89話:エッセン卿の誓い
ヴァルト・エッセンは、恋というものも、愛というものも、理解できない人間だった。
伯位家の次男に生まれたヴァルトは、位家を継ぐ必要がなかったから、騎士修練学校に入学すると、剣を以って主を守り尽くす、という騎士の精神性にのめり込んでいった。
騎士という職業は、たとえ見習いであっても、周囲から憧れられる職業で、同期に限らず先達後進含めて、女性から秋波を送られる職業であった。
ヴァルトも幾度となく誘われたことがある。だが、食指が動くことはなかった。
一方で、修練学校というのは男同士が居を一緒にしながら、その騎士道精神や技術を身に付けるところでもある。場合によっては男色にいくものもあったが、これにもまたヴァルトは興味が引かれなかった。
愛といった感情が欠落しているのか、と問われれば異なる。
友愛や家族愛というものは持っていた。気のおけない友人たちと喋ることはあったし、困ったことがあれば助けになりたいと思う。両親や兄弟も大切に想っていたし、そこには情があった。
だから、おそらくヴァルトは恋愛的指向というものを持てない、と自分を理解していた。
だが、ヴァルトは無情ではなく、共感性はあり、むしろ恋愛的指向を持たないことによって、騎士としての精神が磨かかれるに磨かれ、その技量も相まって、伯位家出身でありながらも、近衛という騎士の花形に就くことが叶ったのである。
近衛は王族の護衛や宮殿を守るのみの顔だけの職業、と冷やかされることもあったが、ヴァルトは近衛というものに誇りを持っていた。王族というこの国の柱となる人間を守ることができるのだ。誇りを抱かないほうがおかしかった。
近衛に就いてから数年後、その働きが認められ、王太子ルデルアン殿下付きとして抜擢されることになった。周囲に羨むものや妬むものもいたが、ヴァルトはそれら一切を黙殺して、近衛として模範的なほど忠実に過ごした。
そうしている姿を一番認めてくれたのは、王太子殿下その人であった。
「そなたは働き者だな」
「いつも助かっている」
「今日はエッセン卿が務めてくれているのかと思うと、安心できる」
そんな声かけを何気なくしてくださる方だった。
自分のあり方をそのように評価してもらえるのは、はじめてのことで、ヴァルトはただもう感無量だった。
この人に一生仕えていこう、と心が定まるのに時は必要なかった。
そうして、殿下に仕えるようになってから、殿下の婚約者であるメリヤナ公女を目にすることも多かった。
公女はとても聡明で麗しい方だった。常に凛とされ、姫君と称されるにふさわしい方だった。思いやりもあり、この方が殿下と連れ合うのであれば申し分ないとヴァルトは思っていた。主君にふさわしい方だ、と。
姫君が殿下を慕っていたのは、殿下の背後にいることが多かったからこそよく見てわかっていたし、殿下もまた姫君を慕っているのは、言動で察することができた。
婚約者なのに、両片想い、というのが微笑ましかった。恋愛というものが理解できないヴァルトではあったが、このふたりの想いが成就し、連れ合うようになることを、体力が続く限り見守っていたかった。
何かが綻びはじめたのは、おそらく洗礼式の前、殿下が突如西王都に出かけることを決めた日のことだ。もしかしたら、見えないところで綻びはじめていたのはもっと前のことだったかもしれない。
だが、浮き上がったのはあの日だ。
洗礼式が控えているなかで、殿下が突如予定を変えられるので、思わず、
「殿下、そのようなご予定は……」
と苦言を呈してしまったが、メリヤナ姫君のためだろう、融通してくれとはじめて我を通そうとする主君に、ヴァルトはそれ以上の言葉を紡ぐのはやめた。
あとで主君が困ることは見過ごすことができなかったが、一時間であればどうにかなるだろうと頭のなかで算段をつける。気持ちは警護に徹することに切り替えた。
行き先の店で、メリヤナ姫に贈る石を考えている殿下が微笑ましくて仕方がなかったが、たまたま居合わせた姫君の友人というローマン公子に、ヴァルトは警戒の色を隠せなかった。
