災い転じて"匡衡衛門"
いよいよ、花山天皇時代に突入し、有名人の名前がちらほら出てくるようになりました。
書くのは結構、緊張します。上手く書けているといいのですが、宜しくお願いします。
寛和元年(985年)、四月も終わる頃になって、藤原斉明の件は終わりを迎えた。
といっても、斉明は既に射殺され、事件の真相を詳しく知ることはできない。
だが、保輔の行方は、まだ分からないままだった。そこで、捜査は引続きコツコツと勧められている。
だが初夏を迎えると、使庁の中は全くの別件で忙しくなった。
この年は、雨に恵まれない年であったようだ。
各国から 『日照りが続いている』 という情報がもたらされ、朝廷では祈雨の神事が行われた。
平安時代から今に至るまで、都の水源地として尊ばれている"神泉苑"では雨乞いが行われ、内裏の中でも、大極殿にて祈雨の読経がなされる等と、いろいろと試みられたがなかなか結果が出なかった。
また、花山天皇の子を宿した女御・藤原忯子の体調も捗々しくない。
暑くて雨の降らない夏は、いろいろと世の人々の心を不安にさせるようだ。
そこで願掛けを兼ねて"恩赦"を行うことになり、検非違使庁ではその為の人選を任されることになった。
都にある左右の獄に収監されている罪人たちの中で、罪が比較的に軽い者や、嫌疑で捕らえられている者達を免罪にしなければならない。
やっと藤原斉明がらみの地方出張が片付いたばかりなのに、今度は、忠明達のような下っ端の留守番組が大忙しである。
……それにしても、囚人を放ったところで、どの程度の御利益があるのだろうか?
そう思いながらも、囚人達の罪状や、現在の状態などを必死に調べ上げ、皆で話し合った。
恩赦するなら、せめてもっと早く教えてほしかった。……とはいえ、こればっかりは事前に知ることはできない。お天道様の都合だからだ。
そこで、とりあえず二つの獄の囚人達をチェックした結果、
健康状態に問題がある者 (獄の中では死んでもらいたくないから)
刑が軽い者
再犯性が低く、人柄も悪くない者
そして、放免として使えそうな者、
……そういう観点から人選し、なんと、三十人余りを免罪することになった。
そんな訳で、この年の平安京には、沢山の放免達が解き放たれることになったのである。
そして、そんな緊急事態がやっと片付いたある日のことだ。
忠明は、朝早く日の出と共に使庁に出勤していたので、昼近くなると流石に腹が減り、食事を取りたくなった。
因みに、いつも使庁で食事を取る時は、入口近くにある官位が低い者達が利用する"床子座"を利用している。
季節は、もうすっかり夏だ。入口に近いからといって、特別に風通しが良いわけではないが、床子座は、土間の上に床几が置いてあるだけのカジュアルな空間なので、他に利用者がいない時には仮眠するのにもってこいなのだ。
そこで食事を済ませたら直ぐにでも午睡をし、夕方の涼しくなった頃から、もうひと働きするつもりでいた。
この季節になると、食べ物の安全性をチェックするのも一苦労である。
忠明は、なるべく食べる直前に、若竹丸に飯を持って来させた。やはり、朝早く用意した食事を持ち歩くのは危険だからだ。
早速、日に干してカチンカチンに乾いた強飯を袋から取り出すと、それを少しずつ噛み砕きながら、近場で汲んで来させた清水で流し込む。
食事といっても、呆気ないものである。
ただ、若竹丸が汲んでくれた新鮮な水が喉を通るのが心地良かった。
暫くすると、睡魔が襲って来たので、いよいよ床几を独占しようと足を伸ばす。
ずるい話だが、眠ってしまうと、邪魔だからといって大きい忠明を排除してまで座ろうとする者もいないのだ。
……つまり、眠った者勝ちなのである。
だが、その日はいつもと違っていた。体を伸ばした途端に、何やらもちりとした人の存在を感じたからだ。
どうやら、誰かが割り込んで来たようである。
このクソ暑いのに、一体、誰なのだ?
よく見ると、錦部文保の丸い顔がこちらを窺がっているのが見えた。
「……はぁ? 」
「よう、息災か」
「何を申されるかと思えば、……錦府生様、昨日も見えたではありませんか! 」
今でも時々、錦部文保は忠明が使庁で働き始めた頃のようにからかいに来る。
……いまだに子供扱いなのか?
と、迷惑に思うこともあるが、文保には全く邪気が無く、むしろとても嬉しそうなので咎められない。
「貴方様のように、功を立てられた方が、このような下賤の者達の処に参られるとは、如何なされましたか? 」
文保は、藤原斉明の件で褒賞を得た為、そろそろ官位が上がるのではないかと、専らの噂なのだ。
「……いっそ、お上の方々の処で寛がれては如何でしょうか! 」
最近は、忠明も負けていない。ここぞという時には、上手い返しができるようになった。
「ハハハ、……あの様な処では心後れるわ。そなたも言うようになったな、真に偉うなったものじゃ」
何だかんだと言いながら、実は嬉しそうに笑っている。
確かに、少しぐらい出世したところで、身分の低い生まれの者が高位の者に話を合わせるのは気疲れするのだろうし、それに、時には体良く雑用を押し付けられることもあるかもしれない。
「そなたこそ、床子座で随分と寛げるようになったな、目覚ましいことじゃ」
……本当に、心の底から褒められているのか?
