7話:エストヴァンの〈唯一〉
ぼんやりと空を眺める。数羽のコマドリが、チュリ、チュリ、と鳴きながら飛んでいくのを目で追っていると、〈緑の湖畔〉が眼下に映った。
ドールの屋敷は山稜の中腹に建っているので、こうして露台から景色を眺めれば、王都の半分が視界に入る。右側には王城が聳立していて、その先は映ることが叶わないが、景観の美しさを堪能するのには充分だった。
「——あ、ここにいたんだね」
声の先を振り向けば、フィルクがにっこりと笑ってそこにいた。
女中のカナンは用を終えたとばかりに、頭を下げ去っていく。
(カナンともっと仲良くできないものかしら)
メリヤナの私室付き女中カナンは、メリヤナの四つ年上で成人したばかりだが、その歳で私室付きとして抜擢されるくらい、しっかりとした女中だった。普通その歳であれば、見目がよくて客室女中で、そうでなければ台所女中だ。将来は女中頭になれるのではないかと思うくらい、きっちりしている。
仕える主人であるメリヤナと雑談するのは言語道断とばかりに、いつも無言で淡々と、だが確実に仕事をこなす。仕えられるメリヤナのほうが、背筋が伸びるくらいに。
メリヤナとしては、もっと仲良くなって親交を深めたいところだが、カナンにその隙は見当たらなかった。
かつての生で、メリヤナに侍女が付くようになると、彼女は結局どこかへ嫁いでいってしまった。それまでに、なんとか仲良くなりたいというのが、今生のメリヤナの小さな目標だった。
「あの女中さんが、どうかした?」
メリヤナの視線を追って、フィルクが尋ねる。
「……うーん、仲良くなる方法がわからないなあって」
「それなら、君のほうから感情をばーんとぶつけてしまえばいいと思うけど?」
僕の時みたいに、とフィルクは続ける。
「……ぶつけないほうがいい時もあるわ」
ルデルがそうだった。
寡黙なカナンはどこかルデルに似ている。であれば、感情をぶつけるのは得策とは思えなかった。
「ふーん」
「……はあ。人から嫌われないのは大事だけど、好かれる方法ってないのかな」
今のところ、大きな失敗はしていないと思う。あの、虫の複眼を直視したような視線をルデルからぶつけられていないし、おそらく良き婚約者として良好な信頼関係を築くことができている。
けれど、メリヤナは不安だった。
たとえ、自分のことを嫌いにならなくても、あの令嬢が現れたら、ルデルは心を移してしまうのではないか、と。そうなれば、たとえメリヤナが毛嫌いされていなくても、婚約破棄されてしまう可能性がある。
(また同じ目に遭うかもしれない)
考えると、身がそそけ立った。左肩の刻印がじくじくと熱を持ったように痛む。
そうなってはいけない。
メリヤナは、王国の未来も担っている。メリヤナの婚約破棄は、王国の滅亡を生む。それは阻止しなければいけない。
「それって王太子のこと?」
フィルクは、メリヤナの横に腰かけた。露台には木製の卓と椅子が設えられていて、こうして晴れた日には外を楽しむことができる。
「……うん」
きっかけはカナンだったが、今はルデルのことを考えている。結局メリヤナは、ルデルのことばかり気にかけている。
フィルクは、ふーん、と相槌を打ってから、きょとんと首をかしげた。
「なんで?」
「えーっと……、好きだから」
「うん、それは知ってる。教えてもらったから。王太子から嫌われたくないって気持ちも知ってる。だから、嫌われないようにしてるんだよね? じゃあ、どうして、好かれたいの?」
フィルクは鋭い。御使いのようなやわらかな顔で、こうして切り込んでくるのだから、メリヤナの心の臓はきりきりとする。
探求心が強いフィルクは、適当な答えを望んでいない。本心を尋ねている。
「…………別の、誰かを好きになっちゃうかもしれないから」
ぽつりとつぶやいたあとに、瞼の裏に成長したルデルとあの令嬢が、仲睦まじく語り合っている姿が映る。
