人の行く裏に道あり花の山(1)
『大鏡』の花山天皇があまりに凄くて、思わず脇道にそれてしまいました。
ちょっと、想像の部分がありますが、ギリギリ大丈夫かな? ……宜しくお願いします。
寛和元年(985年)の夏、雨乞いの為に恩赦が行われたが、それから数日も経たないうちに、とんでもないことが起こった。
花山天皇の最愛の人である女御"藤原忯子"が、子供を妊娠したまま急死したからである。
この年の夏は、雨が降らないだけに暑かったのではなかろうか。
雨乞いや、いろいろな祈願も虚しく、天候にも健康にも恵まれず、うら若い忯子はこの世を去った。
もしかして妊娠中毒症や、他の病気も抱えていたのかもしれない。
今なら進んだ医学でサポートできるのだろうが、この時代の出産は本当に命懸けだったようだ。
その上、ただでさえ妊娠中ずっと体調が悪かった忯子を、花山天皇は溺愛していたらしい。
そこで忯子の死は、花山天皇の心に大きな衝撃を与え、結局、その悲しみを引金に出家してしまうことになる。
想像してみよう!
花山天皇は十七歳、忯子にいたってはまだ十五歳ほどである。
今の時代で置き換えるなら、"高校生夫婦"なのだ。
世の中の事が、まだ充分に分からない年頃であっただろうに、周囲の大人達はあまりに不親切だった。
なぜなら、花山天皇がその若さ故に無茶をしていた裏では、非協力的な公卿達が政治をボイコットしていたからだ。
だが一方で、それを逆手にとって、花山天皇の庇護の下、大胆な改革に着手した者達もいた。
それは、藤原義懐と藤原惟成である。
円融天皇の後を引き継いで即位した花山天皇だったが、支えてくれるはずの外祖父・藤原伊尹は既に亡くなっていた。
そこで後ろ盾になって助けてくれそうな者といえば、三十歳になったばかりで、まだ公卿にもなれていない藤原義懐ぐらいしかいなかったのだ。
義懐は伊尹の五男で、本来、外叔父にあたる人だが、花山天皇が即位すると、早速、三位の位を与えられ、国政に参加するようになった。そしてそのままスピード出世を成し遂げ、一年程経った頃には、参議、権中納言と順調に駒を進めたのである。
しかし、彼を取巻く環境は、決して甘くなかった。
既に、冷泉天皇の即位をめぐって、藤原北家とそれ以外の藤原氏の"外戚の座争い"は決着していたはずだが、今度は北家の内部で椅子取りゲームが始まっていたからだ。
当時の藤原氏と天皇について語っている書物に、有名な 『大鏡』 や 『栄花物語』 があるが、どちらも藤原氏が栄えていく過程が描かれている。
特に 『大鏡』 では、最愛の人を亡くし世を儚んだ天皇が、藤原兼家やその息子・道兼に半ば罠に嵌められるように出家する話が、それは見事に、まるで見てきたかのように克明に書かれているから面白い。
一方、『栄花物語』 は、藤原氏を賛美する目的で書かかれているような印象を受けるが、その中ですら、兼家は悪口を書かれている。
実際のところ、本当に残念な人であったようだ。
やっと参議になった義懐だったが、兼家に迎合している貴族達にはあからさまに冷たく扱われた。
本来なら、伊尹の五男である義懐は、兼家の兄の子供で甥っ子にあたるが、この時代になると、同じ藤原北家の中で主導権争いが起こり、反目し合っていたのだ。
もともと兼家は、兄である兼通とも仲が悪く、また、嫌いな者とは徹底的に会わないようにするなど、かなり偏ったところのある人物だったようである。
そこで、先代の円融天皇とも対立していた時期があった。
政治が有利になる潮目を待つかのように、自分の娘が生んだ虎の子の"懐仁親王"(後の一条天皇)を自分の屋敷に隠し込んで、朝議や公式行事に出ない嫌がらせをしていたようだ。
この姿勢は、花山天皇の時代にも変わるがことなく、本来なら"右大臣"として若い天皇を支えなければならない立場なのに、そのまま引き籠りを続け足を引っ張っていた。
