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紅い瞳の奴隷騎士は、少女のために命を捧ぐ  作者: 神崎右京
第一章

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13、終わりの始まり②

「っ……ぐっ……クソが……!」

 剣闘が始まる前と同じ、鉄格子の中――奴隷用の控室もどきの中で、口汚く悪態をつきながら、ロロは痛みに耐えて負傷したわき腹を止血していた。ひんやりとした石の床が、容赦なく体温を奪っていき、ぞくりと本能が生命の危機を訴えてくる。

(血を無くしすぎた……頭がクラクラしやがる……)

 ぼろ雑巾でも投げるかのように、ロロをこの部屋へと放り込んだ看守の姿は見えない。ご丁寧に足枷と鎖だけをしっかりと着けてから、応急処置用のキッドを乱暴に投げ入れ、しっかり施錠して出て行ったっきりだ。

 ガシャン……と無情な音を立てて閉じられた鉄格子の向こうに、やり場のない怒りをぶつける。

「クソ……っ!」

 剣闘の最中は、アドレナリンが大量に出ているせいか、痛みを痛みだと認識することはなかった。ただ、灼熱が不快気に疼くだけだった。

 それが、全てが終わって冷静になった途端、このざまだ。悪態の一つもつきたくなると言うものだろう。

 いつもは慣れ親しみすぎて重みを重みとすら感じなくなって久しい手枷が、今は酷く重たく感じる。手枷に着けられた鎖が、じゃらじゃらと耳障りな音を立て、ただでさえ痛みでうまく動けない身体を邪魔していた。

 どうせ、こんな怪我では逃げようもないのにご丁寧なことだ、とこれ見よがしに舌打ちする。

(闘技場お抱えの薬師が来るまででいい……それまで、生き延びれば、いいんだ……)

 額に浮かんだ脂汗を拭うことも出来ぬまま、ぎゅぅっと力任せに止血していく。渾身の力を入れれば、締め付けが強くなるにつれて、痛みがごまかされていく気がした。姿を消した愛想のない看守は、それでも仕事だけは忠実だ。しばらく待てば薬師が来る。それまで生きれば――ロロの勝ちだ。

 ――今日も、生き延びた。

 泥水を啜って、虫けらなりに、足掻いて、足掻いて、生き延びた。

 後どれだけ生きられるのか、そんなことは関係ない。

 ただ――今日を、生き延びた。

 それだけで、十分だ。――奴隷の身には、それだけで。

「…………は……」

 口から洩れる吐息は、やけに熱く、震えていた。座っていることすら苦しくて、ずるずると床へと頽れる。無意識に傷を庇うように背を丸めて転がると、石の床にぴたりと触れた奴隷紋が、吐息と真逆の冷たい感触を伝えてきた。瞳を閉じて、その感触だけを頼りに、何とか闇へ落ちていきそうな意識をつなぎとめる。

 どれくらいそうしていただろうか。

 コツ コツ

(……足音――ずいぶん、軽いな。あの、一番爺の薬師か。クソッ……ツイいていない……)

 地面に横たわったまま腹を抑えた姿勢で、石床を伝ってきた規則的な響きに、ぼんやりとした頭の中で毒吐く。

 硬質的だが随分と体重が軽いことを思わせるその足音は、今まで何度か処置をしてもらったことのある老人の薬師だろう。ベテランと言えば聞こえがいいが、いかんせんあの枯れ木のような震える手では、この出血をしっかりと止めることが出来るかどうか怪しい。出来れば、一度だけ処置をしてもらったことのある、最近入ったという屈強な若い青年薬師に頼みたかった。

 コツコツコツコツ

「……?」

 床に伝わる振動が大きくなり、近づいてくるにつれて、ロロは軽く眉をひそめた。

(音の感覚が狭い。――小走り……?急にどうした、あのクソ爺……)

 今にも天の迎えが来そうな皺々の老人を思い出して、怪訝な顔を浮かべる。今まで、牛歩よりも遅い足並みにイラつくことはあったが、あの老人が小走りで駆けつけようとするような勤労意欲を見せたことはない。天変地異の前触れではないのか。

