番外編 1 フルスロットル・ボーイズ(1)
うーん、半年もサボってしまったなんて、お恥ずかしい限りです。
もう花山天皇は卒業しなければ、とも思ったのですが、なかなかに面白い時代なので、もう少しだけ
続きます。宜しくお願いします。
『 大鏡 』 の中では、花山天皇というと"内おとり外めでた"な人物として紹介されている。
外めでたとは、外面的には立派で優れた人物に見える。……と言う意味だが、
内おとりとは、つまり内面的には性格が難しい人だ。……と匂わせている言葉である。
確かに花山天皇は、出家してからの女性問題があまりに有名すぎて、他の出来事が霞んでしまっているかもしれない。
だが、軟派なイメージ以外にも、なかなかにやんちゃなエピソードも伝わっているのだ。
例えば、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとした。……とか、
まぁ、その程度なら可愛い方だが、むしろ若くして出家したせいか、院になってからの行動の方が過激である。
花山帝の在位期間は、たった二年程しかなく、そのうえ十九歳の若さで、当時、社会的には準死者扱いになる出家をしたのだ。エネルギーが余っていても仕方がないだろう。
出家後、まず比叡山で修行すると、熊野詣に出かけ、那智では滝籠りの修行まで行った。体力的にも強健な人である。
当時は交通の便も悪かっただろうに、恐ろしく精力的に活動したようだ。
その後も、西国に広がる"三十三ヶ所観音霊場"を巡行し、各地で歌を詠む。
これが今日に伝わる"御詠歌"の元になったという話しだ。
御詠歌というと、関西の年配の方々には多少馴染みがあるかもしれない。
昨今ではかなり廃れてしまったかもしれないが、地蔵盆の時に、お年寄り達が鉦を敲きながら詠っていた、あの不思議な経でも和歌でもない、元祖・仏教的合唱曲のような物である。
今となっては、伝わっているエピソードの真実をいちいち検証するわけにはいかないが、いろんな意味で伝説の人になっているのが凄い。
とにかく、出家したら出家したで花山院はエネルギー全開で生きたのだろう。
だが、外面的にはエネルギッシュに活動していても、院の心の中はどんな様子だったのだろう。
やはり、早く退位させられた悔しさや、親しい人々を失った悲しみを引き摺ったままだったのではなかろうか。
花山院が、まだ天皇だった寛和二年のある春の夜のことである。
帝は、最も気心が許せる親しい者達を呼び、御酒を召された。
春とはいえ、花山帝の心は晴れやかではない。
先年の七月に、帝の子を身籠ったまま忯子が亡くなっているので、いつまでも心が塞いでいた。
忯子は子供を道連れにして死んだのだ。……きっと、成仏できないでいるに違いない。
しかも最近では、帝の身近な人々が、まるで世を儚むかのように出家していく。
そこで、何だか置いてきぼりをくった様な、気持ち悪さがあったのかもしれない。
もうすぐ、賀茂の祭りが始まる。
……五穀豊穣を祈る為にも、神事は取りやめられないが、忯子の死からまだ日が浅いのだ、やはり祝い事は避けるべきではなかろうか?
