59話:外交局のイアン・タルノー
イアン・タルノーは、平民出身だった。実家はよくある平民の大家族だったから、イアンは家族を養うために早く働きに出なければいけなかった。学よりも労力、それが平民の常識だった。
そんなイアンが、国の外交局などという学がなければ入れないような場所で勤めるようになったのは、放蕩していた叔父の影響が大きい。
父は働きもせず、ふらふらと放蕩していた赤ら顔の叔父に対して、軽蔑したような眼差しを向けていたが、イアンはこの叔父が好きだった。いや、叔父から聞く世界の話が好きだった。
「いいか、世界は広いんだぞ」
叔父はよく酔っ払いながらそう言った。子ども心に、酒臭いのはたまらなかった。
「最近だとな。馬を鞍も使わずに操る部族なんてもんがいる。そんでやつらは、西方から珍しいもんを持ってくるのさ。こんな国にはない、すげえ色の器とか、石とか、布も。食いもんも、うまいもんがいっぱいある。泥臭い魚なんぞ、目じゃねえぞ」
コモナのことだろうか。イアンは好きだったが、王都出身者であっても嫌いな人はいる。
そんな感じで常に顔を赤くしていた叔父だが、色々な場所を旅してきたからか、語学には長けていた。たまにまともな時に、少しずつ言葉を教えてもらった。特に、叔父は遊牧騎馬の国アルー=サラルのことを気に入っていたから、サラル語は骨牌などを通して遊びの中で自然と学んでいった。
父は夢見がちな叔父を嫌っていた。夢を見るなら働け。食い扶持を稼げ。大銀貨二枚を稼げ。それが父の口癖だった。
けれど、イアンは、叔父の世界の話を聞けば聞くほど、父の話は、なんて視野の狭い考えだろうと思わずにはいられなかった。もちろん、金がなければ食べていけない。食べていかなければ生きていけないが、果たしてそれだけでいいのだろうか。稼いで食べて寝て生きる。そんな人生が楽しいのだろうか。
イアンには楽しそうに思えなかった。
だから、イアンは少しずつ学をつけた。世界を見て、叔父みたいに見識を広げてみたかった。そして、イアンは頭が悪くなかった。東王都の小学で進学のための推薦をもらえるほど頭が良かった。ぽんぽんと推薦をもらい進学するイアンに、はじめは働けと言っていた父も黙るようになり(推薦をもらうと学費がかからなかったというのが一番大きいかもしれないが)、ついに官吏の登用試験に受かると、拍手喝采だった。何せ、月に大金貨一枚分を稼ぐのだ。文句は言わせない。
イアンは頭も良かったが、人当たりも良かった。なんならちょっと顔も良くて、東王都ではよくもてた。女の子とちょっと遊んだとしても家族を養うのには十分な給料が残った。
ちょっと調子に乗っていたかもしれない。ふつうの平民が味わえないような順風満帆の生活を送ることができて、調子に乗りすぎていたのだ。
イアンより一年あとに入府してきたのが、フィルク・ローマンだった。
貴族のなかでも位家の出身。養子とはいえ、恵まれた環境のなかで育ってきた人間だ。そのうえ、イアンより頭も良く、入府して数ヶ月で次席副局長になった。おまけに、容姿や声まで恵まれていて、六府の女子のなかでは「いい男が入ってきた」と話題だった。
正直に言えば、イアンは面白くなかった。自分と歳が近いというのも良くなかった。なんとなく癪にさわる、そんな感じだったが、イアンと唯一ちがったのは、このフィルク・ローマンは人当たりがすこぶる悪いということだった。
何か声をかけても、基本的に一言しか返ってこない。「ああ」とか「わかった」とか、不要な会話は一切しません、という雰囲気丸出しだった。貴族のなかでも薄い金髪——白金色の髪に青紫の瞳で容姿がいいだけに、宝飾品のようにうっかりさわれないものがあった。
とはいえ、人当たりが悪いというのは損だ。
「——タルノー君、これ、ローマン君に伝えておいてもらえないかね……?」
副局長からそう言われた時、イアンは優越感のようなものを覚えていた。上からも恐れられてやがる、と。期限ぎりぎりに言って困らせてやろう、とも。君も一緒によろしくね、と言付けられたことをうっかり忘れるくらい、この時イアンは気分の良さに浸っていた。
