75話:湖に沈む
「ドール公女さま、少しよろしいでしょうか?」
思考の沼に浸かっていたからだろう。自分の近くに人が来た気配に気付かず、メリヤナはどきっとする。落ち着いていた心の臓がまた早まった。
近くにいたのは頭巾をかぶった外套を羽織っている人物だった。その人物に、メリヤナは目を見開く。
「あなたは……」
「——シェーラと申します。以前お屋敷で面接させていただきました」
知っているし、覚えている。メリヤナのかつての侍女なのだから。今生は、メリヤナが落としたのだから、よく知っている。
だが、落としてしまった手前、メリヤナは罰が悪かった。申しわけがなく気が引けてしまう。今はエオラの侍女をしていると知って、少し安心したが、申しわけないのは変わりなかった。
一方で冷静なメリヤナは疑問に思う。
(なんで、この子はここにいるの……?)
先日、ファルナ伯は拘留塔につかまり、あとは沙汰を待つのみと聞いている。エオラたち家族や使用人たちも、蟄居を命じられているはずである。ここにいられるはずがないのである。
なんだか恐ろしい予感を覚えて、メリヤナは立ち上がった。距離を取ろうとして、引き止められる。
「公女さま、実はエオラさまからあなたに話があるというのです」
(話?)
メリヤナに話すことはない。だいたいエオラもまた蟄居を命じられているのだ。ファルナ伯の屋敷に顔を出せとでもいうのだろうか。
だが、シェーラに言われるとこの場に留まってしまう。
申しわけなさから留まって用件を聞いてしまおうと思う。話がある、というエオラにもだ。あまり好ましい人物ではなかったが、数年前に彼女がフィルクを慕うようなきっかけを作ったのはメリヤナのほうだ。エオラにも申しわけない気持ちがある。
「……どのようなお話ですか?」
だから、恐ろしい気持ちを覚えながらも、精一杯気丈に、位家の娘らしく振る舞った。余裕があるように表情を繕って。申し訳なさを隠すように装って、尋ねた。
「——あなたのせいよっ!」
シェーラに注意が向いていたせいだろう。後ろから聞こえた声に反応が遅れた。
走ってくる影に気付いた瞬間には、その影はもうすぐそこだった。ぎらりっと鈍色の光が垣間見える。あと一瞬でも遅れていたら、自分の体は惨事になっていただろう。咄嗟の受け身が間に合って、メリヤナは影の一撃を避けた。髪に引っかかったのか、編んでいた髪がほどける。今日のために、おしゃれをした編み込みがほどける。
自分の金色の髪が、湖から吹く風に乗るのに合わせて、影がまとっていた頭巾も取れた。
エオラが、いた。痩せたせいだろうか。陥没した青い眼窩がぎょろぎょろしていた。常ある自信のある振る舞いに満ちた伯位家の令嬢には見えない。裁ち鋏を持って震えている姿が、寝物語の怪談に出てくるような、恐ろしい人形のようだった。
「ファルナ公女……」
メリヤナは二の句を継げなかった。あまりの変わりように何も言えなかった。
「あなたが、あなたがいたから、わたくしは……っ! あなたがあの方を……たぶらかしたのよ……っ! この……許せない。絶対許せない。ゆるすものか。ゆるせないゆるせないゆるせないゆるせない。わたくしは、お前をおおおおおおおおおっ!」
裁ち鋏が走ってくる。メリヤナの胸を目指して。放心している場合ではない。体を動かさなければ。
「——リヤっ!!」
叫ぶ声で、メリヤナは我に返る。そして、間に合った。エオラの二撃目を交わす。交わして、その体を突き返した。
だが、突き返した先が良くなかった。
篝火が、あった。火を祀る、フリーダ神の加護を持つ火。浄化の炎。〈浄火〉の権能を持ち、あらゆる神の権能に拮抗する浄めの火。
それは一瞬で、メリヤナを過去に引き戻す。あの過去を再現する。
エオラが傾いだ先の篝火が倒れ、一面の草地に広がる。ぼうっぼうっ、ごうっという音が、あの過去を禍々しくメリヤナに思い起こさせた。
薪に火が付けられる。神官たちが施した聖神術の陣が、薪に猛前とした勢いで火を付ける。メリヤナの体を焼く炎が。
「——いやあっ!!」
つんざくような悲鳴が自分の喉から引き絞られる。
恐慌が、体と意識をすべて支配した。
「やめて! やだっ!!」