敵意のような空気。あるいは威嚇なのだろうか。
そういった空気に、ヴァルトは敏感だった。敏感でなければ近衛は務まらない。三人と店主のやり取りを見ながらも、ヴァルトは公子への警戒を怠らなかった。
俯瞰して見る立場であったからだろう。ヴァルトからは三者三様の感情を見て取ることができた。姫君がどれを贈ると喜ぶのかもわかった。だから、殿下の何気ない言葉に傷ついた顔をする姫君と、それを思案する公子の様子もわかってしまった。
一時間という時間が経過するのを認めると、ヴァルトは次の予定を考えて、主君を急かせる他なかった。
急ぎ店を出たのち、宮殿に戻るさなかで、ヴァルトはさきほど見てしまった光景を思い返しながら、口を開いた。
「——姫君には、どの石を贈られるのか決められましたか」
「わかったか」
殿下が照れたように笑う。
むしろ、あの状況でわからないほうがおかしい。
「メリヤナはわかってない様子だったがな。そういう鈍いところも……かわいい」
14を迎えられ変声期真っ只中の殿下がぽつりと言う姿こそ、尊いものがあった。聞くものによっては、胸が詰まるかもしれないが、ただただ主人が尊かった。
「紅玉にしようと思う」
続けられた言葉に、ヴァルトは悪くない選択肢だ、と思った。
店主も、男性から女性への愛を表現するのに良い、と話していた。ヴァルトにはさっぱりわからないが、その石に込められている言葉を考えるのであれば、良い選択肢だった。
だが、俯瞰していたヴァルトからすると、姫君には別の石が良いのではないかと思ったから切り出す。
「紅玉髄は、いかがですか?」
姫君は、きれい、と言っていた。石言葉も大事だが、本人が好きそうなものを贈るに越したことはない。そんな節介からヴァルトは尋ねる。
「……いや、あれは、彼女にふさわしくない」
そうして主君によって否定された言葉に違和感を禁じ得なかった。
良いのですか、と言おうか迷った。おそらく紅玉髄を送れば、姫君は顔を綻ばせて喜ぶにちがいない。姫君の素直な性格であれば、それが殿下から贈られたというだけで喜ばしいにちがいない。最適な選択、だと思う。
だが、とヴァルトは迷いの言葉を呑み込む。
仕える主君が決めたことに口を挟むのは騎士道精神ではない。
そう思って、それ以上何も言わなかった。
けれど、洗礼式の当日、殿下が選んだ紅玉の首飾りを身につけながらも、紅玉髄と柘榴石の耳飾りを気にするようにさわる姫君を見ると、何も言わないという選択はまちがいだったのではないか、とヴァルトは暗澹としたものを覚えた。
あとからでも殿下に伝えるべきかと思ったが、その後の騒ぎで、機を逃してしまった。
だから、ヴァルトはあれから三年経った今も伝えることができていない。あの綻びとなったできごと以来、少しずつ少しずつ、狂ってきている。
姫君は、今も殿下のことを慕っている。けれど、たまにそれ以上に強い何かを抱いている様子を見て取れることがあった。
あの公子といるのを見かける時。殿下と過ごしている以上の何かを見て取れるのであった。
だが、ヴァルトにはわからない。恋や愛といった指向を理解できないから。それに類似した感情も理解できない。知識として知るものや、共感として感じられるもの以外、理解できなかった。
殿下は焦っている。狂ってきているものを感じている。
本来であれば、近侍のひとりとして何か助言ができたらいい。
だが、理解ができないヴァルトに主君に助言すべき言葉は持たない。
「——頼む、ヴァルト。エストヴァンに赴くメリヤナに随行して欲しい」
お前にしか頼めないんだ、と、その言葉にひそむ殿下の不安を読み取れないヴァルトではない。
「はい、この命に代えましても、殿下のお気持ちを遵守し、隣国における姫君の安全をお守り申し上げます」
謹んで拝受する。
頼んだ、と言う主君の声には、この上ない不安が滲んでいた。