そのように思われたのか、
『 五月節会は止めるべきだ 』
と、天皇が仰った。……と伝わっている。
酒宴は仄暗い部屋の中で開かれていた。
灯りはそれなりに点されているが、あくまでも帝のプライベートな飲み会なので静かなものである。
メンバーは、帝の外叔父にあたる藤原義懐と、乳母の息子で帝の乳兄弟の藤原惟成のたった三人だけであった。
身分の高さこそ違うが、彼らは先の権力者だった藤原伊尹の縁の者達である。
本来、伊尹やその息子達が無事に生きていれば、もっと早く政治の中心部分で活躍できたかもしれない若者達であった。
伊尹は持病(糖尿病説が有力)で亡くなったが、義懐の兄である挙賢や義孝は、九七四年(天元二年)の秋に流行していた"皰瘡 (天然痘) "に罹って、二人そろって同日に亡くなってしまったそうだ。
この時の"流行病"の勢いは凄まじかったようで、多くの上流貴族の生命が失われたようである。
そして翌年には、花山帝の母である伊尹の娘・懐子(冷泉天皇の后)も亡くなってしまう。
乱暴な例えになるかもしれないが、花山帝は小学校低学年ぐらいの年で、己にとって最も頼りになる身内らを失ってしまったのだ。
皮肉な話かもしれないが、当時の権力者にとって必要なものというと、血筋の良さ、豪気さ、頭脳の明晰さの外にも、健康な身体が重要だったようである。
御上は寂しがり屋だ。
今宵も、愚痴でも聞いて慰めて欲しいのだろう。
年上で兄貴格の義懐はそう思っていた。
一方で惟成は、『 五月節会を取り止めたい 』 とは仰られたものの、主上の人柄を思うと、やはり、気晴らしの必要がある。……そう考えていた。
花山帝の感情の起伏の激しさを幼少の頃から知っている惟成は、むしろガス抜きを兼ねて、節会をやるべきだと思っている。あまり思い詰めると、悪い意味で暴走しかねないからだ。
……このままでは、出家なさるかもしれない。
酒宴とはいえ、叔父の義懐は御簾の外に座し、惟成にいたっては、それより下の簀子の上でチビチビと手酌で飲んでいる。
帝からの折角のお誘いにもかかわらず、三人は母屋と廂そして簀子と、それぞれ身分が違う為に別の場所で飲んでいた。
以前は、お気に入りの女官を呼んで酌をさせることもあったが、最近では人目を避ける様に三人だけで飲むことが多い。
……きっと、いろいろと御心を乱しておられるのだろう。
御簾越しで直接姿が見えなくとも、惟成には帝の不安な心が感じ取れるのだ。
やがて暫くすると、薄暗い部屋の中で何かがもぞもぞと動き始めた。
それは小さな白い影で、御簾を潜って外に出て来る。
にゃあぁ……! と、一鳴きすると、退屈そうに思いっきり伸びをした。
「 これ、米丸、こちゃへ来よ! 」
御簾の中から、慌てて帝が声を掛けたが、獣の猫などに人の言葉が通じるはずがない。
米丸は 『 我関せず 』 とばかり、廂の床に転がり遊び始めた。
「これ、米殿、御上がお呼びじゃ、……早う、戻られよ! 」
真面目な義懐は、まるで人に語りかけるように米丸を窘める。
「真に、米様は自由であられますな、主上の命にも従わぬとは! 」
そう言うと、まるで猫を追うかのように、惟成も笑いながら廂の方へ躙り上がった。
「これ、そなたまで…… 」
いきなり越境してきた惟成を義懐は咎めはしたが、何となく声が笑っていて締まりがない。
「それ、良い品を差し上げましょうぞ ! 」
惟成は袖から干した小魚を取り出すと、米丸に差し出した。
すると、猫の目がキラリと輝き、動きが制止する。
「 これ、米丸よ! 良い品を貰うたではないか 」
その声と共に御簾がフワリと上がると、花山帝の姿が廂に現われた。
「やれやれ、米殿! 御上に召されておりまするに、……真に、そなたは自由がましいことよ 」
そう言いながら、とうとう義懐までが、猫のすぐ側にやって来た。
こんな具合に猫をだしにして、三人は廂の床にドカリと座ると、身分の垣根を越えて酒盛りを行うのだ。
帝は時々、自力で解決できない漠然とした不安に襲われると、三人だけの無礼講を行う。それは、流行病に運命を変えられてしまった若者達にとっては、お互いが家族のような存在だったからである。
ここのところ、帝のまわりでは、ちょっとした出家ラッシュだ!
