87話:婚約の誓い
夜会を一度辞すると、婚約式の衣裳に着替えるため、メリヤナは充てがわられていた小憩の間に移った。
祝宴の時にここであったできごとを思い出すと、顔が熱くなるようだったが、見知った顔を見つけて、気持ちが切り替わった。
「——お嬢さま」
カナンである。ほぼ一ヶ月ぶりにその姿を見た。常ならぬしゃんとした背中だったが、ハルヴィス家の屋敷で鍛え抜かれたのだろうか。いつも以上に背筋を伸ばしながらも優雅さがあり、侍女然とした姿だった。
この時のためだけに、屋敷から来てくれたらしい。アリエス老婦人やマイラの気遣いを感じられた。
カナンに話したいことはいっぱいあったが、衣裳替えで、それどころではなかった。
装いを変えるだけならまだいい。大変だったのは髪だ。上げていた髪を下ろすと、宮殿の侍女たちから、櫛でこれでもかというくらいくしけずられ、頭皮が引っ張られて泣きそうになった。三つ編みや編み込みをいくつか作り、髪を下ろしつつも華やかさを演出する。
できあがる頃には、ゆうに一時間が経過していた。
「顔色が悪いように見受けられますが、何かお召し上がりになりますか?」
カナンもさすがである。心配そうに尋ねてくる。
さきほどまでは、フィルクの情報を得られたことで高揚し、体の不調を忘れられていたが、この一時間で思い出してしまった。
気持ちが悪い。
「……大丈夫。今何か食べるほうが、まずいと思うわ」
「そうですか……。では、せめてお水でも召し上がってくださいませ。少し気分が良くなりますから」
「ありがとう。そうする」
瓶に入れた水をカナンは硝子杯によそう。
それを口にすると、たしかに喉がすーっとして気持ちよかった。ミラルの香りがして、胸がぎゅっとする。カナンが入れてくれたのだろう。
こんこんっ、という扉を叩く音がすると、ルデルが姿を現した。ルデルもまた衣裳替えを済ませていた。基調となるのは、橙の対比色となる鮮やかな青だ。青い瞳と相まって、かっこよく見えた。
「準備はいいか?」
「はい、ルデルさま」
行こう、と力強く引かれる。立ち上がると、さきほどよりもひどい目眩を覚えたが、ただの立ち眩みに見えるよう、足を踏ん張った。ルデルから思案の目を向けられるが、大丈夫と伝えるようにやんわりと笑みを返す。
そうして小憩の間を出て次の間を出れば、再びの拍手喝采。一方で蝋燭の光は消されて、角灯の明かりだけになっていたから、メリヤナは少しほっとした。
階段の下をくぐり、壇上に上がる。これからいよいよ婚約の宣誓をする。
「——皆の者、新年おめでとう」
国王が壇上で高らかに告げる。メリヤナたちが入場してきた時と同じくらいの拍手が会場全体を満たした。
「さて、今宵は、新年と共に皆と祝いたいことがある」
明かりは強くなかったが、頭がぐわんぐわんと揺れているようだった。
「王太子ルデルアンと、ドール公女メリヤナの婚約だ。ふたりは以前から婚約関係にあるが、今宵は大神官長を呼び、この婚約を女神フリーダの下、祝福したい。——では、大神官長、よろしく頼む」
「かしこまりまして」
大神官長は敬々しく言う。国王の立ち位置と入れ替わって、王と王妃は後ろに下がった。
ルデルに手を引かれて、メリヤナは壇を一歩上がる。目眩がして足元が覚束なかったが、なんとか堪えた。
「——では、宣誓をはじめます。ルデルアン王太子殿下、今宵この時、空と星と風の神ファブラが見守るなか、我らが炎と運命の女神フリーダの御名の下、ドール公が娘メリヤナ・グレスヴィーとの婚姻の約束を交わされますか?」
「——はい」
ルデルは決然といらえた。
大神官長は厳かに肯く。それからメリヤナに向き直る。
どくどくどくっ、という動悸がする。呼吸が早くなる。気分が悪い。気持ち悪い。
「ドール公が娘メリヤナ・グレスヴィー、今宵この時……」
詞が続けられる。上手く理解できない。
