番外編2 フルスロットル・ボーイズ(2)
いよい今回で花山天皇の時代は終わります。
なかなか難しくて書けなかったのですが、よろしくお願いします。
寛和元年の大嘗祭でのことである。
この時も、対抗勢力の計略にはまったのか、儀式が滞りそうになった。
大嘗祭とは、新しく即位した天皇が初めて執り行う大切な宮中祭祀だ。
その年に占いで、都から東、西にある代表の国を選ぶと、それぞれの地で祭用に収穫した作物等を神前に供える祭で、また、新天皇自身もそれを食し、自ら皇祖や天地に祈りを捧げることで、五穀の豊穣や国家、国民の安寧を願う大切な行事である。
そこで、どんな理由があっても、国家の為に不備があってはならない行事だ。
にもかかわらず、また、問題が生じてしまった。
まず、大嘗祭が始まる前のことだが、十月十一日(辛亥)に、八省院(朝堂院)にある含嘉堂が何故か倒れたらしい。
この当時、八省院と呼ばれていた建物は、もとは大内裏にあった朝堂院のことのようだ。
天皇は、プライベートを過ごす内裏とは別に、外に広がる大内裏にまで出て来て、わざわざそこで政務を行っていたようである。
そして大嘗祭は、八省院の中の前庭"龍尾壇"の下にわざわざ造られる特設の建物 "大嘗宮"を中心に執り行われることになっていた。
また、八省院の敷地の中には、八省(今でいう省庁のようなもの)に属する官吏達がそれぞれ使用している"○○堂"と呼ばれる多くの堂も建てられているのだが、その中にある含嘉堂が、何故かこの時に壊れたのだ。
そんなことが、わざわざ記録されている。
含嘉堂自体は、弾正台といって、中央行政の監察や京内の風俗の取締り等を担当していた職の建物なので、検非違使ができてからは、あまり機能していなかったのかもしれない。
だが、それでも、……大嘗祭も差し迫った時期に近くの建物が壊れるなど不吉である。
また記録からして、如何にも何か起こりそうに書かれていて意味深なのだ。
たとえ老朽化していたとしても、随分とタイミングよく崩れたものである。
そこで後日、大嘗祭の前なので、含嘉堂を再び建てるように修理職が命じられた。
そして、こんな不穏な空気の中で、花山天皇の大嘗祭の準備が進むことになったのである。
平安時代の有名な公卿・藤原実資が書いた日記 『小右記』 によると、この大嘗祭がいかに予想外の事だらけだったか良く分かるのだ。
寛和元年十一月二十一日、辛卯の夜。
子の刻(夜の十一時頃)に帝が八省に行かれた。
……つまり、帝が八省院にある大嘗宮の方に移動するところから日記は始まっている。
小忌上卿(奉仕する為に選ばれたはずの左大臣、右大臣等、中納言以上の公卿)達は一人も出席していなかった。
……予め日時など分かっているだろうに、見事にボイコットしたものだ。
また、参議も二人しかいなかった。
参議とは、朝廷の会議に出席可能である議員のような公卿ことだ。
ちなみに出席者は、宰相中将・藤原義懐と、勘解由使長官・藤原佐理の二人だけだったらしい。
もちろん、義懐は超身内だから出席して当然である。
一方、佐理は書家としては有名な人だが、私生活ではいろいろと残念な話題が残っている人物なのだ。そこで対抗勢力とどの程度繋がっていたかは今となっては判らない。だが、何はともあれ、あまりに出席者が少ないではないか。
もう、この時点で無言の圧力を感じる。
あまりに非協力過ぎるではないか?
……だが、それでも彼らは断行したのであった!
