93話:花と雨の追想(2)
メリヤナのために、洗礼式の飾り石を用意しようとした。渡したらどんな表情をしてくれるだろう。なんと言ってくれるだろう。どんな気持ちを示してくれるのだろう。
自分のためのようで、けれど純粋に彼女のその様子を見てみたかった。
物を探しに行った店で、まさか彼女が恋い慕う王太子と、当の彼女と鉢合わせるなど露にも思わなかった。
あの時の感情をなんと言えばいいのかわからない。
兆しはあった。彼女から王太子の話を聞かされた時。名前で読んでいると聞いた時。なんとなく邪魔をしてやりたいという気持ちになった。愛称とかいうばかな提案をしたのも、邪魔をしてやろうという気持ちからだった。
「フィル」
と言う彼女の声が、まるで自分だけに特別に向けられているようで、
「リヤ」
と呼ばう権利が自分だけにあるようで、暗渠とした悦びがあった。
それが表面化したのが、あの店での邂逅だ。
メリヤナが、王太子のことを誰よりも好きで夢中なのは目を見ればすぐわかる。
蒼穹の瞳。エスカテの国々を歩けば、どこにでもいる青い瞳。なのに彼女の青だけが、澄んだ春空のように見える。その空に映っているのはどうして自分ではないのだろう。別の男なのだ。
なぜ。
だが、その男は気付かない。胡座をかいているからだ。
彼女がうれしそうに見る紅玉髄。その石に対する男の反応を見て気持ちが沈む様子を、きっと男は気付いていない。
だから、それを贈ったのは邪魔をする意味で贈った。もうひとつ——柘榴石の隠された意味も、知っている。その意味の、本当の意味するところを、まだこの時は自覚していなかった。
彼女への興味や関心は尽きない。
気になる。ずっと、気になる。
時折見えるその暗い表情はなんだろう。
なぜ、王太子に好かれることにこだわる。好きなだけでなく、好かれることに執心し、嫌われることを恐れる。灯火占いで何を視たのだろう。
どうして、僕のことを当たり前の存在のように扱うんだろう。
いないもの、いなかったものに関心を持つことからではない。そこにいるのが当たり前のように、友人だから自然なことのように扱うのは、なぜだ。
僕なんかを。
そんな君が隠していることを、知りたい。
16になり、メリヤナが洗礼式で倒れた時。一時、行方がわからなくなって冷たくなっているのを見つけた時。恐怖という感情を知った。失うことを考えた時の恐怖が、女神の深淵を喚ぶ。炎を招く。理性を焼こうとする。
知りたい、という気持ちが熱を持つ。
——そして、絶望と、思いやりというものを知った。
死にたかったと言われた。死んでほしくない。君に死なれたら、僕は。
熱が、彼女を問い詰めた時、拒否を受けた。その拒否は自分の真を貫いていた。心にぽっかりと空いた空隙を。
だが、ちがうのだ。自分の穴には雨が満ちている。降り注いでくれた雨が。雨溜まりが、〈緑の湖畔〉のように満ちている。
否定をしないで欲しい。拒否をしないで欲しい。
僕を、——捨てないで。
自分の絶望を極めた瞬間、彼女の絶望がわかった。彼女もまた絶望している。心が砕けそうになっている。
感じられると、驚くほど気持ちが凪いでいった。平板なものではない。感じていないのではない。海神ボルフェスの凪。おだやかさ。
ただ、眼の前の彼女を労りたいと、心から思った。
そうして、語られた話は、驚くほど自然と受け入れることができた。疑いの一分も抱かなかった。疑うわけがなかった。
彼女の絶望は、過酷だった。ただ隠していること、というにはあまりにも過酷だった。そんな過酷さを経験してもなお、なぜ気性が真っ直ぐなままなのだろう。
縋り付くように泣く彼女があまりにも小さいのに、その心はどうしてこんなに豊かなのだろう。そんな豊かさを踏みにじるような過酷さが許せなかった。
過酷さの原因になった事柄を解明する。
彼女を絶望させない。二度と。
——決意、という感情だった。
それからの彼女は以前よりも増して、自分に対して親密さを覚えてくれているようだった。
表情や仕草から、感じられた。抑えていたものや、つかえていたものが取れたからだろう。
