62話:サラルの宴(2)
本日2度目の更新です。
ソルアの演奏は続けられて、悠久と壮大な高原を思わせる楽曲が次々と奏でられた。〈草原ノ夜〉〈風運び〉〈我が愛馬よ〉など、サラルの世界や歴史を感じさせる曲の数だった。時に果敢、時に哀愁、時に風雅、曲によって音色が異なって聞こえた。
終わる頃には、馬乳酒を口にしていた面々はすっかりと酔いが回っていた。同席していたアルー=サラル側の重鎮や、協議に付いてきただけのセラス宮中伯、果てはユステル皇太子は、浴びるように飲んでいたからか、すっかりへべれけの存在になっていた。呆れきったイーリスになだめられている。
ルデルは若さを名分にしたからか、表面上酔っている様子は見受けられなかったが、目元が少し緩んでいた。
(そろそろ……)
ソルアを外に誘おうか。
メリヤナは、酔っていなかった。少しずつしか酒は口にしていない。酒精は何をしでかすのかわからないのだ。この宴には、ただ来たわけではない。フィルクから教えてもらった情報を活かさない手はなさい。
メリヤナが声を出そうとしたのと、ユニルの声が重なったのは次の瞬間だった。
「——して、お前たちは何を望む?」
唐突だった。紅い眼光が、メリヤナとイーリスを選ぶように定めた。言われた意味がわからず、メリヤナも、ユステルをなだめていたイーリスも訝しむ。
ユニルの言葉が続いた。
「このオレは礼を以って礼を用い、恩を受けて恩を返し、仇には仇で応じる。妻が恩を受けたのであれば、それを返すまで」
ユニルが酒杯を仰ぐ。隣にいるソルアは、訳知り顔で美しく微笑んでいた。
「いや、わたしは——」
「——それは、どのようなことを望めるのですか?」
イーリスが答えようとするのを制し、メリヤナは尋ねた。
ユニルの眉がくいっと上がる。
「どのようなこと?」
「どこまで望むことができるのですか?」
メリヤナは言い直す。横でルデルが思案を浮かべていた。
イーリスは呆気に取られた顔をし、酩酊したユステルは興味深そうに顔を上げる。
「オレは巡察使。オレができることなら、なんでも叶えよう」
言い様に含まれるものがあった。ユニルの表情は変わらない。だが、その双眼には、興がるような光が含まれていた。
「では——」
とメリヤナが言いかけて、イーリスが止めた。
「待て、メリヤナ。わたしはこの宴だけでも十分だ。そもそも、何かを返してもらうために、ソルアを助けたわけじゃない」
イーリスに視線を集まる。ユニルの眉が再びくいっと上がった。不快と表現をしているようだった。
イーリスの心情はわかる。この縁を利用するに越したことはない、と言っていたが、それは望みを叶えてもらうことを意味するのではない、と言いたいのだろう。良好な関係性を結べただけで十分だと。
メリヤナの本心もまたそれに近い。ただの好意で、話を聞き、軟膏を渡しただけだ。それに恩を返してもらうのは、いささか仰々しい。通常であれば、茶菓子程度。返してもらう、というのは、エストヴァンやフリーダの感覚からすると、身が縮こまってしまうのだ。
(けれど……)
メリヤナは、皇太子妃の発言を諌めるように口を開いた。
「イーリスさま、申し上げます。その発言は、ユニルさまやソルアさまに大変失礼です」
「なぜ、失礼なんだ。ほんとのことだろう」
「以前、ソルアさまが、サラルでは自分でやったことを誇張はしないが、堂々と伝えるものだとおっしゃっていたのを覚えていますか? つまり、謙遜はしないということです」
「あ、いや、覚えている……だが、なあ」
「ユニルさまは恩を恩で返す信条をおっしゃっいました。ならば、その流儀にわたくしたちは乗らねばなりません」
メリヤナが言い終えると、イーリスは、むむう、と紅唇をつぐんだ。
メリヤナは、今一度ユニルとソルアに向き直った。そこには満足げな顔が並んでいる。
「では、わたくしから良いでしょうか?」
「言ってみろ」
メリヤナは息を吸って、凛と声を響かせる。
「——わたくしは、ユニルさまと殿下方の〈縁〉を望みます」
サラル側のざわめきが天幕を揺らしたようだった。酔っていた重鎮たちも、目を覚ましたように、発言先のメリヤナを見る。
ユニルは表情を変えなかった。
「おい、娘! この場で政に口を出すとはわかって言っておるのか!」
