キズ
「伊織さん、就職するの?」
クラスメイトがバス停で驚いたような声色をあげる。
「あぁ、うん。実家を手伝うんだ。」
手伝うんじゃない、「手伝わされる」んだ。黒江はそう心の中で呟いた。
「学年でも10位以内なのに、もったいないわね」
伊織は困ったように苦笑いを見せ、「仕方ないよ」と言った。
「黒江さんは東京の大学よね?一人暮らしなんてうらやましいわ」
クラスメイトがキャイキャイと喚いている。学歴主義の両親にその大学を強制されただけだ。私だって、本当は。
「えぇ、そうなのよ。」
黒江は内心、苛立ちまくっていたが表情に出さずにニセモノの笑顔を作ってみせた。
(何も知らないくせに…)
伊織はバスに揺られながら、窓の外の景色を見つめている。その横顔にはどこか哀愁が漂っていた。あと数回、数分しかない片道30分の道程が、やけに愛おしい。
二人の腿の間に結ばれた手にも少しばかり力がこもる。会話こそないが、互いに想いが感じ取れる。そんな日々が続く。
そうこうして会話を切り出せずにいると、伊織の降りるバス停へ着いてしまう。
「じゃ、また。」
伊織が名残惜しそうに手の甲を撫でてくれる。もう少し一緒にいたい。そんな言葉を口にすれば、伊織はきっと気を遣って数駅一緒に行ってくれるだろう。
でもそれは、やっぱり、迷惑をかける。伊織の実家はこの町に代々続く酒蔵で、朝から晩まで人手が足りていないらしい。
「ええ、また明日。」
伊織に気を遣わせないよう、また、ニセモノの笑顔で微笑んだ。だけどこの台詞もあと何回言えるだろう。不意にそんなことを思ってしまう。いつもそうだ。伊織が去ったあとで、感情が溢れ出す。
私たちが生まれた家が違っていれば、ずっと一緒にいられただろうか、両親に無理やりにでも地元の大学を受けることを納得させていれば。
そんな「たられば」が頭をかき乱して、涙となって溢れ出る。バスの中で一人、嗚咽を漏らす。
別れがこわい。1人は嫌だ。
終点。
『3年A組 白石 伊織』
「はい!」
だだっ広い体育館に伊織の透き通った声が響く。
壇上に上がり、卒業証書を受け取る伊織は凛々しく、大人びて見えた。けど、私は未だに現実を受け止められなかった。フワフワして、夢のよう。
「黒江さん、呼ばれてるよ!」
待機の順番が来ている事に気づかず、慌てて席を立った。その拍子に、よろけてしまった。すると、丁度自分の席に戻る途中だった伊織に抱きとめられた。
「伊織」
黒江の顔を覗き込む伊織は、涙ぐんでいた。けれど、笑っていた。こんな伊織の表情は見たことがない。伊織が涙を流す姿なんて。これは、現実なんだ。
これが、最後なんだ。
伊織。
「お願い。どうか、そのまま抱きしめて。」
伊織は一瞬驚いた顔をしたが、すぐににっと笑った。
「もちろん」
この気持ちが「恋」だと気づくにはあまりに遅すぎた。もしもっと早く気づいていれば。また、「たられば」が涙になって溢れてくる。人生は後悔の連続だ。
『3年A組 隅田 黒江』
卒業。
「本当に白石さんと隅田さん、クラス会行かないの?」
「あぁ、悪いね。黒江もダメみたいだ」
とても応答ができる状態ではない黒江を気遣って、伊織が代わりに返事をした。
「この桜並木を歩くのも最後だね。黒江。」
バス停への通り道、川に側した桜の木が並ぶ道がある。2人が出会った場所でもある。
『怪我をしたのかい?』
『えぇ、靴が合ってなかったみたいで。』
「それで私がバス停までおぶってあげたんだっけ」
伊織が懐かしげに目を瞑る。黒江は伊織の右腕を抱きしめ、頭を肩へ乗せた。
「ねぇ、伊織。」
桜の花びらが二人を包む。
「東京へ行かない?」
ダメ元だということはわかっていた。でも聞かずにはいられなかった。
「去年、じいちゃんが亡くなったからウチも大変でさ。」
「私、やっぱり東京へ行くのやめる。」
「ダメだよ。」
「………」
そんなこと、両親が許さないだろう。
「黒江。君は勘違いしてる。」
伊織はいつものように、私の手を握った。けど、今日は片手だけでなく、両手。
「黒江、私は感謝してるんだ。」
「君と出会わなければきっと、私はこの町の外のことなんて知りもしなかっただろう。」