そんな風に疑問に思いながらも、結局、この御仁の話し相手になっている。
しかし、本当は夏の暑さと、恩赦の準備に追われて、ここ数日の間、ゆっくりと眠れていないのだ。
それでも人の良い忠明は、ちょっと困ったように姿勢を正すと、かまって欲しそうなオーラを出している文保の方に顔を向けた。
「あぁ、それで、……そちらの追捕の件は、何かございましたか? 」
それとなく、仕事の進捗を聞いてやる。文保は忠明達とは違い、まだ南家の保輔のことを追っているのだ。
「まぁ、……まだまだじゃな 」
「はぁ、さようでございますか。……ならば寝ぶらしていただきますぞ」
忠明は強引に眠ってしまおうとした。
「こりゃ、待たんか、良い物をやるで! 」
そう言うと、文保は紙包みから何かを取り出した。
それは胡苽である。
「早朝に狩ったものじゃ、新しきものぞ! 」
にっこり笑いながら手渡された。
まぁ、夏のおやつの定番ではあるが、……何だか、やっぱり扱いが子供っぽい。
「はぁ、……胡苽ですか。では醓もいただけますか? 」
胡瓜だけでは物足りない。ついでに塩でも付けて欲しいところだ。
「そなた、随分と驕ったことを申すのう、……よいから、黙って喰え」
そう言うと、文保自身がバリバリと胡瓜を食べ始めた。
「恩赦の件、そちらはちゃっちゃと終って何よりじゃ、……わしらの方は、さらりとは進まんのでな」
やはり仕事の愚痴を聞いてもらいたいようである。
「それはそうと、江弾正弼様 (大江匡衡)の御様子は如何でございましたか? 」
確か数日前に事件の報告も兼ね、文保が匡衡の見舞いに行ったと聞いたが、
「おう、よう聞いてくれたわ! 」
文保が喰いついた。
藤原斉明追捕事件は、寛和元年にあたる正月に、弾正小弼を務めていた大江匡衡が何者かに襲われ、左手の指を切り落とされたことに始まる。
当時の刀が、それほど鋭利でなかったとしても、かなりの疵を負ったのではないだろうか。どの指かは分からないが、切り落とされたと伝わっているのだから。
しかし、"左"という記述は、彼が"筆を持つ"能力を決して失わなかった。……という事を物語っているのだと思う。
( まあ、仮に左利きなら、もっと大変な苦労話が伝わっているとは思うが )
この人は本来、大江氏といって、代々、優秀な学者を輩出している家系の生まれであった。
そこで、年若い頃から熱心に勉学に励み、優秀な文官となっている。
しかし、この時代ともなると、朝廷の中枢は、ほとんど藤原北家の人間に握られていたので、どんなにあがいても中級官僚になるのが精一杯だった。
だが、そんなパッとしない匡衡の人生に運命の女神が微笑んだ。
歌人としても有名な"赤染衛門"と出会ったからである。
赤染衛門 (956年頃生まれか?) は、大隅守・赤染時用の娘だ。
だが母親が、前夫である平兼盛 (この人も百人一首に歌がある) と婚姻していた頃に懐妊した子ではないか、とも言われている。
やがて十歳前後になった頃、赤染衛門は後に左大臣にまで出世する"源雅信"(宇多天皇の孫) の邸に出仕したようだ。
仕事はおそらく、雅信の娘・倫子 (964年生)の世話係の女童で、子守りや遊び相手のようなことをしていたのではないだろうか。
そして成長すると、倫子付きの正式な女房になった。
やがて倫子が、後に右大臣まで出世する"藤原道長"に嫁ぐと、それに従い、最終的には倫子と道長との間に生まれた"中宮彰子"の女房として、一条天皇時代の宮中に出仕することになったのである。
雅信邸で女童をしていた頃には、こんなにも政治の中心近くで働くとは思ってもみなかっただろう。
だが、赤染衛門は生来の強運か、人柄が優れて良かったからか、見事に道長時代の荒波を乗り越えていったのである。
そして、そんな衛門が年頃になった頃の話だ。
彼女は高貴な生まれの女主人に仕えていたので、かなり高位の御曹司達と知合う機会があったのではなかろうか。
また実際、衛門の妹は道長の兄にあたる道隆と付き合っていたようだ。
百人一首の一つに、
やすらはで寝なましものを 小夜更けて
傾くまでの月を見しかな
(貴方が来るかと思って) 落ち着いて寝れませんでした。
そのせいで西の空に月が沈むまで見てしまいました。
という歌があるが、この歌は、妹が約束をすっぽかされた時に、その"恨み歌"として赤染衛門が代作したものとして伝わっている。
