オトナゲピアス
齢十二歳の和葉にとって、ピアスというのは大人の象徴そのものだった。
この頃――つまり、思春期の女の子は今すぐにでも大人の階段を昇りたい年頃であり、すぐに大人がつけている装飾品をつけてみたり、服装や髪型も真似をしたりするのだ。彼女達の経済力が許す範囲で。
とはいえ、経済力などいってもこの年頃の少女の収入源は月に一・二度のお小遣いだけ。雀の涙ほどの経済力の少女達にとって、ピアスというものは値段も手ごろで、ぐっと大人に近づく魅力的なアイテムであった。
もちろん、和葉もそんな少女達の一人で、ピアスに絶対的な憧れをもっていた。
しかし、一部の少女達にはこのピアスはつけたくても手の届かないものとなる。
理由は簡単。
痛みだ。
今まで自ら傷をつけたことのない自分の体に傷を、しかも穴を開けるのである。これは相当の度胸と覚悟が必要だろう。
もの凄く痛いのではないか。血が出てしまうのではないのだろうか。迫り来るいろんな恐怖と戦いながら、ある者は恐怖を乗り越え、穴を開けて大人に一歩近づき、またある者はその重圧に耐え切れずに自らの身に穴を開けることを挫折するのである。
これを乗り越えれば大人といえる痛みというハードルがあるからこそ、少女達はこの高いハードルの向こう側に『大人』を夢見るのだろう。
それで、当の和葉はというと……。
「……やっぱ無理! 開けられない!」
「ちょっと和葉、ここまで来たらもういっちゃいなさいよ!」
「やだよ! 痛いの嫌いだもん!」
そう言って駄々をこねる和葉を、彼女の親友である明乃が宥める。そんな彼女の両耳たぶには、綺麗に穴が一つずつ開いていた。一方暴れている和葉の耳たぶにはそんな跡は見受けられない。
「そんなに開けたいなら明乃が開ければいいじゃん!」
「もう開けたわよ! あなたは私を穴だらけにするつもり!?」
明乃も興味があるといって和葉の話に乗ったわけだが、彼女はいつまで経っても開けない和葉をよそに何の躊躇いもなく穴を開けてしまっていた。
「さあ、早く開けなさい!」
「やだ! 痛いもん!」
まるで注射を嫌がる子供のように駄々をこねながら和葉はピアスの穴を開けるのを拒む。
「こら、駄々をこねるな!」
明乃の言うことも耳に入らず、和葉は文句を垂れる。明乃は呆れたように溜息を吐いてからやがて口を開いた。
「大人になるんでしょ? 圭輔君に会う前に……」
「…………」
『圭輔』の名前が出た途端、和葉は駄々をこねるのを止めて押し黙る。そして俯いたまま一つ首を縦に振った。
それまでは興味があったものの、決して手を出すことなく、ただ『大人の象徴』として遠くの視点から眺めているだけだった。そんな和葉が憧れの『ピアス』に手を出そうとしたのには一つの理由がある。
その話は一週間ほど前に遡る。
和葉と圭輔は学校が違うために週に一・二度しか会うことが出来ない。しかしメールなどで毎日コンタクトはとっているので、別れ話になることはなかった。
そんなある日、二人はメールで会話をしていると、不意に『ピアス』の話題になった。大まかな内容は、『ピアスをしている人は大人っぽい』ということだった。
圭輔も和葉と全く同じことを考えていたのである。
しかし、その後に圭輔から届いたメールを見て、和葉は少なからずショックを受けた。
『俺もピアスをつけてみようかな……』
率直に言って、まだ早いと和葉は思う。彼女も圭輔もまだ中学一年生なのだ。しかしその反面、ピアスをつけてみたいという好奇心もあった。ピアスをつけたら、少しは大人っぽい女性だと見られるかもしれない。
そんな好奇心と不安の狭間で揺れていた和葉は結局話をはぐらかしてしまった。圭輔もそれ以上話をすることはなく、二人は日曜日のデートの約束をしてメールを終わらせた。
その週の日曜日、つまりデートの日、和葉はいつもの待ち合わせ場所である駅前の噴水で圭輔を待っていた。しばらくボーっとしながら圭輔を待っていると、ふと背後から声をかけられた。
それがいつもの聞き慣れた声であったので、和葉は顔をほころばせながら振り返る。そしてすぐさま衝撃が彼女を襲った。
「………………ど、どうしたの……それ……」
和葉は顔を強張らせながら圭輔の右耳に輝くそれを指差した。すると彼は笑顔でそれを触りながら答える。
「あ、気付いた? ちょっとつけてみたんだ、ピアス……」
