚い教材を何冊も読みこんでいくのだ。護衛が、主と同じ部屋で勉学に励むなど聞いたことがなかったが、スタート地点が想像を絶するマイナスポイントから始まっているせいで、終業後に勉強させるだけではあまりに効率が悪い。

 結果、前代未聞の毎日が送られることになったのだ。

「ロロ、明日は休みでしょう。何をするの?」

「練兵場で体を鍛えます」

「あとは?」

「……勉学をし……す……ます」

「惜しい。でも、最初を思えば、ちゃんと前進しているわよ」

 自身の予定の合間に、突発的にこうして会話を振っては、きちんと練習相手にもなるミレニアに、ロロは渋面を刻む。主の手を煩わせていることがこれ以上なく身に染みて、情けないことこの上ないが、これを避けていては、本来の目的である彼女の護衛としての任を十分に果たせぬと言うのだから仕方がない。

 すぅっと無言で視線を左下へと動かすロロを見て、ふっとミレニアは笑った。

「お前、何か言葉に詰まったり困ったことがあったりすると、そうして瞳を伏せるわよね」

「……そう――です、か……?自分ではわからない」

「癖なのかしら。……ふふ……私は、お前が何を考えているかわかるから、問題ないけれど」

 シルバーグレーの長い睫毛が影を作ってしまった紅玉の瞳を、下からじぃっとミレニアが見上げる。頬を上気させて嬉しそうに微笑み覗き込む様は、彼女が上機嫌であることを示していた。

「……姫は、本当に、俺の瞳を――何度も眺めますね」

「えぇ。大好きだもの。――嫌とは言わせないわよ。お前は私の物だもの」

 冗談めかして言って、クスクスと上品な笑い声を漏らす。そんな笑い方さえ、奴隷の身分だった自分との生きてきた世界の違いを感じさせられ、ロロはもう一度無言で視線を下げた。

「お前は寡黙ね。今は休憩時間よ。もう少しおしゃべりを楽しもうという気持ちはないのかしら」

「……うまく、喋れないので」

「じゃあ、今は敬語じゃなくてもいいわ。特別に許してあげる」

「――――……いえ。このままで、大丈夫です」

 つれない返事を返すロロに、ミレニアは軽く口をとがらせる。彼が熱心に敬語表現をマスターしようとしているのは喜ばしいことだが、初めて出逢ったときのように気安く語り掛けてくれないことを、少し寂しく思ってしまうのは、贅沢なことなのだろうか。

「お前は、献身的過ぎるのよ。休憩のときや、お前が休みの日は、必要以上に私を立てずとも――」

「俺は姫の奴隷だ。――です」

「違わ。二度と奴隷とは呼ばせないと言ったでしょう」

 むっとして否定したミレニアに、ロロはすぃっと左下へと瞳を伏せる。

「…………俺は、姫の――――”もの”、です」

「――――……」

「姫が、学べと言えば、苦手なことも学びます。成せと命じられたことは、どんな手段を使っても成し遂げます。――死ねと言われれば、死にます。俺の身体も、心も、命も、全て――俺が持ち得るものは、余すことなく、全て、全部、姫の物なのだから」

 麗しい顔立ちの青年が、言葉に出来ぬほどの無償の献身を捧げ続けるのは、出逢った頃から変わらない。わざわざ言い直された頑なな言葉は、その忠誠心の強さをこれ以上ないほどに示していた。

(……あれほど強く、死に抗い、生に執着していたというのに、な)

 己の変化に、ロロ自身もまた、戸惑っていた。

 何が何でも生き残ると、毎日を必死に生きていたはずなのに――この少女に出会ってから、そんな望みは自分の中から、一切立ち消えてしまった。

 ただ、少女の望むがままに生きることこそが幸せと感じるようになった。

 それまで万人に忌み嫌われた紅の瞳を、あろうことか”美しい”と表現し、全てを擲ってでも、と望まれたこの身を、彼女の望むままに捧げることこそが、至福だった。

 彼女と出逢ったあの日に、自分が死ぬ覚悟はすんなりと決まった。

 きっと、自分はこの少女の盾となり、死ぬのだろう。彼女のためにこの命を燃やし、彼女のために命を捧げ、彼女の代わりに命を散らすのだ。

 あぁ、それは――何という、僥倖か。

 底なし沼にはまったように、世界の肥溜めの中でずぶずぶと沈んでいくだけだった自分を救い上げ、”人”として扱ってくれた。自分にはもったいない言葉を沢山投げかけ、とても似合わないような美しく高貴な宝物(なまえ)まで与えてくれた。

 その事実を、日々を――彼女が与えてくれた宝物を胸に抱いて、彼女のために死ぬことが出来るなら、それこそが自分がこの世に生を受けた理由なのだろう。

 報酬など無くても、見返りなど何一つなくても、ただただ己のすべてを差し出す――これを、献身と呼ばずして何というのか。

「お前の度を超した献身は、どこか心地よくはあるけれど――でも、勝手に死なれるのは困るわ。言ったでしょう。一生、ずっと、私の傍で、私を守りなさいと」

「――――……はい」

「この美しい瞳を、ずっと、私に向けていなさい。ずっと――ずっとよ」

 十の少女とは思えぬほど、誰もがうっとりと見惚れる笑みを浮かべて、ミレニアが瞳を覗き込む。

 ぱちぱち、と切れ長の瞳から伸びる長いシルバーグレーの睫毛が上下し、風を送った。

「……俺が死んだら、この瞳を抉って傍に置けばいい」

「お前……時々、とんでもないことを言い出すわね……」

 天然なのか、思考回路が常人とは異なりすぎるのか。

 ミレニアは苦笑して、寡黙な美しい専属護衛にため息を漏らしたのだった。


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