71話:エオラの王子さま
ファルナ伯公女エオラ・ルッツェは、その報せに悲鳴をあげそうになった。エオラがあげるより前に、母や妹たちが悲鳴をあげたものだから、あげ損ねたと言ったほうがいいかもしれない。
父が、軍警府と司法府によって捕縛され、屋敷からその身を連れ去られていく。
「あなた……っ!」
母が泣き叫んで父に縋り付く。妹たちはそんな母に縋り付く。
執行官たちは容赦がない。幹につく害虫でも剥がすように、母や妹を引き剥がすと、父を拘束車に入れて、連れて行ってしまった。
「お、お嬢さま、どういたしましょう」
恐怖した侍女のシェーラがエオラに尋ねる。そんなこと、エオラのほうが尋ねたかった。
このあと、どうなるのだろう。
何が起きるのだろう。
自分たちの家に、何が起きたのであろう。
泣き続ける母や妹たちを使用人が慰めるようにしていたが、シェーラをはじめ仕えるものたちも恐ろしいことが起きたのだと、気が気でなかった。屋敷全体が総毛立っていた。
エオラは落ち着くために自室に戻る。得意な刺繍をすれば、この不安と恐怖に打ち克つことができるかもしれないと思えた。
そうして三日三晩が経った。
三日も経てば、事のあらましがわかってくる。父が罪を作り、捏造し、あまつさえそれを無辜の者に押し付けたのだ。
よく知らなかったが、数年前に処分された家令がなにかに関わっているのは知っていた。位家としての仕事は父とその家令が行っていたから細かいことはわからない。だが、父があまり良くないことを家令に命じていたのは、なんとなく察していた。察して、気付かないふりをしていた。
エオラが気付かないふりをしていると、家令は消え、ファルナ伯家を騙して処刑されたのだと聞いて、嫌な気分になった。自分も何かに加担したのではないかと罪の意識に苛まれた。
その罪悪感をエオラはどうしたのだったか。
「……フィルクさま」
エオラは思い出す。
数ヶ月前、距離を取られていたはずのローマン公子にお茶に誘われ、浮足立った気持ちで赴いた。そして、ふたりでいるあいだ、熱心に話を聞いてくれる公子に、実は公子は恥ずかしがり屋で、人前ではあまり男女の機微めいたやり取りが好きではないのだと思った。
成人する前に刺繍が美しいと褒めて自分に自信をくれ、熱の籠もった目で手に口付けてくれたのも、誰もいない場だった。きっとそうなのだ、と数年間の片想いが成就するような気分で、調子に乗って色々なことを喋った。
そのなかに、この罪悪感が含まれていた。
(まさか、あの時のことを……)
そんなはずはない、とエオラは内心で否定する。その話をした後日、今度はこの屋敷を訪れてくれたのだ。もし、ローマン公子に何か目的があったのであれば、エオラと二回も会う必要はないのだ。
だから、屋敷を案内し公子が一度席を外したことを思い出しつつも、彼ではない、と否定する。ひそかな逢瀬をしてくれる公子のはずがない。
でも、それも、あのドール公女が帰国してきたら終わってしまった。
エオラは許せない。嫉妬の泥が自分のなかで溢れてそこら中を泥だらけにするようだった。
ずっとそうだ。あの女と公子は仲がいい。いや、仲がいいだけじゃない。ずっと、公子を見てきたのだから、エオラはよく知っている。
王太子という婚約者がいながら、あの女は長年公子との距離をわきまえないのだ。公子の表情や仕草を見ていればわかる。あの女に、特別な、尋常ならざる想いを抱いているのは、エオラだからこそわかる。ずっと見てきたエオラだからこそ。
許せなかった。
そんな怒りも、父が拘留塔に入れられたという次の報を聞けば、恐怖になりかわった。いよいよ次は自分たちの番だという気がして、生きた心地がしなかった。
そして聞こえてきたものは、救いの呼び鈴だと思った。
自分たち一家は、今や王都中の話題となっているだろう。尋ねてくるものは、執行官と、自分たちが逃げぬよう見張る警邏のみ。
それなのに、屋敷を尋ねるものがあった。戸の呼び鈴が、りん、と鳴る。
誰何する声に応じたのは、エオラにとっての救い主。あるいは物語に語られる白馬の王子さま。
その姿と声に、エオラは感激のあまりむせび泣き、抱きついた。
「——ああ、フィルクさま……っ」
エオラを助けに来てくれたのですね。この地獄から救いに来てくださったのですね。
昔のように。自信がなく、社交性がないと周囲や親にばかにされてきたエオラを。唯一好きで長年愛してきた刺繍の腕を見出して、自信をつけてくださった。この腕で社交界を渡り歩けるのだと言ってくださった。そうして、光をくださったように、また助けてくださるのですね。
歓喜で心がふるえるようだった。
「……少し話しましょうか」
ずいっと、力強い腕がエオラを引き離した。
そうでした。あなたは恥ずかしがり屋で、人から見られるのを良しとしないのでした。
配慮が足りず申し訳ないとエオラは赤くなる顔を抑えて、自室に招いた。
自室に招こうが何も怖いことはない。そしるような父もいない。たとえ、そしられるようなことが起こったとしても、エオラは本望だった。公子が望めば、いつでもこの身は差し出せる。