「ピアス」という単語が和葉の脳内で反響する。圭輔の言った言葉が信じられなかった。今まで身近に感じていた彼の存在が、急に離れて行ってしまったように感じた。
「どう、似合う?」
心がどこかに行ってしまったまま和葉はもう一度圭輔の耳に光っているピアスを眺める。確かにそのピアスはとても似合っており、急に圭輔が大人びて見えた。
「う、うん……その、似合う…………」
和葉は身の入っていない答えを返す。それでも圭輔は安心したようで、ほっと一息吐いた。 しかし、それすらも和葉の耳には入っていない。我を忘れるほどの衝撃が彼女にはあったのだ。ピアスとは彼女にとってそれだけ中心的な存在だったのである。
その後も全くもってデートの内容が身に入らず、終始上の空の状態で和葉は急に大人らしくなった圭輔の隣にいた。その光景はさしずめ大人の男性と背伸びして付き合う女の子のようだ。とにかくカップルとしてのバランスが悪い。
和葉はピアスの脅威に心底驚いていた。ピアスをつけただけでこんなにも大人らしくなれるのか。
ついで彼女は自分も大人っぽい女性になりたいと思い始めるようになっていた。ピアス一つでそうなれるのなら安いものだ。
よし、ピアスをつけてみよう。和葉はそう決心する。そんな彼女の意気込みをよそに、いつの間にかデートは来週の約束をして終了していた。
これが、今から三日前のこと。
「大人になった和葉を圭輔君に見せてあげたいんでしょ?」
「……そうだけど、でも……」
「ああ、もう!」
明乃はあまりのもどかしさに頭を掻きむしる。
「じれったいわね! それ貸しなさい!」
彼女は強引に和葉の持つピアサーをふんだくろうとするが、それを死守するかのように和葉はそれを持つ手に全力を込める。取り合いを始めてから三十秒くらい経ったところで、和葉が声を張り上げる。
「分かった! 自分でやるから!」
「本当ね?」
和葉は勢いよく頷く。明乃は彼女を信じてピアサーを奪い取ろうとしていた手を離した。
和葉は鏡を見ながらゆっくりとピアサーを耳に近づける。その手が震えているのを明乃は見逃さなかった。
「……手、震えてるわよ?」
「なっ、そんなわけないじゃない!」
和葉は笑ってごまかし、一瞬にして手の震えを止める。しかしそれもわずかな時間のことで、すぐにまた手が震えだした。
穴を開ける場所が決まらなくて舌打ちをする。しかし明乃は知っている。和葉は穴を開ける場所を決めかねているのではない。場所は決まっているのではあるが、穴を開けるための度胸がないのだ。それをさも場所が定まらないかのように振る舞い、時間を稼いでいるのだ。
その証拠に玉のような汗がだんだんと彼女の額に滲んできていた。
「バレバレよ。時間稼ぎをしてるのは……」
わ、分かったわよ。さっさと開けるわよ」
和葉の声がだんだんと小さくなっていく。そしてようやく諦めがついたのか、彼女は穴を開ける場所を一点に絞ってゆっくりと引き金に指をかける。
緊張感で張りつめた空気が二人を包み込む。
時計が時を刻む音だけが二人の耳に入ってきた。そして……。
「……あ〜、ダメ! また明日!」
「はい?」
明乃が聞き返す間もなく、和葉はピアサーを持つ手を下ろし、机の上に置いてあったカバンを取ると猛ダッシュでその場から逃げ出した。
夕焼けに染まる教室に、唖然とした表情の明乃だけが取り残された。
彼女はあっという間に起きた眼前の状況を理解すると、大きな溜息を一つ吐いて呟く。
「……和葉……筋金入りのチキンだったのね……」
結局、次の日曜日まで和葉は耳に穴を開けることが出来なかった。明乃の試みは全て失敗し、和葉のピアスに対する憧れの感情はだんだんと恐怖のそれに変わっていった。
「……会わす顔がない……」
せっかくの圭輔とのデートなのに、和葉は全くといっていいほど気分がのらなかった。むしろ、気が沈んでいるといった方が正しいだろう。今日だけは圭輔に会いたくなかった。
先程から溜息を吐いてばかりだと思いつつ、彼女はもう一度溜息を吐く。どうやら待ち合わせまで止まりそうもなかった。
若干足取りが重かったせいなのか、いつもの待ち合わせ場所には既に圭輔が来ていた。
「……ごめん、待った?」
どうしても最初に圭輔の耳に目が行ってしまう。やはりというべきか、今日もピアスがきらきらと輝いていた。
「いや、そんなに待ってないよ。さ、行こっか」
今日は近くのデパートで買い物の予定だ。ちょうど今日が記念日なので、お互いにプレゼントを買おうということだった。