 背筋が寒いのは、その不気味さゆえか、血を失ったゆえか。そんなどうでもいことを考えながら、気を抜けばすぐに沈んで行こうとする意識を何とかつなぎとめていると――

「――ロロ!」

「――――――!」

 耳に飛び込んできた声音に、パッと意識が一瞬で急浮上する。

「大丈夫なの!?あぁ――待っていて、すぐに手当てをするわ!」

「な――……」

 床に倒れ込み、蹲った体勢からは、鉄格子の外が見えない。血の気が引いて真っ青になった顔を、何とか声の方に向けようと足掻くが、腹部に走った激痛がそれを阻害した。

「っ、つ――!」

「待って、動かないで!……っ……あぁもう、逃げることも出来ない怪我人のところに、どうしてこうも頑丈な施錠がされているのよっ……すぐに改めさせるべきだわ!」

 ガチャガチャ、と鉄がこすれる音がする。――聞き馴染んだ、鍵が錠前に差し込まれるときの音だ。

(な、ん――だと――?)

 鼓膜を揺らした声が信じられず、ゆっくりと、なけなしの力を振り絞って鉄格子の方へと頭を向ける。

 ガチャンッ……と大きな音がして、錠前が外れたのが分かった。

「外れた!――っ、ロロ!」

 小さな手で一生懸命に頑丈な鉄格子を開け放ち、駆け込んでくる小柄な身体を、言葉もなく見つめる。

 見覚えのある、夜空のような漆黒の髪。一目で上等だとわかる華やかなドレス。手には、何やら見覚えのあるもの――闘技場お抱えの薬師に支給される鞄が握られていた。

「っ……酷い出血!傷口を見せなさい!」

「ぐ……」

 容赦なく身体をごろり、と仰向けにされ、痛みが走って顔を顰める。

 眇めた視線の先――心配そうに揺れる、翡翠の瞳がこちらを見ていた。

「な……んの……真似、だ……」

「黙って!あぁもうっ……こんな汚いところで、こんな適当な手当てを――破傷風になっても知らないわよ!?」

 応急手当の止血用の布を煩わし気に取り払った後、ミレニアは鞄の中から小瓶を取り出し、バシャッ……と躊躇なく大量に傷口に振りかける。

「っ、ぐ――ぅ、く……」

「痛いでしょうけれど我慢して。消毒と洗浄を兼ねているの。手当の前に大事な手順よ」

 言いながら、真剣な表情で鞄の中をごそごそと探っているミレニアに、ロロは痛みをこらえながら口を挟む。

「っ……こ、どもが、何を――」

「安心して。薬師の資格試験は二年前、その年の首席の成績でちゃんと合格しているから。ここで働くモグリの薬師たちの何倍も優秀だと約束するわ」

「な――」

「傷口が大きい。縫うわよ。麻酔に代わる何か――……ないわね。このまま縫うしかないかしら」

 鞄をごそごそやっていたミレニアは、医療用の針と糸を探り当て、痛ましげに形の整った眉をしかめる。

「な……ぜ……皇女、が――」

「いいから黙っていて。麻酔なしで縫合なんて、想像を絶する痛みよ、きっと」

 言いながら、どこからかさっと何かを取り出す。――純白に金糸で刺繍が施された、絹の上等なハンカチーフ。

「噛んで」

「な――っ、ぐ!?」

「痛みで舌を噛まないように」

 何一つ躊躇することなく口の中にその綺麗な布を押し込まれ、面喰ううちにミレニアはサッと針と糸を手に傷口へと向き直った。

 そのまま、酷く真剣な横顔で、そっと小さくたおやかな繊手を躊躇なく動かしていく。

「っ……ぐ――――――!」

「ごめんなさい、痛いわよね。ちゃんと後で鎮痛の処方をするから、今は我慢して」

 腹部の痛みに、思わず歯を食いしばると、今まで手ですら触れたことのないような上等な絹が、唾液で穢されていくのがわかった。

(何が、起きて――どうして、こんな――)

 理解のできない現状に、痛みで意味のあることを考えられない。

 肥溜めの中で生きている奴隷に、清廉潔白な清水の泉で生きる皇族が、視線をやることも、声をかけることも、手を触れることも、全てあり得ぬ出来事だ。負傷して瀕死の奴隷を見たとて、ゴミを見る目で捨て置くのが、本来の皇族の在り方に違いない。