確かに、国司クラスの娘では、皇族とでも縁続きになれるような藤原北家の男達には役不足なのかもしれない。
そういうキラキラした御曹司達の現状を目の当たりにしたせいか、衛門は堅実な出会いを求めるようになった。
二十歳になった頃のことだ。
赤染衛門は"法華八講"(法華経を読んだり、講義する法会で、ちょっとした仏教のイベントのようなものだったようだ) にて、二人の若者に出会った。
一人は大江匡衡、そしてもう一人は、その従兄弟の大江為基である。
さすがに大江氏、二人揃って優秀に見えた。
だが、タイプ的には為基の方が好みだったようだ。
匡衡というと、何となく無口で神経質っぽい。
それに、後から分かったことだが、この頃の匡衡は女性と接する機会もほとんどなく、ただただ固まっていたのだ。
また匡衡の身長は、当時の人にしては高く、しっかりした骨格の持ち主なのに武術の方は全く才能がなかった。むしろ"運動音痴"と言えるぐらいの酷さだ。
いつも痩せた肩を揺らしながらヒョロヒョロと歩いている。
一方、為基は中肉中背で、少し童顔なところが可愛らしい。
匡衡は、何かにつけて小難しい話をしたがるが、為基とは普通にさりげない会話が楽しめる。
そこで匡衡が為基と一緒にいると、まるで引き立て役のように見えた。
彼らの官位は決して高くはなかったが、赤染衛門にとっては、そのおかげで気兼ねせずに付き合うことができたから、良かったのかもしれない。
だが、為基は家族に勧められた別の女性と結婚してしまう。
失恋した衛門は、結局、以前から諦めずにアタックし続けていた大江匡衡と一緒になったのである。
「江弾正弼様がのう、阿呆のようになっておられたわ! 」
「はぁ? 」
「わしが先日、件の追捕の話で大江様の邸に参ったら、……まぁ、童子のように、妻君様に甘えておったのじゃ」
文保が何故か顔を赤らめ、不機嫌そうに漏らした。
「えっ、あの江様がですか? 」
忠明も、ちょっと失礼かもしれないが、笑いそうになりながら合槌を打つ。
大江匡衡は、検非違使達にとっては、なかなか侮れない存在だった。
今回は匡衡自らが被害者なので、事件の進捗を説明に行くのだが、その都度、物言いが付く。
本来、文章道(漢詩文等を扱う学問)の専門家であり、明法(法律等)も知らないわけではないからだ。その上、正義感まで強くて口うるさい。
いつも忙しい使庁の人間にとっては、なるべく近づきたくない人物だった。
もともと妻君(赤染衛門)は、女主人に付き従っている為に別居していたのだが、匡衡が手を怪我したことを機に同居し始めたらしい。
今では、怪我の手当てから墨色の調節まで、……何でもやってもらおうとしている!
そんな妙な噂が流れていた。
「誰が申したやら、"匡衡衛門"とは!……よう言うたものじゃ」
「あの妻君様は、……小そうて、忠実忠実しゅうて、真に傷い気であられまするな! 」
とうとう忠明まで悪乗りして笑い出した。
確かに、ひょろりと背が高い匡衡と、丸くて小柄な衛門は、凸凹コンビという感じがしてユニークだ。
後に紫式部が日記の中で、二人の夫婦仲が良いことを"匡衡衛門"と呼び、周りの人々が面白がっている。と紹介した。
忠明は、赤染衛門をそれほどじっくりと見られる立場ではないのだが、それでも有名人なので遠目でしっかりチェックしている。
実は、ちょっと"カワイイ系"なので隠れファンでもあった。
「下の者にさせればよいものを、……何やかやと悉く、こまごまと頼りよるそうな! 」
「……それこそ"禍を転じて福と為す"でしょうな! 」
何だか微笑ましい話題を聞かされ、忠明の表情は綻んだ。
「……そうじゃな、わしもあやかりたかったわ」
ポツリと文保が呟いた。
「わしも、匡衡衛門に成りたかったわ」
そういえば、文保は長い間、追捕の為に家を空けた為、妻君に逃げられた。
……と、そんな話を小耳に挟んだ気がする。
手柄を立てられたのに、気の毒な話だ。
仕方がない。使庁の仕事は忙しすぎるのだ。
そんな風に、同情せざるを得なくなった。
妙な話だが、忠明は時々、身分の上下に関係なく愚痴の聞き役になることがある。
そんな忠明を見て、一番親しい間柄の錦為信は、
「やはり"生観音殿"は違うのう! 」
そう言って、からかったのだった。
できれば、教科書に載っていた人達の裏側や、見えない細かいことが描ければいいのですが、
……これからも宜しくお願いします。