「じゃあ、一時間くらい自由行動で。後でメールするから」
「分かった」と和葉は曖昧に頷いて、二人は別れた。
圭輔のプレゼントに何を買おうか、和葉は悩みに悩んだ。「大人」な圭輔が何を欲しがっているのか、「子供」の和葉には分からない。
散々悩んだ結果、和葉はある願いを込めてプレゼントを買った。精算を済ませると、タイミングよくケータイが振動する。どうやら圭輔の方も買い物が終わったようだ。
前もって打ち合わせていた場所に、それほど急ぐこともなく和葉は向かった。
彼女が待ち合わせ場所に着くと、圭輔は既にそこにいた。和葉が声をかける前に圭輔は彼女の存在に気付き、歩み寄る。
「じゃあ、腹も減ったし、飯食いに行くか」
「……うん」
頷いたものの、和葉はほとんど食欲を感じなかった。時間が早いので空腹ではないということもあったが、最大の原因としてはどうしても食事が喉を通らないということだった。
適当に入ったファミレスで食事を取る。とはいっても、和葉はサラダとパスタ少なめを頼んだのみだった。
最近味覚までおかしくなってきたなと和葉は思う。何を食べても全く味がしないのだ。
正直ピアス一つでここまでになるとは思わなかった。ピアスをつけたいという欲望と、ピアスをつける時に発生する痛みという恐怖。その狭間にいる和葉は両方からプレッシャーをかけられ、かなりのストレスを感じていた。
そこに追い討ちをかけるように、恋人が急に色気づいて大人っぽく振舞いはじめたので、そのストレスは加速度的に増していったのである。
味気のない食事を済ませて、和葉と圭輔はファミレスを出た。「おいしかったね」と言う圭輔の言葉に和葉は曖昧にしか答えることが出来なかった。
そのまましばらく近くのショッピングモールでウインドウショッピングを始める。プレゼントを渡すにはまだ早いだろうということからそうなったのだが、生憎何の意味もなさないショッピングとなりそうだった。和葉の視界には、もはや印象的なものは何も残っていない。
「もしかして、つまんない?」
困った表情を隠しきれなくなった圭輔が尋ねる。和葉は慌てて表情を取り繕って手を顔の前で振る。しかし、言葉が続かなかった。
「……ごめんね、そっちこそつまんないでしょ?」
「いや、俺は全然……」
そう口では言っている圭輔だったが、和葉には分かった。彼はつまんないんじゃなくて、和葉を心配するあまりに楽しめないのだ。
私がこのデートをつまんなくしている。
和葉はそう思うと急に申し訳なくなった。もうピアスなんて言い訳に出来ない。子供っぽい和葉の考えが、結局自分だけじゃなくて圭輔も苦しめていることに今更ながら気付いた。
「じゃ、次行こっか」
無理して笑顔を浮かべる圭輔を見て、和葉は心中で謝る。
圭輔君、ごめんなさい……。
そうは思ったものの、結局ウインドウショッピングも全く盛り上がりを見せずに終わってしまった。
気が付けばもう日が傾き始めており、二人は公園まで来ていた。
つまらないことに時間を使ったなと和葉は思ったと同時に、圭輔に申し訳なく思う。
和葉の心の奥の方で、一つの感情が湧き上がりつつあった。
圭輔と、別れるかどうか……。
圭輔とのデートを和葉がつまらなくしているのは自分でも分かった。
それも、つまらない理由がきっかけでこんな状況にある。
ピアスが気になって彼氏とのデートに集中できないなんて、恋人として失格だと和葉は思う。
複雑な感情が、和葉の中でせめぎあっていた。
「さて、じゃあ、プレゼント交換しようか」
「あ、うん……」
和葉はバッグから先程買ったものを取り出す。
「あの、これ……」
「ん? 何だ……」
圭輔は丁寧に包装を剥がすと、それを取り出した。
「これは……写真立て?」
圭輔が手にしているものを見て、和葉は頷く。
それは、木で縁取られた写真立てだった。
それも、和葉のある願いが込められた写真立て。しかし、彼女はそれを言葉にすることが出来なかった。
「ありがとうな。早速二人の写真を飾らせてもらうよ。どの写真がいい?」
和葉はひとしきり考えてから、やがて首を左右に振った。
「やっぱり、圭輔君が好きな写真でいいよ」
本当は和葉が是非とも飾って欲しい写真があるのだが、彼女はそれを口に出来ないでいた。 なんというか、これは試練のような気がした。もし、圭輔が和葉が思っているのと同じ写真を飾ってくれれば、まだ二人は恋人として続けていける気がする。だけど、それが違う写真であれば、二人はもう……。
