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殿下、今度はあなたを好きにさせてみせます!——そう思っていた頃もたしかにありました。【本編完結済】  作者: 稿 累華
第15章:第三皇子

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92話:花と雨の追想(1)

 フィルクス・フィーユ・マルムス。

 それが、フィルク・ローマンのほんとうの名だった。


 エストヴァン皇王の第三子。マルムス家の側妃フィーユが、フィルクの生母だ。女神エストの血を引く皇王の血筋を残すためだけに、側妃フィーユは迎えられた。逆に、血筋を残せれば母フィーユの役割は終わりだった。


 マルムス家は、建国の折より系譜がある由緒正しい家柄であったが、それだけだった。随分と前に落ちぶれ、名ばかりの名家。(さかのぼ)れば、ヴァンニテ神の加護を受けた血筋であったが、それだけ。過去に事業の投資に失敗したことが仇となり、今やもう財産と呼ばれるものはほとんど残っていない。ただ血筋のみで成り立っているのがマルムス家だった。


 マルムス家に、皇王の側妃という白羽の矢が立ったのは、権力を前に断れない家だと知られていたからだ。側妃がどう扱われるのか、エストヴァンの領主で知らないものはいない。おおよその家が側妃の話を忌避するなかで、マルムス家には断る力はなく、むしろ、対価として支払われる多額な結納金で糊口(ここう)(しの)ぐしかなかった。


 皇王の側妃というのは決して愛されることはない。


 側妃が置かれる時には、これまでも必ずその立場をわかって妃として入ってくるものばかりだった。メリヤナの高祖母トリヤナも側妃の母から生まれていたが、トリヤナの母もこれをわきまえている人間だった。


 だが、フィルクの母フィーユは、わきまえていなかった。貧しい家から救い出してくれた皇王を愚かにも慕ってフィルクを産み、万にひとつの可能性——皇王が自分に心を寄せてくれることを信じて、産まれたフィルクには一切の関心を寄せず、そうして狂った。


 ヴァンニテ神の加護は〈(くら)い炎〉。怒りを根源とするもの。自分に見向きもしない皇王に怒り狂い、果ては憤死した。愚かで浅はかな女だった。


 そんな母を、フィルクは生まれた時から見てきた。見ながら理解できなかった。


 どうして、母上は怒っているのだろう。

 どうして、あんなに父上に叫んでいるのだろう。

 なんで、追いすがっているのだろう。

 なんで、産み落としたのに、自分には(つゆ)ほどの関心も抱かないのだろう。

 なんで、あれほどまで固執しているのだろう。


 父王もまた理解できない人間だった。


 なぜ、あれほど無関心でいられるのだろう。

 なぜ、けたたましく(わめ)いている母が気にならないのだろう。

 なぜ、自分のことはいないもののように振る舞うのだろう。


 なぜ。どうして。両親の行動が共に不思議で仕方なかった。


 気になったことは、聞く、調べる、というのはこの頃に育ったものだった。聞いて調べて理由がわかると、気になるという感覚が落ち着く。納得がいくと、すとんと気持ちが落ち着く。父と母の関係も使用人などから聞きかじり、おおよその経緯や理由が知れれば気持ちが落ち着いた。



 ——僕は、血を残すためだけに生まれた生き物なんだ。だから、父上も母上も目的を終えたから興味がないんだ。



 それが、フィルクが理解し、納得し、受け入れたことだった。


 それでも、四歳くらいまでは、無関心な父や母に代わって、シンシアという侍女がよく面倒を見てくれた。フィルクにとって、おそらくシンシアは母のような存在だった。あまり覚えていないが、少なくともそれまでは僅かながらも普通の子どもらしさを持っていた気がする。


 だが、シンシアが結婚し、田舎に帰ることになると、残っていた子どもらしい感覚は消えた。そうして、悟ったことがある。



 ——僕が世話してもらえるのは、それが仕事だからなんだ。ただの、血のためだけに存在する生き物だから、生かしておくためだけに、仕事で世話されるのが僕なんだ。



 周りの大人は、仕事をして自分の生活を守るために、フィルクの周りにいるだけにすぎない。自分の生活が優先されればすぐにいなくなる。

 あの優しかったシンシアだって、いなくなった。


 無条件に、関心を寄せてもらえるということはない。対価があってはじめて関心を寄せられる。対価以上のものや別の目的がちらつけば、放擲(ほうてき)される存在、それが側妃から生まれたフィルクの宿命。



