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鳥辺野界隈 ― 平安時代アンダーグランド物語 ―   作者: クワノフ・クワノビッチ
19/27

南家大暴走

いよいよ円融天皇から花山天皇の時代、いろんな事件が起ころうとしています。

面白く書けるといいのですが!


 定信邸での事件の後、暫く経った。

 着鈦政も無事に終わり、平安京は暑い夏を迎える。


 時の権力者・藤原兼家(かねいえ)の住まいである"東三条邸"の近くに、一軒の屋敷があった。

 その建物は、長い年月を経ているからか()()()()()見えるが、土塀などは()()()()と整備されており、庭も()()()()手入れされてるようで小奇麗だった。

 何となく、住んでいる人間のセンスの良さを感じさせる立派な屋敷である。

 実は、この辺りは御所にも近いので高級住宅街なのだ。

 そこで、昔から身分の高い公卿の家が立ち並んでいる。

 そして、古くからここにある()()屋敷は、物売(ものうり)の間で"羽振(はぶ)りの良い家"だと、いつの間にか噂されるようになっていた。

 確かに物売が訪ねると、話()()なら意外と簡単に聞いてくれる。

 それに、門から余り離れていない部屋には、遠目でも分かるように、(かわ)行李(ごうり)(当時、衣類等を入れるのに使った革製の収納箱)が積まれているのが見え、金回りが良さそうだったからだ。


 ある日のことである。

 一人の初老の物売が、この屋敷を訪れた。

 男がこの屋敷に来たのは、初めてではなく二回目である。

 初めての時は、まずは様子を見ようと、手持ちの絹を出し適当に高い値を言ってみた。

 まぁ、……今日は売れなくても、仕方ないだろう。

 そう思って、家人の反応を見ていると、

「そちの売物は、絹や布だけか? 当家は、武具なら()うてやるかもしれんが」

 と、()()()()断られた。

 そこで、今度は太刀を仕入れ、何振りか持って来ている。

 男も物売としてはベテランなので、

 ……まぁ、そう簡単に商談など進むものではない。

 と、今日も覚悟していた。どちらかというと、相手の趣向や懐具合を探るのが目的だったのである。

 だが、不思議なことに、二回目にして商談がスイスイ進んだ。

 確かに 『武具ならば、買うかもしれぬ』 とは言っていたが、さほど高級な物を持って来たわけでもないのに、"言い値"で買ってくれるという話になった。

 それでも男は、これからも贔屓(ひいき)にしてもらう為に、控え目な値を付けたつもりだったが。

 そして、いよいよ代金が支払われることになった時のことだが、物売は品物を持ったまま、わざわざ屋敷の奥にある"倉"の方へ行くように言われ、一人の若い家人に案内されることになった。 

 はて、倉に()()行くのか?

