83話:三度目の別離(1)
レッセル辺境侯ローマン邸は、静まり返っていた。訪ねると、街屋敷の管理人と最低限の使用人のみだった。調度には、埃よけの布がかけられていた。領地に戻ったというのは、ほんとうのことだとわかった。
事務的な使用人に案内され、メリヤナはフィルクの部屋に赴く。彼も屋敷を去ったあとではないかと危惧したが、どうやらまだ滞在しているらしく、逸る心の臓を抑えた。
「——フィルクさま、ドール公女さまがお見えです」
扉を叩いて使用人が言えば、なかから物音がする。それから数秒して、扉が開かれた。
「……入って」
使用人が礼をして去っていく。メリヤナはフィルクの自室に入るのは、はじめてだった。外で会うことやメリヤナの屋敷で会うことが多かったし、案内されるのは図書室が多かった。成人したのちは、居を王宮の宿舎に移していたから、訪れる機会がなかったとも言える。
「お邪魔します」
扉を開いたままにして、メリヤナは入室する。
かけて、と促されて、天鵞絨の椅子に座った。フィルクもまた向かいに腰かける。
「——どうしたのさ、急に。先ぶれもなかったから、驚いた」
フィルクの部屋は簡素だった。最近まであまり使われてなかったのがわかる。最低限の調度と装飾品があるだけ。そして、フィルクの格好はもっと簡素だった。外出着ではない。旅装で身を固めていて、あと少しでこの屋敷を去ろうとしていたのがわかった。
「どうしたのじゃないわ。わたしが来た意味、わからないの」
「うーん、ローマン家が田舎に戻ったこと? まあ、それは仕方ないさ。義姉さん……キリカの評判を守るためには致しなかった」
「ちがうわよ!」
「あ、なに、僕が仕事をやめたこと? まあ、金ならそこそこあるし、仕事なくてもやっていけるというか——」
「そんなんじゃないわ! なんで教えてくれないのよ!」
とぼけるフィルクに、我慢の尾が切れて、メリヤナは叫ぶように訊いた。フィルクは驚嘆することなく、その様子を受け止める。
メリヤナとちがった。余裕があるように見えて、いやだった。
「教える気はあったよ。ただ、色々と急に決まったから、やることが多かったというのが事実。手続きとか引き継ぎとか、そんな感じかな」
「でも、そうだけど……それよりも先に……」
「先に?」
フィルクがわかっていて尋ねている。メリヤナをからかう時の雰囲気だ。
むかついてくる。一方で、無性に名状しがたい悲しみが込み上げてくる。
「一番先に、わたしに伝えるべきでしょう。わたしとあなたは……そんな薄情な関係だった?」
メリヤナが恨めしく睨みつければ、フィルクが笑う。
「言ってくれなくて、寂しかった?」
「……そうだって言ってるのよ」
「そっか」
フィルクは満足げに肯いた。してやったり、という顔でもある。
なんだかここまで来るメリヤナを予想していたような、そんな顔にも見えて、ひねくれた気持ちになってくる。むっとするメリヤナを楽しそうに見ているのだから、たちが悪い。
「そんなに怒らないでよ。きちんと話すつもりでいたから」
「……どうかしらね。ここを除籍になったっていう話も聞いたわ。辺境候の家から籍を抜けて、どうするつもりよ。それで、その格好でしょ! どこに行くつもりだったのよ!」
苛立ちが盛り返してきて、語尾がきつくなる。
変わらずフィルクは飄然としていて、世間話をするように答えた。
「エストヴァン」
「……え?」
「エストヴァン。生家に、帰ろうと思ってる」
沈黙が襲った。
振り子時計の音だけがする。
失礼します、と案内をした使用人がお茶を置いていった。その場の空気は意に介さず、さっさと勤めを終えると、辞していった。
「なに、言ってるの」
唇が震えるのがわかった。
エストヴァンという言葉を理解する。解釈する。
隣国。女神エストとヴァンニテの守護する国。王都フリーダと皇都エストリラの距離は、フリーダからサルフェルロとの距離に近い。早馬でも一週間近くかかる距離。馬車だと二週間はかかる。そんな距離だ。
そんな遠い場所に行こうとしている。彼が。メリヤナの大事な友人が。
次の言葉が、継げなかった。
「ほんとうだよ。だから、ローマン家から籍を外してもらったんだ。元々、そのうち生家には戻るつもりだったから、それが少し早まっただけ」
「…………」
「正確に言うと、仮の籍を外してもらった感じかな。生家の籍は、色々あって抜くことできないからね」
「……なん、で」
早まったの、という言葉は続けられなかった。フィルクの言葉を一生懸命呑み込もうと、消化しようとするのに頭がいってしまう。口が動かない。
だが、メリヤナの意図を察したフィルクが答えた。
「ここで、やるべきことが終わったから」
「……やるべきこと?」
「うん、君が処刑されるきっかけになったこと。もう片付いただろ?」
今度こそ、メリヤナは返すべき言葉を失った。思考が止まる。停止する。何も考えられない。
目を見開くメリヤナに、フィルクが優しい目を向ける。
「まずは、ルノワ宮中伯の存在だろ。これは色んな厄介事と一緒に解決。解決というか自滅かな。後ろ暗いことはするもんじゃないよね。
それから、〈盟約の証となる報せ〉と王宮の見取り図問題だろ。このあいだ、メリヤナだと起動できなかったって話があったじゃないか。王太子にも王妃にも見てもらっているなら、証人になるからね。ついでにそこに見取り図もあるのがわかって、そもそもメリヤナでは侵入したり、転送できないことがわかったんだ。解決。
あと、このあいだのサレーネとかいう女は、勝手に退場したからね。良かった良かった」
「…………」
「それに何より、王太子に告白してもらえたんだろう。もうここでは、何も怖いことがないじゃないか」
フィルクがその時、台詞を読むように淡々と話していたことに、メリヤナは気付かなかった。呆然とする自分の思考を取り戻すのに、精一杯だった。
「だから、ここでやるべきことはおしまいだ」
また、沈黙が流れた。
あたたかい紅茶から湯気が出ている。湯気が室内に良い香りを出しているのに、メリヤナはそのあたたかな香りにほっとすることができなかった。
ばくっばくっ、という自らの鼓動の音。
でも、とか、だけど、とか、いや、とか否定の言葉は浮かんでくるのに、そのあとが続けられない。どうにか事実を否定しようとしても、それが的を射ているだけに、続けられない。
「わた、し……」
この感情を、なんて言えばいいのかわからなかった。
何も考えられないのに、苦しくて、胸が詰まるようで、あらゆる内の蔵を締め付けるようなそんな感覚をなんて言うのか、知らなかった。
「——でも、エストヴァンに戻れば、やるべきことが、ある」
沈黙を破るように、フィルクが決然とした声音で言った。
メリヤナは顔を上げる。そこに海の色、深い海の青紫の色に、込められている意志を見た。
「君のためにできることがある」
強い意志を感じた。澄んだ青紫が語っている意志があった。
「わたしの、ため……?」
「うん」
思考できないなかで、メリヤナは問うた。はっきりと肯くフィルクから、自分のためにフリーダを出て、嫌な扱いを受けてきたという生家に戻ろうとしてくれている、というのがわかった。その気持ちは、思考できなくても感じることができた。彼の決意を感じることができた。
「……でも」
ただ、体が全身から拒否をしたくてたまらなかった。叫び出したくて、たまらなかった。
行かないで、と言いたかった。