公子は一瞬ためらいを見せたが、シェーラによって椅子が出されると、最低限の紳士淑女の距離をわきまえるように座った。そんな礼儀正しさもエオラは好きだった。退室しようとするシェーラを引き止められたのには、むっとする思いだったが、逆に何かあったとしてもシェーラが証人になってくれる。それでも良いと思えた。
「大変なことになりましたね」
と、公子は口火を切った。
「はい……」
エオラは自らで作った手巾で、あふれはじめた涙を拭う。
「父上は、大変なことをなされた」
「はい……わたくしも、聞きました。まさか父があんなことを……。それもあんなに優しかった家令に罪を押し付けるなんて……知らなかったのです」
なんてひどいことをしたのだろう。エオラはよく知らなかった。気付いたことはあったけど、知らなかったのだ。そんな自分はなんてかわいそうなのだろう。昔からエオラは、ばかにされてばかりで、嫌な立場になってばかりなのだ。今回もまたそうなのだとエオラは涙をこぼしながら語った。
「お嬢さま……」
シェーラがはかったように次の手巾を持ってくる。わかっている侍女だった。自分の意に合ったことをしてくれそうな子だと思ったから、雇ったが、正解だった。
公子から手巾が差し出されないのは、少しだけ残念だった。
少しの間が合っただろう。啜り泣くエオラの声だけが自室に響く。
不気味な、奇妙な、間だった。
「——いいえ、あなたのせいですよ」
紡がれた言葉を、エオラは最初理解できなかった。西方にある繊細な刺繍の目を見た時のように、理解できなかった。
「あなたが、気付いた時に言っていれば、こうはならなかった。優しかったという家令も処刑されることはなかった。それは、あなたの罪ですよ、ファルナ公女」
「な、何を……」
言っているのだろう、公子は。
夕闇が訪れていた。灯燭をつけるのを忘れていたからだろう。薄暗い部屋のなかで、対面する濃い青い瞳は深淵のようで、笑っていなかった。
「愚かな人ですね。そして、かわいそうな人だ、あなたは。あまり愛情を受けてこられなかったのでしょう。人に、飢えている。それは、少し同情します」
「…………っ」
「けれど、いけませんでした。僕も少しは、昔あなたにしたことを反省していましたし、その立場に同情もしていましたから、今回の件についてはどうにかしようかと考えていました」
ですが、と公子はのたまう。断じる。宣告する。
「あなたが、祝宴の場で彼女に余計なことを言ってくれたから、気が変わりました。まあ、今の僕にとっては必要な距離でしたけど……、彼女を不快にさせたのは許せない。一緒に塵払いすることにしました。残念でしたね、公女」
にっこりと笑って不気味さが増すようだった。エオラの喉がかわく。恐怖から喉から水分が消えていく。
そうして、余計なこと、というできごとに思い至って、精一杯の勇気を振り絞って言い返した。
「余計な……、こと? フィルクさまは、思いちがいをなさっているのです。わたくしは正しいことを言ったまで。あの女は、王太子殿下という婚約者がありながら、あなたという人をたらし込む魔性の——」
「黙れよ」
冥界の深淵が這いずるような、ぞっとする声が、エオラの声を奪った。
「お前みたいな女に、彼女の、なにがわかる。表面的なことしか見ていないお前に、わかるわけがないだろ。これ以上、僕の癇に障るようなことを言うと、僕はお前に何をしでかすかわからない」
覗き込まれて、覗いて、深淵の底を見て、見られた。
エオラは、ひっ、と声にならない悲鳴をあげた。見えたものに悲鳴さえも呑み込まれたようだった。
公子は立ち上がる。興味をなくした、もう用はないと言わんばかりに、その結った髪が流れ落ちる背を向けた。
あ、でも、と公子は最後に振り返る。
「あなたが色々と喋ってくれたから、僕は証拠を集めることができました。彼女のために。ついでに、あなたという邪魔者も一緒に消えてくれたので、一石二鳥以上の得をしました。——感謝します、ファルナ公女」
にっこりと笑って、公子は姿を消した。
あとは、その場に泣き崩れるエオラと、立ち竦んだシェーラが残された。
エオラが泣き乱れると、シェーラが正気を取り戻したように背中をさする。
「なんということでしょう、お嬢さま。なんということでしょう」
エオラはとめどなく涙を流す。悲しみが体全体から溢れ出している。
「許せませんわね、」
シェーラが言う。滂沱の涙を流すエオラに、そっと囁く。
「許せませんわ、きっとドール公女さまの差し金です。あの方は、企みのある顔をされていましたもの。わたくしはそう思っていました」
シェーラが言っていることの意味はよくわからなかったが、ドール公女のせいだというのは得心した。
そうだ。きっと。たしかにそうだ。
ローマン公子がきっとあのように恐ろしくなったのも、あの女のせいだ。昔はあんな恐ろしくなかった。優しかった。
きっと、あの深淵を呼び寄せたのも、あの女にちがいない。
「どうにかしましょう、お嬢さま、せめて一矢報いてやりましょう」
「そうね……そう、あの女には、やってやらなければ……」
シェーラの言葉が、自分のなかに真理として響いた。
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