それを可能にしたのは、この日の参加者が、兼家の影響が及ばない若者達だったせいかもしれない。
有名な人物の名を挙げると、
藤原実資 二十代後半 蔵人頭
藤原義懐 同上 権中納言
藤原公任 二十歳そこそこ 左近衛権中将
藤原惟成 三十二歳ぐらい 検非違使佐(五位蔵人には成っていた)
そして花山天皇自身も、十八歳程であった。
……但し、佐理は分別盛りの四十代だったようだが、実資と同じ小野流の人だったので、直接、足を引っ張るようなことはなかったのかもしれない。
まるで若者の集会? …… のように平均年齢が低い。はっきり言って、うるさい大人達もいなかった。
後に朝廷で名を馳せることになる実資や公任も、この頃はまだ"ひよっ子"だったのかもしれない。そこで、まんまと惟成に使われてしまったようだ。
惟成は、身分は低いが切れ者である。それに、何が何でも帝を周りに認めさせようと必死になっていた。結局、彼のそんな気迫に飲み込まれてしまったのではなかろうか。
その夜、集まった参加者の顔ぶれを見た時、惟成は一瞬、顔を曇らせた。
だが、すぐに"然もありなん"と微笑したのである。
「この様なことでは、式などできぬぞ! ……先例なきこと由 」
もしかすると、真面目な実資がそんな言葉をぶつけたかもしれない。
「帝が此処に御座されるのに、何の悪しき事がありまするか? 」
そう言いながら、惟成はギョロリと睨み返した。
確かに時間的には予定通りではないかもしれないが、帝はちゃんと儀式に出てらっしゃるではないか。……何があっても成し遂げるつもりでおられるのだ。
『 日和ってる奴いる? 帝はやる気だよ! 』
……などとは言わなかっただろうが、惟成の肝の座った様子に、居合わせた貴公子達は有無も言えぬまま巻き込まれていったようである。
まず、儀式に臨むにあたって、天皇は大嘗宮の北に設けられた廻立殿の方へ輿に乗って出かけられた。
廻立殿は"御潔斎"という、儀式前に行う作法の為に建てられているものだ。
ここで御湯を召されて、身を清め、祭服に着替えられるようになっている。
『 小右記 』 によると、ここでも御湯殿の奉仕を惟成自らが行ったようだ。
いやはや何とも涙ぐましい努力である。
『……惟成、あんた、そこまで御奉仕するんかい?! 』
という、実資の突っ込みが聞こえてきそうだ。
まぁ、この時代の潔斎というのは、今のお風呂と違って帷子 (下着のような着物)を最低限着たままでお湯を使うのだが、……それにしても惟成、実に細かいことから大胆なことまで、何でもできる男だったようである。
そして、いよいよ身を清め神服に着替えた天皇は、行列を引き連れて立廻殿から大嘗宮へ移動するのだが、ここでも問題が起こった。この移動するだけに見える行列にも、実はそれなりに決まりがあるからだ。
本来なら、帝より前には神服を着た大臣がいて、神祇官(宮中の祭祀等を司る官職)を率いて先を行くはずなのに、肝心の大臣が右も左も参加していない。
また行列の中には、帝の証としての"三種の神器"を一緒に運ぶ内侍所(神器を管理している部署)の者達も連なっていなければならないはずなのに、何故か、別の者達が運ばされることになった。
……何だか妙な事態が起こっていたようだ。
もしかして、内侍所の者達が出席していなかったのだろうか?
実資の日記の内容だけでは、今となっては詳しく分らないが、とにかく急遽、惟成は代替策を考えたようである。
実資は御釼(草薙剣)を、そして公任は御璽(八坂瓊玉) の入った筥を運ぶ係を任されてしまった。
……これはこれで素晴らしく名誉なお役目だと思うのだが、
『こんなことは、本来、内侍所のすることだ! ……それが先例だ! 』
日記の中で、実資はこんな感じで突っ込み、惟成に無茶振りされたことに対して憤慨している。
だが、こんな具合に機転を利かせ、花山帝を取り巻く若者達は、何とかピンチを乗り切ったようだ。
平安時代の貴族にとっては、あらかじめ決められた形式に則り、儀式を滞りなく行うことは理想だった。
だとしても、惟成にも言い分があるだろう。
予定など分かっているだろうに、重鎮達が集まらないなんて、明らかに"集団いじめ"ではないのか?
また、確かに作法通りにできないなら、中止するべきだったのかもしれない。しかし、そうなると兼家一派の思うつぼである。
『ならば、……先例があろうがなかろうが、決行したもん勝ちだ! 』
そんな風に、完全に開き直ってしまった。
待ちに待った花山帝の御代を、何としても長く続けたかったのだろう。劣勢であっても、惟成と義懐は日和ることなく帝を支えたのである。
だが、花山帝は怟子の死を決して忘れたわけではなかった。
怟子は子供を身籠ったまま死んだ。
当時の人々の間では、妊娠中や出産時に死んだ女性は成仏できない。と信じられていた。
そこで帝は、自らが出家し、修行を積むことで怟子の魂を成仏させてやりたいと思っていたのかもしれない。
また、その気持ちを利用するかのように阿闍梨厳久が出家を勧めたようだ。
そして兼家の息子・道兼も蔵人として帝の側に仕えることで、出家させようと狙っていたのである。
その上、不幸なことに寛和二年の正月頃から、花山帝にとってごく親しい人達の出家ラッシュが続く。それも、拍車をかけたのかもしれない。
とにかく、一見、立派に見える、……外めでたな花山帝ではあったが、一人の若者としての心情は、決して穏やかなものではなかったのかもしれない。
寛和二年の五月の末のことだ。