 男の頭に、一瞬、疑問が過ぎった。

 まぁ、品物を納めるのなら、……こういう事もあるのだろうか? などと思いながら従いて行くが、何となく不穏な気配を感じる。

 倉へと案内している男は見るからに()()そうで、ただの下働きには見えない。

 そこで長年の勘からか、物売は油断しないように身を固くすると、男から少し離れて歩いた。

 やがて倉の前で、ピタリと歩みが止んだ。

「もう、よいぞ! 金をやる」

 その言葉と同時に、男は振り向きざまに太刀を抜くと、物売に振り下ろした。

 ギャッ! ……と、甲高い声を発し、()()()と人が倒れる。

 物売は、そのまま殺されてしまったのだ。

 すると、家人は何事も無かったように死人の足首を掴むと、それを引き摺りながら運び、倉の中に掘られている穴に向かって放り投げた。

 折しも夏である。倉の中からは酷い臭いが溢れ出す。

「もう、この穴では間に合わんな、……どれ、もう一つ掘らせるか! 」

 そう言うと、家人は鼻を抑えながら倉の外に出て行った。

 どうやら、倉の中には穴が掘られていて、物売が来ると、その持参した品物が気に入れば品物だけを取り上げ、代金の支払いの代わりに殺して穴に突き落としていたようである。


 この屋敷の主は、兵衛尉(ひょうえのじょう)で五位に叙せられた"藤原保輔(やすすけ)"である。

 藤原()()(れっき)とした御曹司なのだ。

 だが、『今昔物語』 と同様に、平安から鎌倉時代にかけての説話を集めた 『宇治拾遺物語』 では、保輔がとんでもない"盗人"であったかのように描かれている。

 藤原北家の人々が、まるで政治を独占しているかのように()()()()している裏で、南家の中からは"危険人物"が生まれたかのように書かれているのだ。

 では、どうして同じ藤原氏なのに、北家の人達だけが幅を利かせ、南家の人々は、まるで置き去りにされたかのように悪名を残すことになったのだろうか。


 日本史の教科書で誰もが知っているだろうが、藤原氏が歴史の舞台に初めて現れるのは、"大化の改新"の立役者になった中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)からである。

 だが、この時代の朝廷では、まだそれ程、藤原氏の力は大きくなかった。

 それは藤原氏以外にも、沢山の有力豪族が存在していたからだ。

 だが、天皇の後継者争いや、都の遷都等、政治的な問題に関与するうちに徐々に力をつけ、また、他の豪族を蹴落としながら、上手く天皇家との姻戚関係を利用して政治の中枢に根を下ろすことになった。

 ちなみに藤原()()()()という呼び方は、元をただせば、藤原鎌足の子である藤原不比等(ふひと)()()の子供達の()()()()かを示すものである。

 例えば、()()は長男である武智(たけち)麻呂(まろ)の家が、弟である房前(ふささき)の家の南にあったからそう呼ばれるようになったもので、逆に房前の子孫は()()と呼ばれてことになった。

 後の二人の弟達は、宇合(うまかい)式部(しきぶ)(きょう)だったので()()麻呂(まろ)左京(さきょう)大夫(だいぶ)だったので()()と呼ばれることになる。

 何れにしろ、昔の人々は住んでいる場所や、就いている役職で呼び合うことで、同じ氏を名乗る"古い親戚"を互いに区別しのだろう。

 この藤原四家の子孫達は、その後も、時代の波に揉まれながらも歴史の舞台に度々登場してくる。

 ごく初期の頃には、長兄である武智麻呂(南家)の子孫が活躍していたが、病気や災害、天皇の皇位継承権を巡る争い等で勢力を削られてしまう。

 だが不思議なもので、分家したり、兄弟でそれぞれ派閥を作って競うと、同じ藤原の姓を名乗っていても、()()()にされて何となく生き残っていけるようだ。

 南家が朝廷の中枢から外された頃には、やや()()()()があった房前の子孫(北家)がタイミング良く活躍し始めるのである。

 平安京に遷都されて落ち着いた頃であるが、まず藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、皇太子時代の嵯峨(さが)天皇に仕える仕事をしていた関係で信任を得て、それを機に急速に昇進していくことになった。

 さらに嵯峨天皇の息子である(にん)(みょう)天皇と、冬嗣の娘である順子(のりこ)の間に生まれた(みち)(やす)親王が即位して"(もん)(とく)天皇"になる。

 それからは冬嗣の息子・良房(よしふさ)が"清和(せいわ)天皇"、そして、その息子(但し養子だが)基経(もとつね)が"朱雀(すざく)天皇"の外祖父になり、これが藤原北家摂関政治の全盛期を生み出す契機となった。

 だからといって、北家以外の藤原氏の人々が途絶えてしまったわけではない。

 例えば、朱雀天皇がまだ皇太子だった時に東宮(とうぐう)学士(がくし)(皇太子付きの教育官)として仕え、それ以来、朱雀・村上天皇時代の政治を支えることになった藤原元方(もとかた)などは、()()の人だった。

 元方の娘・祐姫も村上天皇の()()(天皇に仕える女官としては立場が低いのだが? ) となり、第一皇子・(ひろ)(ひら)親王を生んだ。そしてそれが功を奏したのか、元方も大納言の位まで上る。

 だが残念なことに、当時、勢いがあった藤原北家の公卿達に気圧され、次の天皇の座は北家の藤原師輔(もろすけ)の娘・安子(中宮)が生んだ第二皇子・(のり)(ひら)親王つまり"冷泉(れいぜい)天皇"に渡ってしまった。

  『 大鏡 』 の記述から考えても、二年程で冷泉天皇を譲位させるなら、わざわざ()()皇子なのに即位させる必要があったのか? ……と、突っ込みたくなるのだが!