数日後、局内でマブロン局長がいかに自分の娘がかわいいのかひとしきり語ったのち、思い出したように尋ねた。
「——そういえば、今度来る海南諸島の商業使節団をうちとして接待する件だが、計画案の作成ってできたか? このあと財政府に決済を取りにいくんだが」
局内にいる全員がイアンを含め、はてな、という顔をしたが、マブロンはその場にいるイアンを見ていた。
「タルノー、副局長から聞いてないか? お前とローマンに計画案作るよう指示出しといたぞ」
この日、副局長は休みだった。さあっ、とイアンの顔が青褪めた。たしかに、数日前に、おずおずと副局長に言われたのだった。ローマン君にも伝えておいてほしいという言葉と共に。
どうしよう、という焦りの言葉と、そもそも副局長が、という言い訳の言葉が自分のなかで煩悶していた。できていません、忘れていたのはおれです、という言葉がどうしても出てこなかった。
「——いつまでですか?」
むかつくほどいい声が聞こえてきたのはその時だ。
いつの間に室内にいたのだろう。イアンは気付かなかった。
「いつまでって今日までだな」
マブロンが、ローマンに返す。ローマンもまた質問を変えた。
「財政府に持っていくのはいつですか?」
「午後だな」
「わかりました。今からやります」
「今からやりますってお前、指示聞いてなかったのか?」
「すみません、半日でできると思って、すっかり忘れていました」
「はあ? タルノーは?」
マブロンが、おいおいまじかよ、という顔でローマンを凝視する。
「……私がやっておく、と言ったので、彼は悪くないですよ」
ちらっと冷たい瞳がイアンを一瞥して、心の臓が凍った。
とにかく午後までに片付けます、と一言を残すと、ローマンはそこから午後まで数時間個室に籠もって出てこなかった。そして午後の鐘がなる頃に、本当に計画案を作り終えてしまったのだから、マブロンは度肝を抜かれていた。
昼の休憩時間、六府をつなぐ渡り廊下を歩いている背中に、イアンは声をかけた。
「なんで、おれをかばったんだ?」
ローマンが振り返る。心底冷えた目をしていた。
「別に。かばったつもりはないよ」
「かばっただろ。おれがお前に伝えなかった」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだ……ってあえて伝えなかったんだぞ」
「ふーん、それで君、自分がやるのも忘れていたってわけ?」
「……そうだよ」
なるほどね、とローマンは言う。
「それはご愁傷さま」
「お前、いちいち切り返しがむかつくな……。なのに、なんでかばったんだよ?」
「言ったじゃないか。かばったつもりはないって」
おかしなことを言うな、とローマンは続ける。
「全員がそろっている場で、聞いていない、と言ったところで余計な勘繰りが働いて、全員、業務に集中できなくなるだろう。流れに支障が出る。悪い影響しかない」
そういうことだから、と言い終えると、背中は消えていった。
くやしさと自己嫌悪が残った。
だが不思議と、ローマンへのなんとも言えない癪に障る感じは消えていた。こいつ、悪いやつじゃないかもしれない、と。
それから、イアンはローマンとちょこちょこ関わるようになった。
段々と関わっていくうちにわかってくることがあった。単に頭がいいだけじゃない。明敏、加えて秀才。ローマンの頭の良さは、たしかな知識と思考力によって支えられているものだとわかる。
暇さえあれば本を読んでるやつ。そういう部類だった。そもそも読んできた数や持っている語彙や知識量がちがうのだ。同年代だからと対抗意識を燃やすほうが、あほらしかった。もちろん、そもそも恵まれた環境にいて、文化資本が充実しているというのは自分にないものだったが、家族との関係があまり良くないことを察すると、本しかなかったからああいう性格になったのか、と憐れな気持ちにさえなった。
頭はいいが、損な性格で、無駄な会話はしないが、最低限のことは話す。それがわかってきたことだった。