「この町で暮らして、実家を手伝って、親が用意した相手と結婚して。そんな平凡な人生を送っていたかもしれない。」
「でも、君と出会った。君との毎日は私の人生において最高の日々だった。そして何より、私に恋を教えてくれた。」
「好きだ。好きなんだ、君が。」
黒江は涙と鼻水で言葉が出なかった。伊織はそっと、黒江の顔を胸に抱き込んだ。
永遠なんて存在しないとわかりきっていた。だけど、この瞬間だけは永遠に続けばいいのに。そう思った。
「私も、私も好きだったの」
「知ってたさ。」
伊織は黒江の頭をわしゃわしゃと撫でながら笑った。
もうすぐ春が始まる。
『3番線 東京行き……』
「地元のお土産、あんまり用意できなくてごめんな。うちの日本酒渡すわけにも行かないし…」
「にわとり饅頭だけで十分よ。ありがとね。」
黒江と伊織は大きなキャリーバッグを転がしながら、駅のホームへ向かっていた。市の中心駅というだけあって、それなりに商業施設が集まっており、人混みも多く、通りすがる人々が黒江たちを見つめる。
「あの子可愛くね?」
「お前声かけてこいよ!」
若い男達がヒソヒソと話している
「黒江、こっちだ。」
伊織は黒江の腕を掴むと、人混みから離れるように一目散に歩き出した。
「ちょ、ちょっと!!」
あまりに伊織がグイグイ引っ張るので、キャリーバッグまで飛んだり跳ねたりしてしまっている。
ぜぇぜぇと息が上がりながらも、人のいない待合室に入った。
「黒江、一つ私の願いを叶えてくれないか」
伊織はいつにも増して鋭い瞳で黒江を見つめた。
「願い……?何かしら」
「卑しくも愚かな私の「独占欲」を満たさせて欲しい。」
「独占欲…」
ごくり、と黒江は不安げに息を呑んだ。
伊織が他の女子生徒と話しているときに感じた不安や苛立ち、それが「独占欲」だということを黒江は知っていた。伊織がそれを自分に向けてくれていることは素直に嬉しいが、穏やかで爽やかな性格の伊織がそのような感情を持つとは考えていなかった。
「君はきっと、これから大学やバイト先、いろいろな場所で人と出会うだろう。悔しいけれど、その中で私よりも魅力的な人は大勢いると思う。」
だけど…と付け加えて、伊織は黒江の髪をかき分け、露わになった首筋に噛み付いた。
「いっ……」
黒江が苦悶の声をあげるが、もう少しだけ。犬歯を深く刺さるように、できるだけ長く、跡が残るように。痛みに足掻く黒江を逃さないように腰に手を回して抱きかかえたまま。数分。
伊織が首から歯と唇を離すと、黒江の瞳にはうっすらと涙が幕を張っていた。怯えた子犬のように小刻みに震える肩を再び抱きしめ、耳元で囁いた。
「その時はこのキズ、痛み、私の噛む強さを、この場所で、この町で、君のことを一番に思う私がいる事をどうか思い出して欲しい。」
「このキズ跡が消えて、痛みが思い出せなくなったら、君に会いに行くよ。」
まるで自分の所有物だと言わんばかりに、伊織は不敵な笑みを浮かべた。
「うん…」
ズキズキと、心臓の鼓動と同時に首筋が痛む。だけど、こんなに嬉しくて、甘い痛みは初めてだ。頭の中で甘い喜びと、これから訪れる寂しい別れがせめぎ合いながら、黒江は伊織の腕の中で暫し微睡んだ。
『…19時58分……東京行き…』
そろそろ新幹線が来る。絶望を乗せて。
「黒江、大丈夫?」
涙は出し切ったはずだった。けれど、また溢れてくる。甘い首筋の痛みもだんだんと引いてきて、伊織が遠くなってしまうように感じた。。でも、痛みはなくとも頭が、黒江の身体があの痛みを覚えている。それだけで十分に生きていける。
「大丈夫。もう哀しむのはやめたから。」
伊織は「そっか。」と笑った。黒江は伊織の手を、這わせるように、関節の一つ一つを愛おしく撫でるようにして握った。
「ねぇ、伊織、私の願いも一つ、叶えて欲しい。」
既に駅の端から新幹線が頭を見せていた。レールがゴトゴトと音を鳴らし、耳をつんざく様な爆音と共に。数秒間、新幹線が風を切り裂く音が空間を飽和する瞬間、二人は唇を重ねた。今度は首ではなく、正真正銘のキスを。
プシュと空気が抜けるような音と共に新幹線の扉が開く。
別れが二人を切り裂いても、一瞬の甘美な記憶と、いつの日か来る再開がいつまでも二人を結び続ける。そう願って。
「行ってきます!また会う日まで!」