つまり義懐にとって、朝廷はずっと"アウェイ"だったのである。
だが、そんな陰険な兼家に対して"向こうを張る"切れ者が現われた。
それは花山天皇の乳母の息子、つまり乳兄弟にあたる藤原惟成である。
彼は、良くも悪くも有能過ぎる男で、花山天皇に取り立てられると、かなり思い切った改革を進めていった。
例えば、この当時、この人は左衛門権佐という役職についていたのだが、これは検非違使庁の役職なので、少なからずとも、使庁の者達は彼の厳しい改革に付き合わされたのではないかと思われるのだ。
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眩しい夏の日差しが降り注ぐ、そんな昼下がりことである。
福安は辛い仕事を任され現場に立っていた。
目の前には、小さな田がゴミゴミと広がっている。
今年の暑さは過酷な上、まとまった雨も降らない。そのせいか稲は全て弱ってペシャリとなり、田の土もカサカサに乾いている。
「これでは、田薙ぎするまでも無かろう! 」
ちょっと安堵したように、福安は呟いた。
ここは都の西外れで、流れて来た者達が勝手に田を作り住み着いているのだ。
ちなみに当時の都の中心は、現在に較べると西寄りであった。
平安京では、御所の前に広がる朱雀大路を境にして、西側を右京、東側を左京と呼んでいたが、その頃の右京は、南に行くにしたがって土地が低くなっていた為、水害が多かったのだ。
そこで、この時代になると、右京では徐々に目立った屋敷が建てられなくなった。
その一方で、こっそり流れ込んできた人々が、誰も住まなくなった場所を占拠し住み着いたのである。
夏の乾いた風が吹く。
福安は、何とも言えない重苦しい気持ちで深呼吸をした。
この不毛な土地の"不法な田"を撤去するのが、今回の仕事なのである。
そして、この仕事こそが、惟成の改革を実行する為のものだったのだ。
花山天皇は、政治に対しては余り熱心でなかったかもしれないが、乳兄弟である藤原惟成には信頼を寄せていた。
そこで惟成は天皇の権威を隠れ蓑にし、朝議に参加しない兼家やそれに迎合するやる気のない公卿達を無視して、かなり思い切った改革に着手したようである。
その一つが"不法占拠地の田薙ぎ"だ。
本来、醍醐天皇が即位した頃から、都では勝手に田を開き、特定の権勢のある貴族の傘下に入ったり、田畑を寺社に寄進することは禁じられていた。
これは、違法な荘園を作らせない為ではないかと思われる。
また、違法田を撤去することは、国(朝廷)による土地への管理権限を強化することに繋がったのではなかろうか。
惟成は、いかにも真面目な文官だったのだろう。
そしてその真面目さゆえに、いかにも文官が考えそうな理想を実現しようとしていたのではないだろうか。
とにかく、惟成が左衛門権佐に就いてからというもの、以前にもまして検非違使庁の仕事が忙しくなった。
実際に、田薙ぎの仕事を手伝わされたからである。
それが違法な物であったとしても、田で育つ稲を勝手に刈ってしまうようなイメージの悪い事をしたがる者などいない。
そこで検非違使庁に仕える放免達に目が付けられた。
そして、そんな理由から福安も選ばれたのである。
また面白いことに、集められたメンバーは皆がいい感じに"強面"で、いかにも勝手に田薙ぎをしそうな感じがした。
そして、いよいよ実行する段になって、福安は一度だけ惟成の顔を拝んだのである。
惟成は一見、中肉中背で穏やかそうに見える男だった。だが、何となく目が怖い。
文官のくせに、放免達を前にしても物怖じしない、淡々と話を続け、仕事の目的から段取りまで細かく語った。
……実は、こういう御仁が、大きな事を遂行するタイプではなかろうか?
とさえ思われた。
だが、それ以上に気になったのは、集められた放免達の顔が見事に怖過ぎることである。
えっ! ……この連中と組むの?