その時、延焼した火が、メリヤナの衣装に火の粉を浴びせる。今日のための衣装。丸襟の生成り色の寛衣。袖がなく代わりに細い肩紐のついた黒い上衣。それに赤と緑の縞の広がった裙を履いていた。
その裙から、ぼうっ、と火がつくのはすぐだった。
「やあっ!! 火が、わたしを、——わたくしを……っ! ああ……っああああ!」
現在と過去の自分が交錯する。裂帛の声が、あがる。
騒ぎを聞きつけた、巡回していた警邏や近くの者たちが駆け寄る。エオラやシェーラはすぐに取り押さえられる。
「——メリヤナっ!!」
メリヤナに注意を喚起した声がすぐ側で呼ばった。自分の胴着を脱いで、素早く裙の火を払う。それでも、メリヤナは戻ってこれない。現実に戻って来れない。
「いやああああっ!!」
「くそっ」
体が宙に浮いたことも気付かず、メリヤナは狂乱の声をあげる。二度目の声をあげそうになって、口が塞がれるのと、水のなかに体が勢いよく沈むのは同時だった。
ぶくっ、と泡が口から溢れる。塞がれた唇に、唇が重なっているのがわかった。いつになく差し迫った表情が、メリヤナの目と鼻の先にある。水草が背後で揺れている。体が水に包まれている。感覚が、塗り替えられていく。
次第に、恐慌が収まっていった。体全身に満ちていた恐怖と痛苦が幻影なのだと認識することができた。
「は……っ」
息ができなくなって、ふたり同時に——メリヤナとフィルクは同時に水面に顔を出した。
「大丈夫かあっ?!」
岸辺から声が聞こえる。急に湖に飛び込んだからだろう。何人もの人影が見えた。岸に近いところでは広がった火消しが行われている。
また恐慌が思い出されそうになった。
「——こちらは、大丈夫です……!」
フィルクがメリヤナを抱き寄せながら、応える。
布を取ってくる、などと岸辺で話しているのが聞こえた。秋の始まりとはいえ、夜に水に浸かれば体が冷える。心遣いからの行動であろう。
「フィル……っ」
「リヤ、大丈夫。もう大丈夫だから」
恐慌で張り詰めていた体が、急に弛緩したようだった。
目から、涙がぼろぼろとこぼれる。冷たさからなのか、震えがやまない。
「こわ、かっ……」
「大丈夫だよ。もう誰も君を傷つけない。火も、ない」
ぎゅっ、とぬくもりを分けてくれるように抱きしめられた。あたたかい、強い力が、水のなかでも感じられる。
「……っ、大きな、火は……、だめなの……っ」
不意に目元の雫がなくなった。フィルクの唇がそっと当てられて、吸うようにして塩の水を絡め取られた。
「知ってるよ……こわかったよね」
「うっ……ん……っ」
「ごめん、僕が離れたからだ」
「ちが……っ」
嗚咽が込み上げてきて、背中がさすられる。水中での掌を心地よく思う。
「……卑怯だって、わかってる。弱ってる君に、付け込もうとしている。それでも——」
左手が背中にあったまま、うなじにもう一方の手が回される。
このあとに、起こることをメリヤナは予感した。
「——これは、練習じゃなくて、ただの……、僕の、欺瞞だ」
囁かれて、そうして口づけられる。三度目、あるいは四度目の唇だった。
なだめるように、あやすように、大丈夫だよ、と告げるような唇だった。はじめてが獰猛な、狩るような、奪うような唇だったのに対して、今は、このうえなく優しい。
まるで、メリヤナを慈しんでいるようだった。メリヤナを、いとおしんでいるようだった。
陶然と、それを受け入れた。
沈まないため、と自分に言い聞かせて、フィルクの背に手を回す。気を良くしたように、口づけが深くなっていった。どこまでも深く、沈んでいく。灯火に視たものと共に、沈んでいく。
(今は、わたしを……)
慰めてくれているだけだ。
そこに、何かを見てはいけない。伏せられた瞼から、かすかに覗く光のなかに、熱を見てはいけない。
ただ、慰めてくれているだけ。やわらかいものが、慰撫しているだけ。
そこに、何かの意味を見出してはいけない。
自分のなかも、見てはいけない。歯止めがないことにも、気付いてはいけない。
——そこには、慰めだけなのだから。
秋の夜風が吹いていく。虫たちがすだいている。
冷たく体を冷やしていくはずの風は、逆に体のなかの熱を意識させるだけだった。




