6話:断罪の記憶
夢を見た。
断罪されるその瞬間だった。
「——ドール公が娘メリヤナ・グレスヴィー。私は、我が神フリーダの名の下、ここにいるすべての者を証人として、あなたとの婚約をこの場をもって破棄する」
「ルデルさまっ!」
メリヤナは叫んだ。
新年の夜会は、今始まったばかりではないか。女神フリーダ神を讃える角灯の光も灯されたばかりのこの美しい広間のなかで、なんということを宣言するのだ。婚約式から一年、18になり、今年こそ婚姻式を行うはずであったというのに。
憎々しくも、あの下位貴族の娘は、ルデル王太子の後ろでこちらを見ながら、ほくそ笑んでいる。勝利の笑みを浮かべて、こちらを見下している。
あの女。——サレーネ。ただの下位貴族の娘。
位家でもない娘が、メリヤナからルデルを奪った。なんたる無礼。なんたる侮辱。
「わたくしが! わたくしが、何をやったというのです! わたくしは、公位家の娘として——」
メリヤナの訴えは、冷酷な声によって遮られた。
「追って沙汰を申す。——己の罪状は、己が胸に聞くが良い」
氷のような瞳が一瞥して、衣装の外套を翻していった。
そこには、婚約者に対する信頼も親愛も含まれていなかった。
侮蔑と嫌厭のみ、込められていた。
「ルデルさま! ルデルさまっ! 待って! お待ちください……っ! わたくしは、わたくしは、ただ、あなたを——」
愛していたのです! という叫びは、数多くの冷えた視線に呑み込まれていった。大理石の床に崩れるようにして座ったメリヤナを、誰もが顧みなかった。衣装の裾に、布のかたまりに押しやられるようにして、メリヤナの深い悲しみと愛惜は、ただ見捨てられるものとなった。
——どうして。
どうして、何が、わたくしの、何がいけなかったというの。
——なぜ!
慟哭は終わりのない空間に轟き、気が付けば、寝台の天井が目に映った。
目尻には、今も溢れた涙があとを残している。
「ゆ、め……?」
否。夢ではないことをメリヤナ自身が覚えている。
これは、夢ではない、事実。かつて実在した未来。
メリヤナが行うべきことを放擲した結果、確実に結ばれる未来。
「もう二度と……」
(同じことはしない)
あの悲嘆と絶望を、繰り返したりしない。
左肩に疼く印をそっと撫でる。橄欖の葉が、神との契約の証が、メリヤナのなすべきことを思い出させてくれる。
忘れてはいけない。
誰もが忘れたとしても、絶対にわたしだけは忘れてはいけない。
*
「メリヤナ、王妃殿下がお前のことをとても褒めていたぞ」
朝議より戻った父ファッセルがそう言ったのは、夏の陽射しが天窓から差し込む昼下がりのことだった。
「王妃さまが……?」
なんのことだろうとメリヤナが首をかしげると、出仕した衣服をくつろげながら、父は少し前のことを語った。
「機転を利かして、王太子殿下が苦手なものを食べられるように工夫をしたというではないか」
げっ、とメリヤナは心中で呻いた。
王妃殿下はそんなことを喋ってしまったのか。
「……ちがうの。全然たいしたことじゃないのよ。ちょっと知っていた食べ方を伝えただけだわ」
そんな褒められたものではない。
メリヤナとて、以前教えられたことを思いついたように話しただけだ。自分の思いつきではないことは、自分自身が一番よく知っている。手柄のように評されると、後ろめたかった。
「知っていることを適切な時宜と場を見計らって伝えることも、大切なことのひとつよ」
少しひねくれた気持ちでいると、茶を淹れた母が居間に入ってくるところだった。
ドール家では、茶の一時に夫人が手ずから茶を淹れる習慣がある。高祖母トリヤナが嫁いで来た頃からの習慣なので、おそらくエストヴァンでの習慣なのだろう。
フリーダでは担当の女中が茶を淹れるのが一般的だった。母は、たまに時間を見つけてはメリヤナに茶を淹れる指導をしていた。
スリヤナは、茶器に海南諸島から仕入れた紅茶を注ぐ。そこに、輪切りにした檸檬を淹れると、色がぱっと明るくなった。
「……そうなのかな」
「そうよ。それで、王太子殿下が苦手なものを食べられるようになったのだから、あなたは大したものだわ」
「うむ。まさに、未来の王太子妃の器だな」
父も母も自慢げに言うので、メリヤナは納得したように肯いた。けれど、衷心では、蜷局を巻いた靄が、底の方で今にも蛇の舌をちろちろと出そうと渦巻いていた。
(……わたしはただ、ルデルさまに嫌われたくなかっただけ)
あの悲しみと苦しみを繰り返したくなかっただけだ。
昨晩の夢が思い出される。
愛していた人に嫌われて蔑まれ、別の誰かを愛する場面を目にして嫉妬し、恨み、憎しみ、そして、婚約を破棄され、挙句の果てに火刑された苦痛。
もう二度と、あんな想いはしたくなかった。誰からも背を向けられ顧みられず、要らぬものと切り捨てられるようなことは、絶対に繰り返したくなかった。
(わたしはただ……)
愛されたい。心から、愛されたい。目を背けられるのではなく、愛されるような人になりたい。
——願わくは、自分の愛した人に。
ルデルの顔が浮かんだ。成長した端正な顔立ちの王太子ルデルアン。心地の抜けるような低音で話す彼に、親しみを込めて名前を呼ばれたかった。
彼の妃として、横に並びたかった。
「いつの間にか、大人になっているのだな」
メリヤナの心中の想いをかき消すように、しみじみとした声で父が言った。
「メリヤナ、あなたがやったことはたいしたことだけど、背伸びしすぎて疲れないようにね」
母が檸檬茶を飲みながら、優しく言った。
「家にいる時はゆっくりとしなさい」
父もまた柔和な目元でそう諭す。
ひそやかな悲しみと望みは霧散し、灯火のようなあたたかさを感じて、メリヤナは不意にまた浮かびそうになる目元に力を入れた。
(少なくとも、今わたしは両親に愛されている)
まだ、誰にも絶望されていない。嫌われていない。死にも追いやっていない。
——ならば、この愛を、決してなくさないようにしよう。
ただ王太子から嫌われないという目的だけでなく、今ある幸せを大切に。
心から、そう思った。