91話:〈双極の塔〉エストリラ
不測の事態も踏まえた二週間、という当初の旅の予定を前倒して、フリーダ・エストヴァンの国交正常化を祝うためのメリヤナが率いる使節団は、12日という旅程で、皇都エストリラの城門をくぐることになった。
旅のあいだこたえたのは、まだ残る三寒四温の寒さと驟雨だったが、これは随行することになった外務局のイアン・タルノーの知恵によって、緩和されることになった。トゥーミラ自治都市群の北部都市で開発された行火と懐炉というもので、これは冷たい手足をあたためた。
タルノーが随行することになったのは様々な経緯があるが、突然離職したフィルク・ローマンの穴埋めのため、という理由が一番大きい。
「お前が一番あいつと親しかっただろうが!」
というマブロン局長のこの上なく意味がわからない命令によって、今回の使節団に同行する羽目になった。とはいえ、異国に興味を持って入府したタルノーにとってはありがたい機会で、その実タルノーが色んな国を訪れてみたいと思っているのを知っての命令だというのは、マブロン局長の人柄を知っているからこそ思い至れることだった。
「エストヴァンであいつの姿を見つけたら、首根っこつかまえて引きずってこい」
ただし、こちらの命令のほうが主訴ではあろう。死ぬほど多忙になった局長の分、タルノーは他何名かと一緒に馬車馬のごとく働かねば、あとで恨み節を奏でられるにちがいないと思えた。
メリヤナは、前回のサルフェルロの時とは異なり、人数も少なくなってタルノーと言葉を交わす機会が多くなり、その人当たりの良さから、すぐに仲良くなった。見習いから出世して馬丁として今回ドール公位家から連れてきたサンデルが寄与した部分も多い。そこに、ハルヴィス家での修行期間を巻いて付いてきたカナンが混じれば、メリヤナは旅の間、楽しくて仕方がなかった。
国交正常化使節団の大使、という重い役割を忘れることができる12日間となったのである。
「——いよいよでございますね」
侍女のお仕着せを着たカナンが言う。
本来六ヶ月かかる修行期間を、三ヶ月という驚異的な速度に短縮して、尚且つ王妃の母である老婦人アリエス・ハルヴィスの太鼓判を捺されたカナンの侍女姿は眩しくて仕方がなかった。
「そうね」
メリヤナは真向かいに座るカナンの背筋にならうようにして、その背を伸ばす。
フリーダでの謁見服と同様の意匠で、今回エストヴァンへの来訪のために用意した皇王に謁見するための服をまとっていた。
ただし今回は、空色ではなく、海棠色と若草色の衣装で、初春の言祝ぎと、国交正常化の慶賀を掛け合わせた色合いで、メリヤナの衣装そのものがフリーダが今回の招待を快いものと捉えていることを表していた。
そんな大任を負っているメリヤナは荷が重くありつつも、気は重くない。
(待ってなさいよ)
マブロンが首根っこつかまえてこいと言っていた気持ちには同感しかない。
メリヤナこそが、このエストヴァンで不義理にも三ヶ月以上も連絡を寄越さない友人の首をつかまえてやりたかった。
決然とした眼差しで、メリヤナは〈双極の塔〉と称される皇都エストリラの皇宮を見上げた。
エストリラの宮殿はその中心に〈玻璃の宮〉と呼ばれる建築がある。フリーダで言う本宮に当たる場所だったが、その〈玻璃の宮〉の左右それぞれに聳立する二つの塔があった。この二つの塔がエストリラを訪れるものの印象に残ることから〈双極の塔〉と、皇都は通称されていた。
メリヤナもまた、エッセンに手を取られて馬車を下りると、その塔の巨大さ、雄大さ、高さに息を呑む。サルフェルロの丸屋根建築や市壁にも圧倒されたが、高さで言うならこの〈双極の塔〉には並び立ちようがなかった。それほどの傑出した高さだった。