 仕事で世話される価値しかない生き物。



 悟ると、空隙(くうげき)ができたようだった。それまで軋んでいたものが、すべてその穴に落ちていったように、しん、と静かになった。


 気になる、という感覚だけが残った。


 母が亡くなると、いよいよフィルクの存在はなんの興味も抱かれなくなった。

 兄ユステルだけは、たまに現れてはフィルクにせっかいを焼いた。お前の望みならおれがなんでも叶えてやる、と言われて、じゃあ、本で見たことのある世界に触れたい、読んだことのない本をたくさん持っている家に行きたいと願い、ほんとうの身分と戸籍を隠し、ノクセン公という親戚筋を辿ってフリーダ王国の貴族の養子になった。


 気になるから見に行くか。それくらいの欲求だった。


 そうして、ローマン家の養子となった。


 養子であっても、皇族ではなく他の家族という存在であれば、自分に関心を寄せてくれるのではないか、と無意識に、淡い期待を抱いていたのかもしれない。


 だが、母方を辿った結果、親戚であるローマン家は金こそあるものの、その実、義母たる人間は人への関心というより、人からの承認に欲がある人間だった。表出のされ方こそ異なるが、義姉や義母も同類だった。義父は、そんな妻や子どもに対して物を与えるだけでなんとかなると思っている人間だった。外に愛人でもいたのだろう。物を与えて機嫌を取り、あとはほとんど家によりつかなかった。辺境侯という地位にあるにも関わらず、反吐(へど)が出そうだった。


 潜在的な期待は認識されるより前に消え失せた。


 気付けば数年が経ち、本で得られた多くの知識はあったが、平板で平坦な感情や感覚というのが自分の中心となった。


 空隙は深淵につながり、見えない底からの風だけが吹いていた。



 ——転機が訪れたのは13の時。フリーダに来て、5年が経っていた。



 義母や義兄姉たちと共に招待された王妃主催の園遊会だった。


 フリーダの王宮庭園は湖に臨んでいるからなのか、あるいは王妃が丁寧に世話をしているからなのか、多種多様な花が咲いていた。

 その花の園遊会という名目だったが、王太子とその婚約者のお披露目も兼ねている場だった。


 王太子と共に、場違いなほど元気よく手を振るその婚約者、グレスヴィー家のドール公女メリヤナ。


 自分とはおそらく生きている世界がちがう。 感情や感覚を与えられて育ったであろう無垢な女。間抜けな娘。愚かで浅はかな感じが母とそっくりだ。


 花々に囲われた壇上で、彼女はいっそ清々しいほど王太子にべったりで、王妃からの紹介を受けていた。王太子しか目に入らないと言わんばかりの執心ぶりだった。


 いささか皆が引いているなかで、紹介の場は終わる。終わって皆の興味が歓談に移るなかで、その変化は起きた。彼女の表情が急に変わったのである。さっきまで笑みを見せていたのに、王太子に対して恐怖したようにその表情を変化させてみせた。


 その変化が、気になった。

 だから、追いかけた。


 そうして追いかける判断をしたのは、今考えてみれば、人生で一番良い判断だったと思う。




 ——メリヤナは、まるで鉢植えの扁桃(アーモンド)が、四季の移ろいで薄紅(うすべに)の花から変化していくように表情を変える女の子だった。




 彼女は、いつでも自然体だった。

 (つくろ)わず、素直に喜び、怒り、悲しみ、楽しむ。誰かの気を引くためや関心からではなく、自分が感じたからそうした、自分が思ったからこうした、と理屈なく感情や感覚を表すのがメリヤナだった。思いやりがあって、接してみれば母とは似ても似つかなかった。


 感情が顔に出る、とよくからかったものだが、それは常に真っ平らな自分からすれば、安心できる存在だった。物語の世界ではなく、本物。悪意や(ねた)(そね)みではなく、澄んだ感情。


 王太子にだけは執着しているようだったが、遠目に見る王太子といる時の、繕うような飾るような背伸びをするような彼女ではなく、一緒にいる時の自然な彼女が安心した。


 メロメロの秘術なんてよく言ったものだ。

 そんなものはエストヴァンにはなかったが、歴代皇王たちが残していた日記には好きな人間——〈唯一〉の気の惹き方は秘密のように書かれていた。上手くいかない方法も。


 それに、人間というものをずっと観察してきたからわかる。好かれ方も嫌われ方も、それは皇王たちの日記と類似していた。秘術なんて書かれた書物なんてものはなかったけれど、皇王たちの私的な日記と、フィルクの観察眼によって練られたのが秘術の正体だった。


