花の貴公子ではいられない!
もう少し早めに投稿する予定だったのですが、遅くなりました。
実力以上のことをしている感が半端ないです。
でも、何とか外れずに書けたと思いますので、宜しくお願いします。
いつの時代にも、やんちゃな奴らは存在する。
それは下賎の者でも、身分の高い者でも同じだ。
藤原南家の事件に限らず、平安時代には、所謂、貴人と呼ばれる身分の高い人々の中にも、犯罪に手を染めた者達がいる。
忠明が、今まさに生きている時代より二十年程遡る頃の話だ。
天徳四年五月、村上天皇の時代に、武官として優秀だった"源満仲"の邸に賊が入った。
もしも武官の家に盗賊が入ったとすれば、よく考えると相当ヤバイ事である。返り討ちにされる危険もあるからだ。
だが、満仲の屋敷に賊が入ったのは、この一度だけではなく、この後に十年程経った頃にも、左京一条にあった邸宅を武装した集団に襲撃され、放火までされている。
ここまでくると、本当にその者達が"盗賊"だったのか、それとも何か別の目的があって満仲の家を襲う必要があったのか? ……と、疑わしくなるのだが。
とにかく、天徳四年のこの事件に関しては、犯人の一人が弓で射られ捕らえられた。
この男の話では、この件は"ある身分の高い貴族"が中心になって計画されたものだ。……ということである。
やがて、捜査の結果、村上天皇の甥が首謀者であることが分かった。
(厳密に言うと、村上天皇の父である醍醐天皇の第六皇子の三番目の息子ということである。……どんだけ、親戚がいるのやら! )
また、その外にも、宮内丞や、土佐守の息子(彼も天皇家の曾孫の世代の人らしい)まで、一枚噛んでいるのが発覚した。
そこで早速、検非違使右衛門志・錦文明が、孫王A(今更かもしれないが、プライバシーの関係上こう呼ぶことにする)の邸に行ったが、
「痢病を煩っているので、家にずっと居た」
と、取りあってもらえなかった。
だが、外に名前が挙がっていた者の一人が、某内親王(この人は村上天皇の祖父である宇多天皇の第五皇女だ)の出家先に隠れているのが見つかる。
そして、その証言から満仲邸に強盗として入った輩の首謀者が孫王Aであり、その贓物(盗品)が全て、Aの邸の中にあることが明るみに出た。
このように、名家に生まれたはずなのに道から外れ、暴挙に走った不良貴公子らの話が伝わっている。
生まれた子供達が、立派に成人まで育つ割合が低かったこの時代、当然、保険代わりに沢山の子供が生み出されていたわけだが、如何せん、彼らを活かす為に必要な仕事も官位もどんどん不足していく。また兄弟が多いと、財産もそれだけ減っていくのだ。
そこで行き場がない貴人達の暴走が始まったのではなかろうか。
だが、逆のパターンもあったかもしれない。
それは御曹司が尊過ぎて、配下の者達が暴走したパターンである。
そんなことも、実は皆無ではなかったのでは?
当時の社会は、勿論、土地に根差し農業をしている人々によって支えられていた。それは間違いないことに思える。それでも都のような都会は、朝廷に仕える貴族と、それを支える従者や家人のような労働者と、そしてその家族らによって構成されていた。
そこで貴族と、それに連なる人々の関係はそれだけ密接だったのではなかろうか。
そんな人達の中には、主の人間関係に影響を受ける者もいたようだ。
例えば祭りの見物の際に、牛車の場所取りで牛飼童(牛車の運転手)同士が喧嘩になって、……酷い時には、自分の主の身分が上だと、相手の牛車に乗っている貴族達を引きずり降した話まである。
また、主が大物貴族の宴会に参加している折に、帰りを待っている者同士が、普段から仲の良くない主人の家人で、いつの間か場外乱闘を始めてしまうとか、何かと事件が起こる火種が転がっていたようだ。
下の者が暴れると、イヤでも主人がそれを焚きつけたような噂が流れる。そしてそれが本当のことのように"独り歩き"を始めるのだ。
そうなってしまうと、はっきりとした否定ができず、だんだん既成事実のようになっていく、そこが、噂しか媒体がなかった情報社会の問題点である。
そして、こんなちょっとした悪い噂から、名門貴族である藤原南家の不幸は、連なっていったのではないだろうか。
話はまた、忠明達の時代に戻るが、
永観二年(984年)の秋、円融天皇が譲位し、いよいよ花山天皇の時代が始まった。
天皇といっても、まだ十代半ばの多感なお年頃である。
父は、例の冷泉院で、母はというと今は亡き藤原伊尹の娘、天皇にはなったが、後ろで支えてくれる有力な身内がいないので、もう既に、ちょっとしたアウェー感があったかもしれない。
そして、この天皇が即位した頃から、朝廷の力関係をめぐって、いろいろな件が起こり始める。
年が明けて、寛和元年(985年)正月六日の夜のことだ。
大内裏上東門の東にあたる西大路土御門付近で、弾正小弼・大江匡衡が何者かに襲われ、左手の指を切り落とされる事件があった。
この当時、匡衡は弾正台という、検非違使とは違って左大臣以下の貴族でも問題行動があれば摘発できる、監察部のような処に所属していたのだが、それ以前には右衛門尉として検非違使をしている。
実は、そのことが関係しているかもしれない。
そしてまた、この日のことを、当時、重職である蔵人頭を務めていた藤原実資は、その日記である 『小右記』 の中で、
『 匡衡、……敵の為に疵を被る 』
と書いている。
この記述からも、ただの強盗に会ったわけではない。……と思えるのだ。
