84話:三度目の別離(2)
「——そんな顔しないでよ」
フィルクが困った顔をする。困った顔のまま、立ち上がる。メリヤナはぼんやりとする思考のまま、その姿を追って同じように立ち上がる。
そうして、後方から、ふわりとミラルの香りがあたたかく香った。
抱きしめられるように、後ろから腕を回されている。
「フィル」
「お願いだから、そんな顔しないで。僕がいなくなるのを恋しがるような、そんな顔しないで。決意が……鈍ってしまう」
メリヤナの髪に埋めるように、声が伝わった。フィルク自身が懸命に何かを堪えているようで、堪えている吐息が伝わってくるようで、どきりとした。
恋しがる、という言葉を反芻する。恋しがる。これは、そういう感情なのだろうか。
体にふれる感覚と、思考が分離していくように、頭が活性化しはじめる。どきりとする感覚を感じないようにするため、頭がうるさくなる。
「帰って……来るの?」
聞きたかったことを聞く。
「……わからない。戻ったら帰れるのかは向こうの状況次第になる」
「でも、わたしのため、なんでしょう? ちゃんと報告しに来てくれなきゃ、連絡してくれなきゃ意味がないでしょう。何をやってくれているのかわからないもの」
だいたい、メリヤナのためにエストヴァンに戻るというのはどういうことなのだろう。そもそも、それの意味がわからない。
「……そうか、たしかにそういう意味で連絡を取るっていうのもあったね。別の意味でしか考えてなかったけど」
「別の意味って何よ」
「内緒」
ふざけた声が耳元で聞こえる。
いつものやり取り。
「じゃあ、連絡はもらえるってことで期待していい?」
「うん。連絡はするつもりだった。ただ、戻ったら、やっぱり手続きとか色々やることあるから、しばらくは連絡取れないと思う」
「……うん」
しばらく、というのはどれくらいだろう。二週間、三週間、それとも、もっとだろうか。
どれくらいなのか聞きたくて、でも聞いてしまうと、自分のなかから何かが漏れ出してしまうようで、聞けなかった。小さく肯く。
「連絡取れるようになったら、とっておきの連絡をするよ」
「とっておき?」
「そう。リヤがすごく驚くやつ」
なんだろう。聖神術とかを使うやつだろうか。普通の連絡手段ではないのだろうか。
「あなたのことだから、その日まで教えてくれないんでしょう? わたしから連絡するのはだめなの? 手紙ならいくらでも書くわ」
「それは、とっておきが終わるまで書き溜めておいて」
「えー、何それ。じゃあ、しばらく音信不通になるってこと?」
「まあまあ、ちゃんと連絡するから。それとも、僕と連絡取れないの、我慢できない?」
フィルクが悪戯っぽくメリヤナを覗き込んでくる。
メリヤナは、うっ、と声をあげながら、顔を背けた。顔が熱かった。
「我慢できないわけないでしょ。その代わり、うんと、どうでもいいことも含めて書き溜めてやるんだから。溜めるよう言ったことを後悔させてやるくらい、書いてやるんだから」
ぷいっとするメリヤナに、フィルクは笑ってメリヤナから離れた。
「あっという間に読んで、同じくらいの返信を書き綴ってあげるよ」
「言ったわね。ちゃんとやってもらうんだから、覚悟しておきなさいよ」
メリヤナはひそかに、分厚い筆記本の形にして、手紙をしたためてやろうと企む。
「——そういえば、出立する前に渡したいものがあった」
急に思い出したかのように、フィルクが言った。あたたかい熱が離れて、手を伸ばしたくなった。
執務机のような場所で抽斗を抜く音がする。
メリヤナはきょとんとしながらも、冷めてきた茶に気付いて腰かけると、啜った。紅い茶は香茶と異なって、色も香りもいい。これはそのうち社交界に流行っていくにちがいないと思う。
「——はい」
のんびりと茶を啜っていたメリヤナの横から、小箱が差し出される。橄欖とその実が彫刻されている木箱だった。手のうえにちょうど乗るくらいの大きさだ。
「君の誕生日まであともう少しだけど、そこまでいられないから」