そのせいだろうか、帝の機嫌が優れない。……義懐も、それを心配している。
当時の身分の高い人々は、大病を罹って死期を身近に感じたり、また、大切な人を失って世を儚むような出来事に遭遇すると出家した。
そして寺で、自らの死後に極楽往生できるように祈り、また亡き人の菩提を弔う為に修行するのが常だったからである。
そこで、そんな不安な心に付け込むように、対抗勢力の息がかかった僧が帝に出家を勧めていた。
……お気持ちは分かる。だが、やっと帝の座に就かれたばかりなのだ。
何があっても、……ここは踏ん張っていただきたい。
その為にも、帝の心を何とかして御慰めせねば!
二人には、そんな気持ちがあったのかもしれない。
だがしかし、花山帝はそれ程"単純"な人でもなかった。
時折、とても激しい一面を見せることがあるからだ。
これは 『大鏡』 にも取り上げられているので有名な話だが、京の町中で戦擬きの騒ぎを起こしたことがある。
それは花山天皇の出家後の出来事で、もう既に一条天皇の御代に変わり、政治の中心は兼家の長男である藤原道隆の親族に移っていた。
道隆の娘が有名な一条天皇の皇后"定子"で、その彼女に仕えていたのが 『枕草子』 を著した清少納言である。
そしてそんな道隆一派の一番勢いがあった時に、選りにも選って花山院は息子の隆家に喧嘩を売ってしまったのだ。
この当時、身分が高い人物の屋敷の前を通る時には、車等の乗物から降りて通行しなければならない。……という、暗黙のルールがあったが、横着な隆家は守らなかった。そこでそんな不遜な態度に対する批判から事件は起ったようである。
『 いくら、そなたでも我家の門前を(車に乗ったままで不作法に)素通りはできまい? 』
と、花山天皇はそんな感じのことを言って隆家を煽ったようだ。
……もう出家しているのに、随分なことを言ったものである。
社会的には、既に"死んでいる"扱いになっているはずの花山院だが、相変わらずやんちゃなままだった。
喧嘩を売られた隆家は、自らの手の者を大勢従え、花山院の邸の門前を無理矢理押し通ろうとしたが、花山院側も多くの寺院関係者を集めて邸の周辺の道を封鎖し、隆家らを追い返したのである。
こんな雅な平安の世に、何やってんですか?
と、思わず突っ込みたくなるところだが、そこはやはり"平安王朝時代の戦い"である。
源平の時代のような無理はしないのだ。
石や杖を用意しても、弓矢や刀で戦うことはなかった。
そして、勝った側の院の者達は喜び笑い。負けた側の隆家達は、
『 さすがに恥ずかしいことをした 』 と反省した。
と書かれている。
帝には、こんな気性が荒いところもあるが、一方で情の深い人でもあった。
それは特に女性関係に発揮されたわけだが!
それに我慢強いところも? ……これは、義懐、惟成の支えがあったから何とかなったのかもしれないが。
とにかく普通の神経なら、先帝の義父一派に無視され続けるなど耐えられなかっただろう。それにメンタル面でダメージを受け、兼家の孫に遠慮して帝になること自体を諦めていたかもしれない。
だが、しっかり帝の位を継いだのだから、……存外、肝の据わった方である。
その思いから、二人は花山帝に付き従っていた。
性格の穏やかな義懐は帝を精神面で、そして切れ者の惟成が実務的に支えることになったが、とはいえ、惟成などはやっと宮中に出入りできる程度の身分でしかなかったので、かなり無理な人事を押し通すことになる。
五位のままで、天皇に近侍し働く蔵人になり、行政を担当する弁官や、司法・警察の役割を担う検非違使の仕事にまで首を突っ込んだのだ、こんな特別扱いは惟成が優秀だとしても、相当な軋轢を生んだであろう。
そこで寛和元年の大嘗祭では、酷いしっぺ返しを受けることになった。
世の中はコロナ以外にも、いろいろな事件が起こって、何とも言えない雲行きになっていますが、
今年もコツコツちゃんとやっていかなくちゃ! ……と遅ればせながら思っております。
これからもよろしくお願いします。