また、同年の正月二十日の話だが、
土御門左大臣・源雅信の大饗 (まぁ、簡単に言えば大臣主催の大新年会なのだが)の帰りに、中門の内にて下総守・藤原季孝が何者かに顔を切りつけられる事件があった。
どうも当時の正月は、公卿や官人の付き合いで多くの新年会があり、皆が忠実に挨拶回りをしていたようだ。
『小右記』 の中でも、朝から既に他所で飲んで"いい感じ"に酔っ払った状態で、宴会の梯子をしている様子が書かれている。
大饗ともなると、かなりの酔客が出入りしたのではなかろうか、もしそうなら、それなりに何かのトラブルがあってもおかしくない。
とにかく、この事件のあった翌日には、犯人不明のままで朝廷から諸国に、正式に犯人を捜して捕えよ! との"追捕の官符"が下された。
やがて三月二十日頃になって、藤原季孝を傷つけた犯人が藤原斉明(保輔の兄弟の一人)の従者二人と判明する。
そこで検非違使庁の別当・源重光が花山天皇に上奏し、検非違使右衛門尉・源忠良と同じく左衛門志・錦文安(錦部文保のことか?)が犯人を逮捕する為に斉明の処へ赴いた。
彼らは 『……斉明が従者二名を差し出さない場合には、斉明も逮捕せよ』 と命を受けている。
だが、肝心の斉明は、摂津国に行ってしまっていることが判明した。
三月二十七日、雨が激しく降る日のことだ。
早速、源忠良と錦文安が戻って来たので報告がなされた。
二人は摂津国にも向かったが、斉明は既に海上へ逃げていたことを告げる。
また逃げ遅れた郎党から、
『 斉明が大江匡衡を傷つけ、藤原季孝を襲ったのは保輔だ 』
との自供を得た。……と報告したのである。
そこで保輔が隠れていると思われる兄弟の父・藤原致忠の邸に検非違使達を向かわせた。すると、やはり保輔も見つけられなかった。
致忠は、
『 保輔は今朝、宿願があって長谷寺に旅立ちました。近いうちに帰って来ます 』
そう答える。
そこで期日を決めて、致忠には、その日までに保輔を出頭させるという申文を書かせた。
申文とは、本来、公家や官人が天皇および太政官 (現代風に言うなら大臣クラス) に対して提出する上申文書のような物だが、この場合は、致忠の言質を取る為に一筆書かせたのだろう。
しかし、当然のことながら保輔は期日になっても現れなかった。
そして、そのまま消息を絶ったのである。
一方、摂津国より海に逃げた斉明だが、海路にも追捕の官符の効力が発揮されたのか、逃げきれずに苦戦していたようだ。
四月十一日、この日は雷雨の日だったようである。
『 右衛門尉・源忠良、左衛門府生・錦部文保、右衛門府生・(安倍)茂兼 等、海賊を追捕して、多くの疵を被った 』 という事なので、この話を奏上し、早速、褒賞として疋絹(絹の反物)を賜った。
と、記されている。
この記載だけ見ると、検非違使達は追捕のために、結構、遠くまで出張していたようだ。
もちろん、この件は官符も出ているので、地方の国司や役人達の力も借りて探索しただろうが、都の治安も放っておくわけにはいかない。そこでこの間の使庁は超忙しかったのではないかと思われる。
やがて、この件は呆気なく幕が閉じられた。
四月二十二日
『 惟文王いう者が、近江国に於いて、左兵衛尉・藤原斉明を射て、その首を執った』
という報告がもたらされたからだ。
では、惟文王とはどんな人物だったのか? 近江の地元の豪族なのか、どのような立場の人物なのか、……残念ながら全く伝わっていない。
唯一つ考えられることは、当時から地方勢力も巻き込んだ大掛かりな犯罪捜査が行われていたのではないかということぐらいだ。
検非違使の使われどころの皆さん!
出張、お疲れ様でした。……という感じである。
とにかく、この日を境に、斉明に関する記述は全く見つからない。
では、この間に忠明は何をしていたのか?
ちゃんと都で留守番をしていた。
いくら南家の若者達が地方に逃れようが、都から犯罪が無くなるわけではない。
忠明は忠明なりに、看督長として都の仕事をコツコツとこなしていた。
「美看督様は、話がようわかる方じゃ」
誰が言ったかわからないが、放免やら現場で働く下々の者からは何となく慕われている。
また、清水の舞台から飛び降りたことは、忠明にとっては、ちょっとした黒歴史だが、危険な仕事を任される下働きの者達には、
"強運の男"と働ける!
きっと、ヤバイ仕事もから無事生還できるに違いない!
……と尊ばれているのだった。
そこで、今では敏腕現場監督のような立場で、検非違使の上役達からも一目置かれている。
こんな感じで、何だか真面目で人が良い忠明は、問題を起こして社会的に追い詰められていく南家の御曹司・保輔のことを実は心配していた。
……本当は、御曹司は巻き込まれただけではないのか?
……あの取巻き達が暴走し、御曹司も抜き差しならぬことになっているのでは?
と、変な話だが、敵の心配をしている。
「……宿願があって長谷寺に旅立ちました」
だが致忠の言ったその言葉に、ちょっと安心した。
……ところで"宿願"とは何だろう?
……自分と違って、あれ程、恵まれた立場に生まれておるのに!
保輔は旅立ってから、暫くして消息を絶ったが、忠明はそのおかげで安堵できたのである。
昔も今も、漢字って難しいもんですね。
実資さんに限らず、日記の中に出てくる人の名前って、結構、適当なのかな?
誤字なの? ……と思う時があります。
ちょっと違っていても悪しからず……です。