「女神フリーダの御名の下、フリーダ王国王太子……」
耳鳴りが、きーん、とした。
「——婚姻の約束を交わされますか?」
さあっと視界に暗幕が下ろされていく。
「——は……」
い、となんとか応えたはずだ。
メリヤナ、と叫ぶように呼ばうルデルの声が遠くに聞こえる。会場に動揺のざわめきが走ったようなそんな音も。
視界が、暗転した。
*
覚醒する。意識が浮上する。まどろみから浮かび上がる。
瞼が重い。頭が痛い。胃の中にごろごろと石が入っているようだ。
「——……うっ」
メリヤナは身動ぎをしようとして、呻いた。吐き気が残っている。
「メリヤナ!」
近くにいる影が動いた。手が握られる。
「……大丈夫か?」
ルデルの声だ。メリヤナはうっすらと目を開けて、その姿を認めた。
心配そうな表情がそこにある。
今、自分はどういう状況なのだろうか。
「ル、デル、さま……? ここは……?」
「東宮にある一室だ。あれから少し時間が経っている。すまない、あなたの体調が悪いことに気付けていなかった。気分はどうだ?」
申しわけなさそうな心底悔いているような声が聞こえる。
メリヤナのほうが申しわけなさにいっぱいになった。
「気持ち、悪いです……。すみません、ごめんなさい、婚約式は……どうなりましたか?」
現実が戻ってくる。自分が婚約式のさなかに倒れてしまったことに気づいて、血の気のない顔からさらに血の気が下がっていくようだった。
「……中止になった。だが、気にすることはない。もとより、交わされていたものだ。神の名の下に宣誓しなくても、私たちの間柄はなんら変わることはない」
侍従に水を持ってくるように告げてから、ルデルはメリヤナを安心させるように言った。
「そう……ですね」
過去にはなかった失敗だった。前の生では、きちんと神の下に宣誓をしたのだ。
それはメリヤナにどうしようもない不安を呼び寄せ、不吉な予感を思わせる。
「もう一度、やり直すことはできませんか……?」
メリヤナは思わず訊いた。左肩の刻印を思い出すと、強い不安に苛まれる。
「する必要があるのか?」
「皇太子殿下もわざわざお喚びしましたし、皆の目もありました。恥ずかしいことに大事な場で倒れるなんて、殿下の威信にも関わります。わたくしはなんと言われても構いませんが、ルデルさまは——」
「——神の下で必ず誓わねばならぬほど、あなたは何か気にかかることでもあるのか?」
傲然と、聞こえた。
いつにない口調で、メリヤナは驚いてルデルを見上げる。
その青色の瞳に浮かんでいるものが怒りに近いようなもので、メリヤナは震えた。
過去を思い起こさせる。吐き捨てられたように言われた言葉。体が硬直して動かなかった。
「そんな、こと……」
言葉がつっかえる。返すべき言葉が見つからない。
「あなたは、〈運命の乙女〉だ。私の……、私だけの〈運命の乙女〉だ。神に宣誓する必要など、ない。たとえ、影が遠のこうとも……、変わらない」
メリヤナはそこに、執着、のようなものを見た。それはメリヤナに恐怖を刻む。甘美さはなく、純粋な恐怖のようなもの。身に差し迫るもの。
一房取られた髪を伝うようにして、唇が寄せられ、耳元まで迫る。そこからさらに頬、そして、メリヤナの唇に到達しそうになったところで、身を引いて告げた。
「もちろん……でございます」
メリヤナはそれ以上の言葉を見つけられなかった。今一度宣誓しよう、と言うことは二度言うことができなかった。
「そうか、それなら良い」
ルデルもまた聞いて正気に戻ったように、メリヤナから距離を取る。体調の不良を思い出したように、肩をよせられ、背中をさすられた。
吐き気はとうに過ぎ去っていたが、侍従が水を持ってくると、思い起こされ刻まれた恐怖を忘れるように飲み干した。
夜が更けていく。
運命の歯車が、大きく動こうとしていた。