好きな人が、愛した人が、別の誰かを愛する姿なんて、もう見たくなかった。
王国滅亡の運命も変えなければいけない。
その重荷を、誰かに話すという形で少しだけ下ろすのは契約に反することではないはずだ。
「そっか。それも、灯火占いで視たことなの?」
「……うん」
そういえば、以前そうやって答えたのだった。良心がちくりと痛むのを感じながら、メリヤナは肯定した。
「ふーん。なるほどね。つまり、メリヤナは現状では満足できないってことだよね?」
フィルクが確認する。
「そうだと思う。えっと、言葉を選ばなければ……」
「ん?」
「殿下を虜にしたい、って言えば、いい、かな」
言っていて恥ずかしくなった。頬に熱が上るのを感じて、両手で隠す。
(笑うかしら)
誰もが一笑に付すことだ。何を尊大なことを言っているのだと。王太子の心をどうにかしたいなど、おこがましいことだ。
ちらりとフィルクを見れば、けれど彼は穏やかな顔をしていた。
「そっか」
「……笑わないの?」
「だって、君の本心からの望みだろう?」
メリヤナはこくりと肯く。
「だったら、笑うわけがないよ」
フィルクは愛嬌のある笑みを浮かべた。
メリヤナのなかで、お腹のあたりがほっこりするのがわかる。
「ありがとう」
「いいえ、お嬢さま。——腑に落ちないところはあるけどね」
フィルクは悪戯げに目配せをする。
やっぱりフィルクは気付いている。メリヤナが明かしていないことに。
どきまぎしながら、曖昧な笑みを返すと、フィルクはからっと言った。
「ま、そこは追々聞くとするよ。——僕にも言いたくない事情はあるし」
「え?」
よく聞こえなかったと聞き返せば、フィルクはなんでもないよと言って、首を振った。
「さあて、そうと決まれば、君が王太子を虜にするための知識を伝授するとしますか」
フィルクが、ぐっと上に伸びをしたところ、カナンが戻ってきた。お茶とお菓子を置いていくと、一礼してすぐにその場を去っていく。その颯爽とした仕事ぶりに一抹の淋しさを覚えつつも、メリヤナはフィルクに訊いた。
「知識って?」
「エストヴァンで、一部の人だけが知っている知識だよ」
「なんで、フィルクがそんなことを知っているの?」
そういえば、彼はエストヴァンに関係する事柄をよく知っている。
「僕はエストヴァン出身だからね」
「えっ!」
驚いて思わず立ち上がると、ガタンと木卓が揺れて、茶器がかちゃかちゃと音を立てた。慌てたフィルクが卓をなだめると、茶がこぼれることはなかったが、やや呆れたように言う。
「メリヤナって驚くと、立ち上がるくせ、あるよね」
「……ごめんなさい」
まあいいや、とひらりと手を振ると、フィルクは茶を一口飲んでから確認した。
「知らなかったの?」
「だって、あなたはレッセル辺境侯のご子息でいらっしゃるのでしょう?」
「ってことは、知らないんだ。僕は、養子なんだよ」
今度は驚いても立ち上がらなかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「そうなの?」
「うん。僕の実の母親の遠縁が、辺境侯夫人でね。5年前から養子としてお世話になってるんだ。ちなみに、けっこう位家のなかでは有名な話だよ?」
「そうだったの……」
まったく知らなかった。5年前と言えば、メリヤナは6歳だが耳に入った覚えがない。むしろ、数年やり直しているのだから、10年以上前の記憶となると、引っかかる形跡さえなかった。自分がよほど無関心だったのだろう。
フィルクはあっけらからんとしているが、気まずいことを話させてしまったと悔いる。
「……ごめんなさい、知らなくて」
「いいよ。そういうことはよくあるし、大したことじゃないからね」
ほんとうにそうなのだろうか。
フィルクは、さっぱりと言うけれど、養子に入るということはそれなりの事情があるということだ。とてもメリヤナからは聞けることではないが、実の両親ではない人に実子と共に育てられたら、寂しい思いをしたりするのではないのだろうか。