同時に心地よさが増していった。甘雨を降らす。雫が落ちる。雨滴が水紋を描く。僕が与えれば彼女もくれる。彼女がいてくれさえいれば、雫は滴った。それだけで十分で、だからこそいてくれないと、……雨を、想った。
僕のために、ずっとその慈雨を降らしてほしい。——僕だけのために。
彼女は、14を超えて、そうして、15になり、16が近づくにつれて、一輪だった扁桃の花が、次々と蕾を開いていくように花開いていった。もはや植木鉢ではなく、アッロ山の頂上に咲く、満開の花だった。
何かを、きれいだと美しいと感じることができるようになったのは、この頃だった。フィルクは18になっていた。今まで見ていたものは色を持っていなかったように、鮮やかに塗り替えられていく。
ふれてみたくて、ふれたくて、たまらなかった。そういう感覚が、自分にあることに、またもや驚いた。
メリヤナの成人の日。輝いていた日。あまりにも眩しくて、きれいで、どうすればいいのかわからなかった。どういう距離を取ればいいのかわからなかった。
それなのに。
『フィルはいつもかっこいいじゃない』
『着ているものは趣味がいいし、清潔感はあるし、声もいいわ。昔はたしかに御使いさまみたいでかわいかったけれど……、顔だって、わたしに言われると癪かもしれないけれど、かっこいいわ。わたしは好きよ』
『頭だっていいし、国務府に入府してすぐに外務局の次席副局長でしょう? ——褒めるところしかないわね』
なんでだ。どうしてそんなことを言うんだ。僕にそんなことを言ったって、君の運命には影響しないのに。国の運命に関わらないのに、そんなことを言って、どうするんだ。
どうして、そうやって対価もないのに、僕の存在を認めるんだ。
『それに——、わたしにとっては大切な協力者よ』
そうだ。君の絶望を取り払うためだけに僕はいるのに、なぜ、君は——。
手を伸ばした。彼女にふれる。ふれると、そこから熱を持ったようだった。
きれいだった。なめらかな素肌だった。露になっている肌に視線が縫い止められるようだった。見続けてはいけないもので、上着を貸す。
ただ彼女が、ひとりの女性として、そこにいた。
認識すると、もはや倒れかけの危うい均衡を保っていたものが、傾ぐようだった。
——なのに、どうして、ちがう男を懸想する。
『わたしたち、もうあんまりふたりきりで会うのはやめたほうがいいと思う』
『わたしも社交界顔見せをして、多くの人と接するようになったばかり。殿下の婚約者として、他の男の人と噂になったら大変だもの。それこそ殿下に嫌われるかもだし』
霹靂に打たれたようだった。
わかっていたはずなのに。わかっていたはずだ。最初から。
彼女に薄く流れる、エストヴァンの〈唯一〉。
皇族の血族に流れる呪いのような権能。
権能が憎くてたまらない。どうしてだ。〈唯一〉というなら、自分に振り向いてくれることはない。同じ神の権能でもない限り、権能の力は絶対だ。
恵みの雨を降らしてくれようとも、かぐわしい香りを放っていても、自分に振り向いてくれる可能性は、万にひとつも——ない。わかっていたはずだ。
なのに、今一度、絶望を知る。
それから自分の身体にも巡る権能の自覚も。彼女よりも濃く流れる権能を。自分にも〈唯一〉の権能は、流れている。
気になって仕方ない。誰よりも何よりも引かれてやまない。なぜ彼女にこうも引かれるのか。
そこで、やっと気付いた。
振り向いてくれる可能性を望んでいた。
ずっと彼女に対して飢餓にも近い希求を覚えていたのはなぜか考えていた。冷静に分析するように。離れて観察するように。調べ、自分の生い立ちから、感情が平板で人との距離感をつかめず、親しくしてくれるようになったメリヤナにただ依存しているのだと思っていた。
ないと言えば、嘘になるだろう。少なくともそうなる要素を自分は持ち合わせている。そうならないよう、自分自身を制御し続けてきたが、少なからぬ影響はあるはずだ。
気付いてみて、わかった。
それだけではない。自分に流れる神の権能が言っている。彼女が、自分にとっての〈唯一〉なのだと。
引かれているのではなく、惹かれている。振り向いて欲しいと無意識に思っていたこと。
ただ、求めているのではなく、〈唯一〉なのだ。彼女が。
この世における自分にとっての〈唯一〉が、——メリヤナだった。