「これって、上のほうはどうやって昇るのかしら」
素朴にメリヤナが呟くと、カナンは、そうですね、と相も変わらず真面目に考える。
「階段……となりますと、なかなか、大変そうですね」
「いい運動にはなりそうよね」
「そうですね。筋肉もつきそうです」
会話を聞いていたエッセンが笑う。
「きっと何か箱のようなもので昇降しているのでしょう。昇降係には筋力が必要そうですが」
なるほど、とメリヤナは相槌を打つ。
たしかに、サルフェルロでも昇降用の箱のようなものがあり、人力を用いている様子があった。とはいえ、サルフェルロの建築物よりも遥かに高い双極である。
「何回も乗り換えるのかな……」
ぼそっとメリヤナは考えたことを言った。
「これはこれはメリヤナ姫君、よくぞお越しくださいました」
〈玻璃の宮〉入り口で出迎えたのは、三ヶ月前の夜会で出会ったノクセン公であった。変わらず人好きのする笑みを浮かべる。
メリヤナは知っている顔に、ふっと緊張をゆるめた。
「お出迎えをありがとうございます、ノクセン公」
「とんでもございません。大変お疲れになったでしょう。今すぐ姫君が滞在するお部屋にご案内をしたい我輩ではございますが、玉座の間にて陛下や殿下方がお待ちでございます。恐れ入りますが、もう少しお時間をくださいませ」
「むしろ、皆さまをお待たせしてしまい恐縮ですわ。わたくしも、早速のご挨拶ができるのはうれしく思います。ご案内をお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございまする」
さあさあ、とノクセン公は、玉座の間の扉へとメリヤナを低い腰で案内する。
大きな観音開きの扉には、右側にはヴァンニテ神、左側にはエスト神が彫刻されていた。
「こちらでございます」
メリヤナはノクセン公の案内に肯くと、後ろを振り返る。随行するカナンやエッセンらに視線を合わせると、目顔で待機するように伝える。
ここからは、メリヤナひとりが挨拶する場である。
ノクセン公の合図に合わせて、扉を守護する近衛が、両扉を左右に開いた。二柱の姿が見えなくなり、〈玻璃の宮〉の内部が姿を表す。
煌々と陽光が溢れる間であった。
〈玻璃の宮〉と称されるのがわかる。通常の天窓とは異なる採光窓は車輪のようで、様々な色硝子が嵌められていた。側面は尖塔反りの高窓が幾つも連なっている。規則的に梁が並んで、窓との間に凹凸を作り、部屋自体の深みを作り出していた。
メリヤナは美しい宮殿に吐息が出るようであった。ずっと眺めていたいという欲にかられながらも、ノクセン公の言葉で、この場がどこであるのか思い出し、居住まいを正す。
「陛下、フリーダ王国より使節団の長であるドール公女さまがお見えになりました」
ゆっくりと謁見服の両裾を持ち上げると、頭を下げ、淑女の最敬礼を行った。腹部に力を込めて、凛と声を出す。
「——エストヴァン皇王陛下に、フリーダ王国ドール公が長子メリヤナ・グレスヴィーがご挨拶を申し上げます。皇王陛下におかれましては、春の訪いと、益々のご清祥のこととお慶び申し上げます」
「…………うむ」
妙な間があった。メリヤナは疑問を覚えつつも、挨拶を続ける。
「この度は、貴国へのご招待をフリーダ王国を代表しまして感謝申し上げます。滞在中のさらなる良縁を期待し、わたくしメリヤナ・グレスヴィーは邁進して参ります。数ヶ月という期間ではございますが、ご厚情を賜りますよう、伏してお願い申し上げます」
挨拶を終えると、さらに間があった。十秒ほどだろうか。顔を上げたい気持ちになりながらも、メリヤナは堪える。
「…………よくぞ、参った。我が国も……そなたを、歓迎する」
