雷ジングサン ― 新しいステップへ ―
ここのところ、昼過ぎには雨が降り、よく雷が鳴っています。
いかにも夏ですね。今回は夏らしい話ですが、季節は何故か、まだ冬という設定です。
延長八年(西暦九三〇年)旧暦の六月二六日(今なら七月末の頃)のことである。
宮中の清涼殿(天皇の御座所)に雷が落ちた。
この年の夏は旱魃に苦しんでいた為、宮中では、醍醐天皇の下、太政官達が "雨乞い" について話し合っていた。
だが、そんな日に限って、昼過ぎ頃から、突然、激しい雨が降り出したのである。
最初のうちは、『雨乞いの話をすれば早速降るとは……』 そんな雰囲気だったのかもしれないが、雨はだんだん豪雨に変わり、終には雷まで鳴り始め、会議どころの話ではなくなった。
当時、雷鳴があると、"雷鳴の陣"という陣形を清涼殿で敷き、近衛の諸将が弓の弦を鳴らして天皇を守ったそうである。
雷鳴の陣の様子は、清少納言の 『枕草子』 中でも、恐ろしいものとして取り上げられているから、御存じの方も多いかもしれない。
何でも、鳴弦には魔を払う呪術的な力があると信じられていたようだ。
だが、当然のことながら、雷様はそんな段取りを悠長に待ってはくれない。"雷鳴の陣"どころか、実際は、あっという間に雷雲が近づいてきたのだろう。とうとう清涼殿の南西の第一の柱に雷が直撃した。
そしてこの時、沢山の公卿や官人がそれに巻き込まれ、大惨事になったようである。
例えば(役職は一部略しているが……)
大納言 藤原清貫 は服に火が付き、胸を焼かれて死亡。
右中弁 平 稀世 は顔を焼かれて、重症。
また雷は、紫宸殿(天皇が公式行事や政治を行う場所)にまで渡り、そこを警備していた兵衛府の者達の命を奪った。
紀 蔭連 は服を焼かれて悶え苦しみ。
安曇宗仁 は膝を焼かれて、重傷。
右兵衛佐 美努忠包 は髪を焼かれて死亡した。
当然のことながら、救急医療がない時代である。部分的にでも大火傷を負った人達は、死に至ったのではなかろうか。
また、この大惨事は相当に衝撃的なものだったのだろう。当時、理不尽にも中央政界から追いやられた菅原道真のイメージにも結び付いて、
『 落雷は菅原道真公の怨霊の仕業ではないか…… 』
と、道真が北野社に祀られるきっかけになったと謂われる有名な事件だ。
これは、『日本紀略』 という書物の中で、醍醐天皇時代の出来事として書かれている話だが、ここに、右衛門佐 美努忠包という名前がある。
そして忠明は、今まさに、その孫にあたる美努定信の屋敷に招かれ、馳走になっているのだった。
同じ美努姓であっても、定信は忠明と違い、さほど背も高くないし細身である。
見た目も穏和な感じで、言われないと、数年前まで検非違使庁に勤めていた人には見えない。
むしろ、とても品良く見えるので、田舎者の忠明の目には根っからの "都の貴族" のように映った。
それに、はっきり言って、和泉の国に住んでいる美努家の者達と比べて、都に住まう美努の人々では格が違うのだ。
和泉は出所かもしれないが、都の美努は平安京への遷都と共に、わざわざ朝廷を支える為に上洛した官人の一族であり、それなりの位も持ち合わせていた。
そして定信も、検非違使としては志(第四番目の位の役職) まで勤め上げた人だったのだ。
そこで、呼び出しが掛かった時には、正直、緊張した。
いくら交流が途絶えているとしても、同族である。
清水寺での事件のことで、何か影響を与えていたら、結構な迷惑を被っているかもしれない。
……ここは、黙って謝るしかないかもしれぬ。
そう腹を括って、参上したのだ。