憤然と立ち上がったのは、重鎮のひとりだった。憤懣やる方ないといった赤い顔は、酒精が入っているせいもあるだろう。
メリヤナたちの後ろで、エッセンたち近衛が緊迫を覚えている。
一方でメリヤナは床几に腰かけたまま、あえて悠然と言った。
「わたくしは望みを申したまで。何も、政は関係ございません。この縁ある関係をつなぎたかった、それだけにございます」
「何を言うか! そうやって清廉なる身で穢れて、男を——」
「——黙れ」
恐ろしいほど傲岸な命令が、その重鎮に下った。虎狼と思わせる眼光に貫かれたように、発言をした重鎮は、ひっ、と声を上げる。
「興が削がれる。お前たちはこの場を辞せ」
ユニルの発言に、巻き添えを喰らった重鎮たちが固まった。数瞬してから一人、また一人と布団から立ち上がる。最後のひとりが、恐怖した重鎮を引致するかのように連れて行った。
やれやれ、とユニルは嘆息する。
「頭の堅い親父どもだ」
場には、ユニルとソルア、それからふたりの侍従と侍衛のみが残った。
「それにしても、肝が据わっている娘だ。歴戦を、いや、致死の場でもくぐり抜けてきたのか?」
ユニルは肘かけにもたれながら尋ねる。メリヤナはその紅い目に、どきりとした。炎がよみがえって、左肩の印がじりりと傷んだ。
心中の動揺を悟られぬよう、つとめて演技かかっていらえた。
「……さあ、どうでしょうか。神がおわすれば、そういうこともあるでしょう」
「残念ながら、オレは信心深い。そういうこともあるであろう、と考える身でな」
しばらくユニルの瞳と交錯した。
言いようのない間が合ってから、不意にユニルの視線が途切れた。
「まあ良い。——して、オレとの〈縁〉を望むか」
当初の目的を思い出したのだろう。ユニルは再び尋ねた。
メリヤナは首肯する。
「ソルアさまは、わたくしたちとの関係に縁を感じてくださいました。わたくしも同じでございます。それを、つまらないやり取りで、無下にはしたくないのです。そうは思いませんか、ソルアさま」
話が振られたソルアは一瞬きょとんとして、それから、ふふふ、と楽しそうに美声を奏でた。
「そうですね。妾もそれは望みません。殿方というのは血気盛んな暴れ馬のようなものですから、鞍を置かずに乗りこなし鬣を引くのはいささか無理があるもの。やはり手綱がなくてはなりませんもの」
メリヤナも合わせるように、くすくすと笑う。
呆れたような顔のユニルは、
「ルゥアも望むか?」
と確認する。
「ええ。この上ない提案かと」
「……そうか」
ユニルは、ソルアの返事を聞いて喜色を浮かべる。
それから、メリヤナを見据えた。
「今一度問う。お前は、〈縁〉の意味をわかっておろう。そのうえで、オレと、王太子と皇太子との〈縁〉を望むか」
「……はい。それが、わたくしの望みです」
今度は睨み合いのような間だった。
そうしてユニルは、この上なく愉快そうに笑い声をあげた。
「良かろう。この巡察使ユニルが、〈馬と草原の神〉に誓ってお前の望みを叶えよう」
「〈馬と草原の神〉の風に感謝を申し上げます」
メリヤナは立ち上がると、サラル式の最上礼をした。
満足そうにユニルが受ける。
それからすぐに、唸るように悩み続けていたイーリスに視線を定めた。
「それで、お前は何を望む?」
「……考えていたが、あまりぴんと来るものがない」
「ほう? 一度閃いたような顔をしていたではないか」
ユニルはあのような騒ぎがあったなかで、この場全体を視野に入れていたらしい。
恐ろしい、やはり敵にはしていけない男だ、とメリヤナは思う。
「その……話しても良いと言うなら、それがわたしの一番の望みと言えば、望みだな」
メリヤナがそう考える一方で、イーリスはのんびりと言う。
「ならば、話してみるがいい」
ユニルもまた鷹揚に構える。
数秒、イーリスは言いあぐねていた。それから、意を決したように背筋を伸ばしたかと思うと、紅唇を開いた。
「わたしと、ユニル殿、せっかくなので、ユステルやルデルアン王太子をまじえて、馬上槍試合を行わせて欲しい!」
真っ赤な顔でイーリスが言い、ユニルは一瞬呆気に取られた。
だが、次の瞬間、今日一番の愉快な話を聞いたと言わんばかりに、天幕の先の草地にも響き渡るような哄笑をしたのだった。