朝廷で大々的な競技会が開催された。
この時、帝は怟子の喪との関係があるので、賑やかな催しを行ってよいものか悩んだが、結局、開催されることになったようだ。
いやむしろ、どんどん気落ちし、出家しかねない帝を元気づける為に、惟成達がわざと催したのかもしれない。
『日本紀略』 によると、
五月三十日、この日、花山天皇が南殿に出てこられ、毬打(打毬のことか? )が催された。
番長以上の身分の者で各十名、左右近衛、左右兵衛官人らで二十名と、二つの組に分かれて二番勝負を行ったようである。
"毬打"とは記されているが、これは毬を蹴る"蹴鞠"ではなく、"打毬"と呼ばれる馬術競技ではないかと思われる。
と言っても、どんな競技なのか想像できる人は少ないだろう。
打毬とは、敢えて言うなら"ポロ"に近い競技で、馬上から先に網が付いた棒(毬杖)を用いて、あらかじめ決められた自分の組の色毬を掬い、競い合いながらゴール(毬門)に投げ入れるゲームである。
そしてこれは白、赤、二組に分かれて団体戦で闘う。
両チームとも、規定の数の毬を毬門に入れ終えると、それぞれに決勝用の毬が投入されることになるのだが、その毬になると、相手方の毬入れを妨害してもいいことになっている。
そこで相手の動きを牽制しながら自分の組の毬を入れるなど、より高度な乗馬技術が必要になってくる訳だ。
当然、これは武官らの実力を見せる良い機会となった。
その日のことである。忠明は裏方の仕事を任されていた。
主に競技場の設営や、競技に出る武官達の確認や準備まで、結構細かい仕事まで手伝わされている。
もちろん忠明自身も看督長なので、競技に出る資格はギリギリあるのだが、残念ながらお声が掛からなかった。
何でも為信の話によると、背が高く体格の立派な忠明は"相撲人"としては映えるが、騎乗した姿には、
『馬、いと痛しく見ゆる。……! 』
『……馬が、かわいそう! 』 だと、女官たちが話しているらしい。
……まるで動物を虐待しているかのように言わないで頂きたい。
そんな理由からか? 本日の忠明は、優秀な武官の先輩方が活躍できるよう、裏方に徹しているのだ。
いよいよ、安部茂兼と錦部文保の出番がやって来た。
さすがに歴戦の兵である。帝の御座す方に向かい恭しく礼をすると、二人は乗り慣れた馬に素早く跨った。
今日の二人は礼装なので、取分け凛々しく見える。また、それを引き立てるかのように馬達も美しく飾り付けられていて、立派な騎馬武者姿に見えた。
「御二人とも、今日は真に煌々しいことでありますな! 」
忠明の口から、思わず賛辞が漏れる。
「おう、我らが業を確と御見せしようぞ! 」
いつもは物静かな茂兼が、珍しくテンション高めだ。
「これ、聳丸よ! 我らは今日のみ"煌々しい"のではないぞ、常々から"煌々"しておるのじゃ」
そう言うと、笑いながら文保が馬の手綱を引き締めた。
文保の馬も、今日はさすがに周りの空気に飲まれて興奮しているようだ。
だが、さすがに手馴れている。文保は馬を器用に一回転させると、無事に所定の位置に戻した。
やがて合図とともに、次々と騎馬武者たちが駆け出し、それぞれの玉を毬杖で掬うと毬門に投げ込んだ。すると、その度に鉦や太鼓が盛大に打ち鳴らされ大いに盛り上がったのである。
記録によると、この日の勝負は左の方が勝ったらしい。
また、その後には音楽の演奏が行われたりして、なかなかに大きな催しだったようだ。
この勇ましい武官達の活躍に、帝の心は少しは華やいだであろうか。
現在となってはそれは判らない。だが、一つ言えることがあるとすれば、せっかくの気分転換の効果も、あまり長く続かなかったということだ。
なぜなら、それから一ヶ月も経たないうちに、天皇は内裏から密かに出ると、東山の花山寺でとうとう出家してしまったからである。
もちろん、こんな事態が起こるようにと、兼家の息子・道兼などは地道に画策していたわけだが、それでも、
『本当に、まんまと出家するとはな……! 』
皆が、そう思ったのではなかろうか。
何はともあれ、花山帝は良くも悪くもエネルギッシュで行動的な人物だったのだろう。
だが気の毒なのは、帝を必死に支えていた義懐や惟成である。
『あぁ、本当に出家しちゃったんだ……! 』
彼らにとっては、そんな感じだったのかもしれない。
『……せっかく、陰になり日向になり、お守りしてきたのに! 』
そのせいだろうか、帝の出家と同時に二人はあっさりと出家してしまう。
それはもう気持ちが良いぐらい、ポッキリと心が折れたのかもしれない。
そして、これを機に花山帝の治世も終ってしまった。
結局、政治的に不利な立場で闘い続けた若者達の改革も、二年程で頓挫してしまったのである。
だが、彼らの置き土産の中には、思い切った人事も含まれていたのかもしれない。
寛和二年五月の終わり頃、忠明はとうとう"府生"になった。
検非違使庁の中では一番下っ端の官人ではあるが、正社員として認められたと言っていいだろう。
つまり、草深い郷から出てきた若者は、とうとう"検非違使忠明"になったのである。
いよいよメジャーな一条天皇の時代に突入ですが、ここで暫くお休みにします。
もっと勉強して、わかりやすい話を書く為にも充電したいので、取り敢えず
区切りの良い今回で、一度シリーズを終了しようと思います。
また、この続きが書ければ、連載しようかと思っています。
今まで、読んでくださっていた方々には本当に感謝です。ありがとうございました。