圭輔は頬に手を当て、しばらく考えているようだったがやがて口を開いた。
「決まった。あれにするよ」
「……あれって何?」
和葉は尋ねる。これが二人の運命を左右すると知っていても、聞かずにはいられなかった。
「うーん、秘密。俺のプレゼント渡してから、もしかしたら言うかも」
うまくはぐらかされた気がする和葉だったが、それでも構わない。むしろ、その瞬間が延びたことで、彼女は少なからず安堵した。
「俺のはね、これ」
圭輔はポケットから掌に納まってしまうくらい小さな箱を取り出した。そして、その箱を開ける。
「………………」
和葉は驚きのあまり言葉を失った。まさか、プレゼントがこんなものだとは、思ってもいなかった。
「明乃から聞いたよ。全部」
それを聞いた和葉は頬を朱に染める。今までの失敗談を圭輔が知っていることが恥ずかしかった。
「ピアスの穴開けるの、失敗したんだって?」
和葉は頬を真っ赤にしながら頷く。これほど恥ずかしいことはなかった。大人になろうと背伸びして失敗したことを、恋人に知られるなんて。
「つけてみなよ」
「えっ、でも……」
「大丈夫。それはマグネットタイプだから」
そう言って圭輔は小箱から小さなピアスを二つ取り出した。中央に宝石が一つ輝いているだけのシンプルなデザインのピアスだったが、それでも和葉にはもったいないくらい綺麗なものだった。
圭輔は丁寧に片耳ずつ和葉にピアスをつけていく。マグネット式のため、耳に痛みはなかった。
「ほら、つけ終わったよ」
和葉はピアスが気になってすぐさまバッグから手鏡を取り出す。
「あっ……」
自分でも信じられないほど、和葉は輝いていた。ただ小さなピアスを両耳につけただけなのに、それだけでも全然違って、大人っぽく感じられた。
「キレイ……」
和葉は鏡を見ながら空いている手でピアスに触れる。宝石の滑らかな感触が、妙に気持ちよかった。
「確かにキレイだな。だけど……」
圭輔は突然和葉の頭に手を置いた。
「……少し背伸びしすぎなんじゃねえか?」
「えっ……」
和葉は圭輔に言われた意味が分からずに首を傾げる。すると、彼は和葉の頭を撫で始めた。
「確かに大人を意識するのも大事だけど、まだ早いような気がする。俺がピアスを開けたのは、別に大人を意識してなんかじゃないしな」
「何?」
和葉はまだ言っている意味が理解出来ないでいた。圭輔は少し困った顔をして、頬を掻いた。
「つまり、上手く言えないけど……」
やがて彼はぴったりの言葉を見つけたのか、その表情が笑顔に変わった。
「……俺もまだ、子供だってことだよ」
その言葉を聞いて、和葉は不意に安堵の息を吐いた。
安心した。まだ圭輔も和葉と同じ、子供なんだ。だから、急いで大人になる必要なんかない。ゆっくりでいい。少しずつ大人の階段を昇っていくんだ。
「そう言えば、決めたよ。写真」
「まだ決めてなかったの?」
「うん。今決まった」
和葉は息を呑む。もう別れ話なんかすることはないのだけど、お互いの心が繋がっているのかが気になった。
「俺は、初めてのデートで撮った写真を飾ることにする」
不意に頬を涙が伝った。
嬉しかった。
繋がっていたのだ。和葉と、圭輔は。
「ど、どうした? 和葉……」
「ううん、大丈夫」
和葉は止め処なく流れる涙を拭いながら首を左右に振る。
写真立てを買う時、和葉は一つの願いを込めた。
ここに飾られる写真のように、初々しい私達を忘れないように、と。
圭輔はその暗示を有効に使ってくれそうだ。
これで心配することはもう一つもない。和葉はそう思いながら最後の涙を拭うと、耳に手をかけ、そしてピアスを外した。
「どうした、気に入らないのか?」
「ううん、まだ私には早いかなって……」
「ごめんね」と言いながら和葉は外したピアスを小箱に丁寧におさめる。
圭輔は首を左右に振り、そして答える。
「俺もそう思ってた。本当はそんなにつけて欲しくもなかったんだ。だって……」
圭輔はそこで一旦言葉を切る。
「今はまだ、大人っぽい和葉より、あどけない笑顔を浮かべる子供っぽい和葉の方が、好きだから」
心に広がる暖かい気持ちを言葉に出来ずに、和葉は「うん」と頷いた。
和葉がこのピアスをつけるのはもう少し後、彼女が一人前の「大人」になってからだ。