まさか、……見た目からして怖がられる人材を選んでないよね!
見た目はゴツイが、繊細なところがある福安はショックを受けてしまった。
そして、いよいよ放免選抜部隊による"田薙ぎプロジェクト"が始まったのである。
福安は、今では放免達の出世頭になっていた。
もちろん放免なので、官位が得られるような出世はできないが、それでも他の者とは違って再犯性もなく、振られた仕事を着実にこなすからだ。
そこで今回は、田薙ぎ部隊の指揮官の一人に選ばれた。
そして今日の現場は、ちょっと変わっていて、皆が攻めあぐねている所なのである。
蹴散らす相手が、子供ばかりなのだ。
不思議なことに、この辺りでは一度も大人らしい大人を見たことがない。出会うとしても、十代前半にしか見えない子供達ばかりで、その中でも比較的に年上に見える十七、八歳ぐらいの少年が中心になって田を守っている。
おそらく日が昇ると同時に農作業を始め、さっさと終えてしまうのだろう。
福安達が出向く頃には、誰も見当たらないのだ。
気持ち良いぐらい静かで、乾いた風が吹いてくる。
雨に見放され干上がってしまった田の稲は、例外なく弱り切って今にも死にそうだった。
……放っておいても問題ないだろうに。
田の周りには、それを取り囲むように、人気のない小屋が建っている。
おそらく、以前ここで米を作っていた人達が住んでいたのであろう。
だが今では、廃屋同然になっていた。
真昼間でなくても、今日は暑過ぎる。そこで福安達は、廃屋の側で少し日陰になっている田を刈ることにした。
誰もがてっきり、簡単にできる楽な仕事だと思っていたのだが、
「 イャー、イャー 」
と、何処からか子供達の甲高い"鬨の声"のような物が聞こえてきた。
すると、それに合わせて石礫が雨のように降ってくる。
これには大の大人達も逃げ惑った。
見上げると、廃屋の屋根や、すぐ側にある木の上から子供達が大量に石を投げている。
ザラザラと降り注ぐので、男達は一瞬にして逃げ場を失った。
屋根の上では、元気の良さそうな子供達が嬉々と笑って見下ろしているのだ。
しかも、結構な命中率だ。……侮れない。
大人ではなく、子供に撃退されるとは!
親達はどうしたんだ? ……いや、それとも、子供達だけで住んでいるのか。
とにかく子供らは、まるで"印地打ち"をするかのように、石投げを楽しんでいた。
印地打ちとは、本来、若者達が二手に分かれて、石を投げ合う"石合戦"のようなものである。
平安時代では、端午の節句の"遊び"としても親しまれていたらしい。
( どう考えても、……打ち所が悪いと、本当に死人が出そうな危険な遊戯に思えるが。 )
もともとは、その年の作物の豊凶を占う神事から始まったのではないかと言われている。
相手は子供といえども、福安達にとっては、これはちょっとした武力行使に違いなかった。
こんな風に大量の石で狙われたなら、たとえ弓や太刀を用意していても対抗できない。
大人達は子供らの攻撃になす術もなく、妙な話だが、せめて大事な烏帽子だけは潰されまいと頭を押さえて身を低くした。
だが、頭に血が上った福安は、子供のいる屋根の方を見上げると思わず叫んだ。
「 誰ぞ、礫投ぐるは! 痴れ者が 」
すると、ボンという音がした。
頭に石が当たったのか、福安はその場に倒れたのである。
そこで仕方なく、配下の者達が福安の体を引きずるようにして回収した。
命あっての物種である。
幸いにも、福安の怪我はそれほど酷くはなかった。
だが残念ながら、無傷というわけでもない。
礫が当たったせいか、助け起こされた時には額から血が出ており、傷が残ってしまった。
そのせいか、それから暫くの間、福安は家に引き籠ってしまったのである。
引き続き、裏街道を通って書いてみようと思います。
これからも、宜しくお願いします。