 とにかく、元方にとっては、ショックな事件だったのではなかろうか。

 そして、その無念から元方は死後に怨霊となり、師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫まで祟ったと噂されたそうである。

 現代人の我々にとっては、とんだ()()()にしか思えない話だ。

 だが、当の南家の人達にとっては、単なる風評被害程度では済まなかったのだろう。

 ドンドンと朝廷からの扱いが悪くなっていくのだから。

 そんな()()が、保輔の心を腐敗させてしまったのかもしれない。

 何故なら、彼も村上天皇時代には大納言まで勤めた"藤原元方"の孫だからだ。

 また、保輔には男兄弟が三人いて、その中の一人に、和泉式部(『和泉式部日記』で著名)の夫として有名な藤原保昌(やすまさ)がいる。

 保昌も、保輔と同様に父・藤原致忠(むねただ)の息子だが、保昌の母は出自が分かっているが、保輔は分からない。そこで保昌の方が出世している。

 国司まで務めた人なので官位も決して低くはなかったが、北家の藤原道長・頼通父子の家司(けいし)(家内での仕事全般を取り仕切る)を務めている時期もあった。

 何だかんだと言いながら、この頃になると、南家は北家より下に扱われているようだ。

 そして、いよいよ円融天皇の時代になると、おそらく南家の娘は、天皇家と姻戚関係を結べる立場に()()なれなかったのではなかろうか。

 とにかく、名門・藤原氏は長い年月の間に地に溢れる様にドンドン増え、そして何度も仲間割れしながら分裂を繰り返し、その結果、一握りの人達しか政治の中枢で活躍できなくなってしまったのだろう。



 そして再び、話は戻る。

 夏の夕暮れ時に、一人の男が二条通りをトボトボと歩いていた。

 怪我をしているのか、苦しそうに足を引き摺っている。

 それは、殺されたはずの例の()()だった。

 最後まで()()()()()()()に穴に放り込まれたので、命からがら逃げ出してきたのだ。

 ……先に進めば"東三条邸"、そして御所へと大きなお屋敷が続いている。もしかして誰かが気付いて助けてくれるかもしれない。

 そう思って必死に逃げてきた。

 だが、無常である。

 やっと二条通りの人通りが多くなった辺りで、男は()()()()()しまった。

 道にバタリと倒れ伏した男の姿に、最初、通行人達が集まってきたが、それも暫くすると遠巻きになり、やがて無視され放置される。

 だが、そのままにしておくわけにもいかず、すぐ側の屋敷の者が物売の死体を片づけ、そして検非違使庁に知らせたのだった。


 実を言うと、このところ物売が妙な場所で死んでいたり、突然、失踪する事件が続いている。

 二条の辺りにある()()()お屋敷に入って、それっきり帰って来ない。

 ……そんな妙な噂が流れているのだ。


 そこで、少し離れた場所ではあるが、保輔の屋敷が疑われた。

 保輔という男は、最近、すこぶる評判が悪い。

 盗人のように物売から品物を巻き上げ、金を支払わない。……とか、良家の生まれなのに()()()()()だとか、いろいろと噂されている。

 だが、兵衛尉まで務めていた保輔を、検非違使庁では捜査できなかった。

 同じ武官でも、やはり触れることのできない上層部の人間だったからだ。


 次の日の午後、忠明が使庁に行くと、何やらザワついている。

 何か起こったのか? と為信に尋ねてみた。

昨夜(きそのよ)、東三条様の邸の側で、物売が息絶えておったそうじゃ」

「はぁ、……もしや? 」

「そうじゃ、また、太刀で斬られておった」

「……」

「皆が、()前兵衛尉(さきのひょうえのじょう)様の仕業ではないかと騒いでおる」

 その言葉に、ふと、忠明はある日のことを思い出した。







藤原保輔さんは、いろいろと言われてる人ですが、それでも、彼なりに思うことがあって、あんな事になったのでは! と、なるべく丁寧に書きたいと思っています。

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