「して、そなたは天火様と呼ばれているそうじゃなぁ」
そう言いながら酒杯を飲み干すと、定信が話の口火を切った。
「あっ、はぁ……」
それ程飲んでもいないのに、忠明は緊張と恥ずかしさで顔が赤くなっている。
「わしは、……いや、我は幼き頃に兵衛佐様(忠包)の話を聞き及びまして、尊いことだと思うておりました。故に、……童子の間で、自慢話をしていたところ、そのように呼ばれるようになったのです」
「フハハ、……面白き話じゃな」
図体はデカいのに、子供のように無邪気な顔で含羞みながら話す忠明を見て、定信は思わず笑った。
「それで、天火様とは! ……祖父様も打ち驚かれるかもしれんのう」
天火とは、本来、落雷で起こる火災や、雷火などを表す言葉なのだ。よく考えてみると、変な字を付けられたものである。
「……何でも、そなたは雷様をも畏れぬ強者と聞き及んだが」
「いえ、そのようなことはありませぬ。ただ田舎の生まれにて、雷様に慣れておるだけでして、……よう、大野などで "隠遊び" をしておりました」
「それは、また勇ましいことじゃな」
「我はこの様に聳えておりますので、よう見つけられるのです。そこで、土の窪に隠れておりましたが、……ハハハ、昔、眠ってしもうたことがありまして」
随分と間抜けな話かもしれないが、都童と違って、この青年が育った世界は野趣に溢れ、長閑な所である。
育ちのせいもあるだろうが、忠明はあまり身分の上下にこだわりなく、比較的に年が近い周辺の子供達と遊ぶのが常だった。
もちろん都に比べて、田舎では野遊びが中心になる。
忠明達は、川沿いの開けた草原にいつも出掛けていっては、魚を獲ったり、相撲をしたり、今で言う "かくれんぼ" 等をしてよく遊んだ。
体格も良く元気な忠明は、遊びの輪の中でも中心的存在であったが、唯一、上手くいかないことがあった。それは、かくれんぼで直ぐに見つかることだった。
いつもなら勢いのある聳丸が、この時ばかりはシュンとする。
そこで皆は面白がって、わざとだだっ広い草原で、かくれんぼを何度もしていた。
それでも、忠明なりに作戦を練り、土を掘って窪に隠れたりと、色々試みていたが、ある日、あろうことか、窪の中でそのまま眠ってしまったのだ。
どのぐらい眠っていただろうか?
大きな雨粒が頬を打って気が付いた。
ピチリ、ビチリ、……と、次第に雨音が激しくなる。
遠くで雷の音が聞こえ、どうやら近づいてくるようだ。
他の仲間は、どうやら逃げ出したようで、忠明はいつの間にか独りぼっちになっていた。
夏になると、ここはよく雨雲の通り道になる。
そこで普段から、 『遊ぶなら雷様に気を付けろ! 』 と言われていたのに、本当に油断してしまった。
それでも、今さら動き廻る方が良くないだろう。……そういうことは、本能的に理解している。そこで、動かずに様子を見るが、
……だんだんと近づいてくる轟音。
忠明少年は、丈の低い叢の根元に腹這いになると、息を殺して雷様に見つからないようにやり過ごすことにした。
ふと、雷鳴の聞こえてくる方に目をやると、かなり離れた場所ではあるが、木登りするのに手頃な大きさの木がポツンと立っている。
耳をすませば、そこからピーチク、パーチクと大混乱している鳥の鳴き声が聞こえてきた。
いわゆる、雀の御宿のような木だろうか?
この辺りは、草が生い茂っているだけで、他に目立つような木がない。そこで、他に場所がないから、鳥達はその木に逃げ込んだようだ。
一瞬、空が真っ白になるほど輝いた。すると、強烈な轟音が響き渡る。
もしかして、雷は自分の上に落ちたのではないか?