皇王の声は洞窟に響くようなそんな声をしていた。その響き方をメリヤナは知っている気がする。だが、皇王の声はくぐもっていて、いい意味で鷹揚、悪い意味で緩慢に聞こえた。
「……滞在中、何かあれば……言うが、良い。力に……なろう」
「ご高配に感謝申し上げます」
メリヤナは再度一礼する。
顔を上げる許可は得ていない。もしかして、エストヴァンでは王の前では顔を伏せたままであるのが通常なのだろうか。
方解石の床の模様を眺めながら、メリヤナはそんなことを考える。
「——恐れながら、陛下、よろしいでしょうか」
その時聞こえてきた声に、メリヤナは反射的に顔を上げそうになるのを全神経を使って、止めなければいけなかった。
透き通る声。
心地の良い、低すぎない低音。
洞窟の奥に響き渡るような声。
メリヤナはその声の持ち主を知っている。知っているからこそ、顔を上げたかった。もしかしたら、という期待が胸の音を早くする。まさか、そんな、たしかに可能性は、と淡い期待であったものが結実するかもしれないことに気持ちが膨らんだ。
この場にはノクセン公をはじめ貴族たちもメリヤナを迎えている。そのなかに、会いたくて会えなかった人がいるという喜びが、溢れそうになった。
「……話すが、良い」
まだるく許可が出る。
「——もしお許しをいただけますれば、フリーダ王国の公女さまがご滞在中、私に接待をお任せいただけないでしょうか」
「……ふむ……」
考えているようなそんな皇王の相槌だった。
しばらくの間が空く。
また十秒ほどしてから王の声が続けられた。
「…………良かろう。その務め……、第三皇子に、任せる」
(第三皇子?)
皇王の言葉に聞きまちがえではないかと思った。その人物はちがうはずだ。メリヤナの知っている声の持ち主ではないはず。
お年を召しているようだから、呼びまちがえたのだろうか、それともやはりメリヤナの聞きまちがいであろうか、と疑問符が浮かぶ。
「ありがたき幸せ」
下げ続けている首に限界がこようとしていたが、ごつんっ、ごつんっ、という重い長靴の音が近づいてきて、痛みを忘れる。
自分の足元で跫音が止まると、ふわりとあたたかさの混ざったミラルの香りがした。懐かしい香りに、泣きたくなるほど胸の音が高まる。
「——顔を上げてください」
そんな他人行儀に言われたのは何年ぶりだろうか。
許されて、メリヤナはゆっくりと顔を上げる。その姿を、顔を認めたくて、縋るように見上げた。
「初対面のご挨拶を申し上げます。この度は遠路はるばる我が国へようこそ、メリヤナ公女。姫君の訪問を心待ちにしておりました」
なに言ってるんだこいつ、という気持ちになりながらも、最低限の礼儀正しさを意識しなければ、メリヤナは醜態を晒したにちがいない。
それでも、顔を上げてから、ぽかんとした。
膝丈まで伸びる真っ白な外套。立派な刺繍の施された折り返す袖口、漆黒の肩飾りから出る銀の房、瞳の色と同じ青紫の綬、袖のない黒い中衣、白い繻子の細袴に豪奢な長靴。極めつけに肩から飾緒が伸び、襟元に飾布が結ばれている。
片方の側頭部は編まれ、後ろ髪と一緒に優雅に飾紐と結われていた。
「——第三皇子フィルクス・フィーユ・マルムスが、歓待いたします」
フィルクが、メリヤナににっこりと笑ってそう告げた。
こちらで14章は終わりです。
下書き時点では、次の15章と一緒だったのですが、話の区切りとしてこちらで区切ったほうが良いと判断して区切りました。
15章の前半は、2章から12章の一部エピソードと読み比べていただくと、もしかしたら深みが増すかも……しれませんが、読み比べなくても「ああ、あれか」となるように書いた……つもりです。
次章からが本格的な後編です。よろしくお願いします。