「……ありがとう。でもこれ、たまたま今日わたしが来たからいいけど、来なかったらどうするつもりだったの?」
「さすがに何も言わずに出るつもりはなかったよ。誕生日の贈り物を渡すために、ちゃんと出発する前にリヤの家には寄るつもりだった」
「ふーん、それならいいけれど……」
ほんとうかしら、という疑いの気持ちになりつつも、受け取った小箱を開く。
それは、白金の鎖でできた、首飾りだった。垂れ下がる先端に、香水瓶を縁取ったような、小さな飾りが付いている。細やかな彫りや透かし模様が施され、透かし模様のなかで、雫の形をした石が揺れていた。
「きれい」
メリヤナは言葉を失って、その装身具を見つめた。
青みを帯びた紫色の石だった。透明な石のなかでは、きらきらと銀色に輝くものが揺らめいている。不思議な石だった。
「ジェスト石、って言うらしい。戦姫——エスト神の石だって。なんでも前のめりに行動する、君っぽい石だなって」
「え、それどういう意味」
「そのままの意味だよ」
フィルクは、へらへらと笑う。
むっとしつつも、首飾りの美しさに陶然とした。ずっと見ていられる、そんな造りと石だった。
色合いも好きだった。それはまるで——。
「——ねえ、これって、フィルの色?」
白金色に青紫。大切な友人であるフィルク・ローマンの色。
メリヤナは思ったことを無邪気に尋ねる。対するフィルクは、そのことに今気付いたように目を丸くしてから答えた。
「リヤに似合うだろうなって思って選んだつもりだけど……」
最後の声は小さくてメリヤナには届かなかった。
ふーん、と相槌を打ってから、メリヤナはしげしげともう一度装身具を眺める。
「この雫の形もきれいね。きっと、とても技術がある職人さんが磨いたのだわ。でも、雫の形って珍しくない? あまり売ってないわよね?」
「うん、特注した」
「そうなの? わざわざありがとう。この形って何か意味ある? 揺れていて、雨が降ってるみたい」
ちりん、と揺らす。
「僕は……、雨が好きだから」
フィルクは透徹した声で言った。双眸がメリヤナを見る。メリヤナの空色のなかに何かを見出そうと、あるいは何かを求めようとするようだった。
忘れていた鼓動が戻ってくる。祝宴の時、湖のできごとが額の裏に浮かび上がりそうになって、
「そう、なんだ」
メリヤナは目を逸らして応えた。
思い浮かばないようにする。浮かんだものを無理やり思考で切り替える。
知らなかった。変わっているな、と思う。少なくとも、雨が好きな人間は貴族のなかにあまりいないだろう。貴族は衣装が汚れることを嫌うから。
「大切にするね。他のと同じくらい」
「身につけて欲しいなあ」
フィルクはさきほどの空気を感じさせないように、のんびりと言う。
「装身具だもの。ちゃんと使うわよ」
「今度会った時、付けてなかったら許さないからね」
「何よそれ。いつ会うのかわからないのに。毎日付けろってこと?」
「そういうこと」
にっこりと笑うフィルクに、メリヤナは溜息をつく。
「わかったわよ。約束するわ」
そして、フィルクは、フリーダを去った。
社交界でも独身の貴公子として、人気だった彼が、レッセル辺境侯位家と縁組を解除し、エストヴァンに帰国した、というのは女子たちを盛大に気落ちさせた。メリヤナと仲が良かったのは知られていたから、間もなく婚約式を挙げるにあたって、王太子ルデルアンがレッセル侯に圧力をかけたのではないか、というのは噂好きの人間の見解だった。
だが、次第に人々の口にはのぼらなくなる。
寒くなり、新年が近づくにつれて、話題は移ろっていった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
これにて12章終わりです。次回の13章で中編が終わり、14章から後編です。
引き続き、体調を崩さないように毎日更新がんばりたいと思います。
ブックマーク、評価していただけますと、とても励みになりますので、応援していただけますとうれしいです。
すでにしてくださっている方々、ほんとうにありがとうございます……!