……そう思うぐらい、大きな音が鳴り響き、耳がおかしくなりそうになった。
すると、眼前の木から、何やら黒い物がポロポロと沢山零れ落ちる。
よく見ると、それは、雷でショック死した雀達の死骸だったのである。
……どうやら、雷は木の上に落ちたようだ。
「我ら童部共は、早速、それを拾うて帰ると、食しました。……このような、"鳥の焼き物" を目にすると、昔が偲ばれます」
「ほほう、それは楽しきことよのう」
今日、酒肴として出されている料理にも、鳥の焼き物が出されていた。春も間近に迫ったとはいえ、まだ寒い。季節の良い頃とは違い、料理のバリエーションは乏しいかもしれないが、それでも、主の気遣いが充分に伝わる膳だった。
特に、大根を丁寧に醤 (醤油の元になった発酵調味料) で煮付けた "香疾大根" などは絶品で、飴色に輝く大根が美しくて旨い。……さすがに都の料理だと感心した。
「それで、……そなたは天神様に行逢ことはかなったのか? 」
定信が膝を乗り出し、大真面目に聞いてくる。
「えっ、まぁ、……」
実を言うと、忠明は信心深いところもあるが、当時の人間としては結構、現実主義者だった。
それで、……雷ごときで、そんなに偉い御仁が田舎に来る気がしない。
そう思って、言葉を濁した。
「ハハハ、……いやぁ、もう肝を冷やして、忘れました」
そう言うと、恥ずかしそうに笑う。
「じゃが、それから、何とのう雷様が何処に渡られるかが判るようになりまして、……あまり恐ろしゅうなくなりました」
「それは真に賢きことよのう」
そうポツリと定信は言うと、杯を飲み干した。
「そなたは、やはり武官に成るべくして成ったのじゃな、……我らより、よほど兵の生まれじゃ」
などと、改めて言われても、忠明は恐縮するばかりである。
京の美努家は、今でこそ国司の下で働く官人もいるが、元々は兵衛佐 (兵衛府の第二番目の位の役職) まで輩出しているのだ。武官の名門であることは間違いないだろう。
「……月日が過ぎて、我らは兵の業では立ち行かなくなり、別の官人となった。それにまた、検非違使の官人では危ういわりに成り行かんのじゃ」
「……」
忠明も、使庁で働いてみて、定信の気持ちがよく解るようになっていた。そこで、何と言って良いのか判らず、無言で定信の杯に酒を注いでやる。
「おぅ、すまんな。……さりとて、兵の家を諦めとうもない。……そこで! 」
定信が、まじまじと忠明の顔を見た。
「そなたに、我の義子息になってはもらえんだろうか? 」
「……はっ? 」
てっきり、清水寺での騒ぎを咎められると覚悟していただけに驚きである。
「つい先年、妻に先立たれてな、我には跡を継ぐ者が居らんのじゃ、……あぁ、いや、我も美努の三郎じゃ、畏まらんでよいぞ」
ちなみに、三郎とは三男の意味だ。
「いや、しかし、……志様、我のような者には畏多いことです」
「やれやれ、もう我は志ではないぞ、使庁はとっくに辞したからのう」
それでも、立派な使庁のOBなのだ。思わず遠慮せずにはいられなかった。
「それに、すまんが、……我家には昔ほどの勢いはないのじゃ、それでも構わんなら承けて貰えんか」
これからも使庁の中で昇進を目指す忠明にとっては、これは願ったり叶ったりの良い話である。
残念ながら、今のまま和泉の豪族上がりの元衛士では、これから先の出世は望めそうにはないからだ。
……二つ返事で承諾したい。だが、この話には一つ問題点があった。
定信には、忠明より二つ年上にあたる一人娘がいるのだ。
父が使庁を辞めてからというもの、通ってくる男もおらず、引き籠っているらしい。
そこで、純粋に義弟として付き合うか、それとも入り婿のように接するかで、人生が大幅に変わってしまうからだ。
忠明としては、あくまでも良き義弟でありたいと思っているのだが、……
何れにしろ、忠明の人生はこれから大きく変わろうとしている様である。
定信邸から帰る道すがら、忠明は久しぶりに空を見上げた。
春というには風はまだ冷たいが、どこからともなく梅の花の香りが漂ってくる。
「どうやら、天神様に礼を申さねばなるまいな、……」
忠明は、微笑みながら家路を急いだ。
今回は、雷の話が中心になりましたが、
書いてはみたものの、雷は本当に危険な物なので気を付けてくださいね。都会で、建物が沢山あるところは大丈夫かもしれませんが、何もない野原や田園などで遭遇した場合には、しっかりした建物の中に入るか、何もないなら、自分が一番高くならないように、体を小さくして気を付けて下さい。
今回も、最後まで読んでいただき有難うございました。