「あのね、」
メリヤナは、フィルクを見つめる。
「ん?」
「もし、困ったりしたらちゃんと言ってね」
下手な気遣いは、お節介になることがある。言葉少なにメリヤナが伝えれば、フィルクはその気持ちを忖度したように柔らかな笑みを浮かべた。
「……うん、ありがとう」
南風がさあっ、とふたりのあいだを吹き抜けていくと、メリヤナは流れた空気を振り払うように改めて尋ねた。
「とにかく、あなたはエストヴァン出身ってことね?」
「うん。そういうこと。両親ともに、生粋のエストヴァン人だよ」
エストヴァン人と聞いて、メリヤナが気付いたのは、フリーダの人々と姿外見がまるで変わらないことだ。同じ民族だったと教師に習った記憶が掠めるが、金髪碧眼という見た目は民族特有のものらしい。
沖諸島の人々はもっと黒い肌を持つというし、トゥーミル自治都市の人々はもっと色白で緑の目の者もいるという。フリーダとエストヴァンはどこかで共通の血が流れているのだろう。
「——だから、王太子をメロメロにする方法を教えてあげられるんだ」
考え込んでいるところで、フィルクの澄んだ声が耳に余韻を残した。
メリヤナは小首をかしげる。
「どういうこと?」
「エストヴァンの〈唯一〉って知ってる?」
フィルクは卓に肘をついて、身を乗り出すように問うた。
「……? 知らないわ」
聞いた覚えもない。
「そのむかし、エスト神はエストヴァンの祖リアタールに恋をし、番ったんだ。女神は戦の女神でもあるが、愛の女神でもある。〈唯一愛〉。人生で唯一の人を愛するっていう権能を持つ。だから、その子孫である皇族たちにもその力の名残があるんだが……、これが厄介でね」
「なんで、厄介なの? 心移りをしないってことでしょう?」
ルデルの顔がちらつく。心変わりがなければ、あんなことはなかった。
「たしかに、皇族の人間からしたら、一度人を好きになったら、他の誰も好きにならないからいいかもしれないね。それこそ生涯を誓えるから。けど、好きになられたほうは? そうじゃないんだ。人間だから、心変わりだってする。誰か別の人を好きになったところで、おかしくないんだ。自分の〈唯一〉に嫌われちゃったら最悪だからね。もう狂っちゃうんじゃないかな?」
「…………」
この時、メリヤナは腑に落ちた。
(そっか)
あの狂おしいほどの愛の希求は、女神の権能からくるものだったのか。
メリヤナには、エストヴァンの皇族の血が薄く流れている。高祖母トリヤナ皇女の血が。エスト神の権能の血が、今も肌の下を脈打っている。
(彼の心変わりは、人として当たり前だもの)
おかしかったのは、メリヤナのほうだったのだ。そう思うと、心の臓が締め付けるように傷んだ。
「そ! こ! で!」
フィルクの声が大きくなって、メリヤナはびっくりして再び飛び上がった。
「な、なに?」
「相手を虜にする術数が磨かれたわけだ」
「へ?」
メリヤナの立ち上がりにフィルクは動揺した様子は見られない。代わりにこんなことを言ってのけた。
「つまり、自分の〈唯一〉に嫌われないように、虜にするような技術が磨かれるようになったんだよ。題して、皇族秘伝メロメロ大全」
「…………ほんとうにそんな題名なの?」
「ごめん、ちょっと盛った。ほんとはもっとちゃんとした名前があるよ」
「…………」
「まあ、名前なんてどうだっていいよ。ようは、君が王太子を虜にできればいいんだから」
たしかにそうだけど。メリヤナはその秘術大全の正式な名前が少しだけ気になったが、口を引き結んだ。
「ほんとうに、それ、役に立つ?」
「もちろんだよ。うそだと思うんなら、今度やってみせようか?」
「え?」
「今度、少し大きめの昼食会があるだろ? 僕がそこで見せてあげる」
フィルクは自信たっぷりに瞬きをしてみせた。