 そんな出典あやしい内容でも、メリヤナは信じる。無邪気に信じてフィルクから教わったように振る舞う。


 見ているだけで、関わっているだけで、心にぽっかりと空いている(ふち)が、ないように感じた。一緒にいるだけで好ましかった。ただ、好ましい存在だけだと思っていた。




 ——彼女の存在は、乾いた大地に降り注ぐ、冬の恵雨(けいう)のようでもあった。




 フィルクの枯れた地に雫を落とし、ぽっかりと空いた虚無のような空間に、雨水を溜めていく。


『わたしはフィルクが薦めてくれたから勉強するのよ!』


『だって、友達が言ってくれたことだし。あなたが言ってくれたことは、とても説得力があるもの』


『そしたら、フィルクのおすすめを読むわね』


『わたしってば、無知だから、あなたがおすすめしてくれるものを読めば、広い視野を持つことができると思うもの。ちゃんとサラル語だって、学びはじめたんだから』


 サラル語のことや、ローマン家の本について話していた時だ。無自覚に慈雨(じう)を降らす。


『大切なものだから、大事にしたいの』



 ——たかが飾紐(リボン)ごときで。


 僕だって、君からもらったはじめてのものは大切にしている。



 そうやって、知らぬ間に溜められていた。


 雨溜まりができていると気づいたのは、いなくなってからだ。


 人がいなくなることや離れることには慣れている。そう思っていたはずだ。使用人たちが次々と入れ替わっていくあの頃に。仕事でしか、対価でしか、顧みられない生き物だと悟ったあの頃に。


 だが、あの15の歳の三ヶ月、会えなかった期間、今まで感じたことのないような苛立ちを覚えた。日々無性にいらいらした。苛立ちという感情をこの時に知った。なぜ、苛つくのかはわからない。それは反発心となって、ローマン家の人間との距離をさらに空けた。


 けれど、彼女から底抜けの明るい手紙が届くと、苛立ちは嘘のように鎮まっていた。


〝アーレンの街の漆喰が夏の彩りみたいで豊かできれいだけれど、雨が降ってばかりでうんざり。冬に来るものじゃないわ。今度は春か夏の晴れている時に見に行きたいな〟


橄欖(オリーブ)の油って、搾ったばかりってとっても甘いの。知ってた? きっと物知りのあなたでも知らないのでしょうね。こんなにおいしいなら毎日搾りたてをそのまま飲みたいくらい〟


 そうだね。今度は僕も一緒にそちらに行きたい。君が感じるものを一緒に経験したい。

 そんな思いが出てきた自分に驚いたものだった。


〝もうすぐで王都に戻る予定よ。あなたに会って色々と話すのが楽しみだわ〟



 僕も、君に会いたい。

 早く君の声が聞きたい。君の声が聞けなくて——寂しいんだ。



 彼女が、感情を教えてくれる。

 彼女が、感覚を教えてくれる。

 そうやって、雨雫が落ちる音を聴いて、自分のなかの、雨溜まりの存在を知った。


 領地から帰ってきて新種の石鹸を作ってきた彼女に、どうして石鹸を作ろうと思ったのか尋ねた時。


『それはもちろん、〝いい匂いをさせよ〟の教えを守るためよ』


『あなたが言ったんでしょう? 殿下を(とりこ)にするにはいい香りをさせたほうがいいって。そのために入浴の習慣を身に付けろって。ミラルの葉だけだと気持ち良さは足りないから、習慣化するのは難しいもの。けれど、石鹸を使って、やわらかくてふわふわすると気持ちがいいから、ついつい入浴しちゃうの』


『驚いた?』


 彼女は悪戯が成功した時のように笑う。


 ほんとうに驚いた。

 もとから香る扁桃の香りにまざって、彼女が自分と同じ匂いをまとうのは、なんとも言えない気持ちになった。動いてはいけない何かが、ずりっと(うごめ)く。深い淵で動き出すもの。



 思えばこの頃から、やまない雨を求めはじめていた。


 

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