 この、口に押し込まれたハンカチーフが良い例だ。こんなにも美しく穢れのない布を、当たり前のように持ち歩く精神は、奴隷には到底理解できない。

「ぐぅ……っ、く……!」

「あと少しだから、頑張って。耐えなさい」

 呻く奴隷にぴしゃりと投げかけられた高飛車な言葉は、確かに高貴なる者らしい口調だが――表情が、伴っていない。

 痛ましげに眉を寄せ、宝石のような翡翠を揺らして、奴隷のために額に玉の汗を浮かばせながら傷の処置を行っている。

(こんな、綺麗なものを――奴隷ごときが、汚して、いいわけが、ない……)

「……は……」

「だめよ。苦しいのはわかるけれど、もう少し口に入れていて」

 口に入れられた布を吐き出そうとしたのを悟られ、十の子供とは思えぬ口調で命令される。生まれながらにして皇族たるミレニアのその様子は、より生きる世界の違う存在であることを際立たせた。

「……よし。もういいわ。よく頑張ったわね」

 労いの言葉すら、高飛車だ。だが、その縫合速度は、今までロロが処置を受けたどの薬師よりも素早かった。優秀な薬師だというのは事実なのだろう。

「ど……う、し……て……」

 ハンカチーフを吐き出し、のろのろと顔を上げる。じゃらっ……と手枷に着けられた鎖が、耳障りな音を立てた。

「まだ体は起こさないで。包帯を巻いて固定するから」

「そんな――」

「いいから、横になっていなさい。命令よ」

 少女の美声で、ぴしゃりと告げられ、ぐっと言葉を飲み込む。

 生まれながらに他者を従える不思議な威厳が、彼女には確かに存在していた。

 ひとまず体を起こそうとするのは思いとどまってくれたらしいロロを見てほっと息を漏らし、ミレニアは再び鞄を探る。

 ロロは、少し考えた後、それでも足掻くように、なけなしの力で這うようにしてミレニアから距離を取ろうとした。

「こら、どこへ行こうと言うの。お前は怪我人なんだから、おとなしく――」

「――――……服、が……」

「え?」

「っ……汚、れ――」

 血を失い、蒼白の面で、ロロは必死に荒い息の合間に告げる。ぱちり、とミレニアは驚いたように目を瞬いた。ロロの視線を辿るようにして、己の服へと視線を落とす。

 石床を汚していた血だまりの上に躊躇なく座り、必死に処置をしたせいだろう。一目見れば誰もが上等だとわかるドレスの裾は、ロロが流した血液でぐっしょりと濡れている。

「服なんて、着替えればいいわ」

「許され、ない――」

「いいの。私が許すわ」

「駄目だ――……許される、はずが、ない――」

「大丈夫と言っているでしょう。――第六皇女ミレニアが、許すと言っているのよ。この名において、誰にもお前を処罰なんてさせない。……信じられないの?」

 少し呆れたように、どこか困ったように、ミレニアは嘆息しながら告げる。ロロは、ゆっくりと、小さく頭を振った。

「そうじゃ、ない……穢れた奴隷が、アンタみたいな、綺麗な存在を――汚い血で、汚していいはずが――」

 処罰を恐れているわけではない。そんなものはどうでもいい。皇女と視線を交わし、声を交わした時点で、理不尽に首を刎ねられても仕方のないことなのだと、理解している。

 そんなことは問題ではないのだ。

 この、肥溜めの底で生きているような虫けらが――清廉潔白な泉に住まう妖精のような美しい存在を、汚らしい血でその装いを穢していること自体に、激しい抵抗を覚えさせた。

 どうしてだかは、わからない。

 上級貴族などクソくらえだと、唾を吐きながら生きてきたはずだった。理不尽を強いるその支配階級に、逆らう無力さを誰よりも熟知しているからこそ、その絶対的な強者に対して、肉体はともかく精神までは屈せぬと生きてきたはずだった。

 それなのに――この、目の前にいる、少女にだけは。

 その身に触れるどころか、同じ空気を吸うことすら、罰当たりな行いに思えて――


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