稀に、雑談にも混じってくる時があった。
印象深いのは、女の子への贈り物の話をしていた時だろう。最近彼女ができたばかりのやつが何を贈るのか悩んでいたら、「好きな子のことなんだから、話を聞いて、見ていたらわかるでしょ」と突然割り込んで来たのだ。あの時は、イアンだけでなく、話をしていた全員が度肝を抜かれた。
いなくなったあとにざわついた。
あいつに好きなやついるのかよ、と。
そのうち、それが誰だかわかってしまった。
やっぱり昼の休憩時だった。公館から少し出ると、イアンには縁遠い舞踏会場がある。舞踏会場から王宮庭園につながっているのだが、そこでローマンがひとりの少女と話していた。
見たことがない顔をしていた。笑っているのだ、ローマンが。もはや気持ち悪いくらいに。ふたりでずっと話している。あのローマンが。
少女のほうは、おそらく洗礼式を終えた頃合いくらいだったが、成人を迎えれば、大層な美人になるのではないかと思った。秋の陽に黄金に輝く、ゆるやかな髪。空色の瞳がどこまでも澄んでいるようで、笑顔に映えた。
彼女を、ローマンが優しげに見守っていたのだ。察するものがある。
後日、その人物はどうやら王太子の婚約者らしい、ということを知った。うわあ、と声が出そうになった。厄介な懸想をしているな、と。
だから、ローマンが今回の使節団から外された本当の理由に、イアンは思い至ってしまった。
副局長に経験をさせたい、というのは嘘である。気が弱い貴族の坊々で、その身分だけで副局長の座についたようなやつだ。何を経験させても意味がない。
(王太子の気に障るようなことをしたんだろうな)
ローマンならありうる、と思ってしまった。
そんな状況で、出立直前、ローマンがイアンに頼み事をしてきたのは意外でありつつも、少し予想できたことだった。
二年が経ち、イアンとローマンはそれなりに喋ったり交流したりする仲だった。歳が近かったこと、それからローマンが身分についてはあまり気にしないタチだったのが大きい。
「——市国に着いて、メリヤナが困っていそうだったら、これを渡して欲しい」
手紙を渡された。
「困っていそうって、殿下には渡さなくていいん?」
「殿下には君たちが付いてるだろ。彼女には頼れる相手がいない」
その殿下が姫君の頼れる相手だろうが、とイアンは思ったが、口にしなかった。
「おれ、下っ端で付いて行くだけだから、公女さまが困っているかどうかなんてわかんないぞ?」
「君は空気読めるだろ。その能力で、どうにか彼女のことを察しろ」
無茶言うな、とこの時、イアンは返したものの、実際にドール公女が殿下と話したあと俯き加減になっているのを目撃してしまった。
殿下は声をかけてから前を向いていたから気づいていなかったが、ドール公女は悄然としているようだった。困っている、というのはまたちがうが、友人からの手紙は元気づけられるにちがいないと思って、イアンは預かった手紙を使うことにした。
問題は、天地ほどもちがう身分の女性にどう声をかけるかだったが、機会を見計らうために手紙を持ち歩いていたことが功を奏した。翌早朝、侍女と出歩いているドール公女に偶然、出くわしたのである。
「——公女さま」
振り向いた姫君は、金色の髪が朝陽に当たって、様になっていた。絵画のようだと思った。
「あの、突然すみません! 失礼に当たったら、お詫び申し上げます!」
「いえ、たしかあなたは、タルノーさま……?」
「はい。あ、えーっと、実はおれ、ローマンとまあそこそこ付き合いがあって、仲がいいといえばいいかもしれないんですが……」
と話している途中で、ドール公女がまじまじと自分のことを見てきた。穴が空けられそうな勢いだった。
それから、ふっ、と扁桃の花が開いたかのように笑った。
「……良かった! 彼には、あなたのようなお友だちがいるのですね。少し安心しました」
ころころと鈴が鳴るように笑うものだから、一瞬イアンは見惚れてしまった。慌てて、ローマンの恐ろしい視線を思い出して、首を振るように用件を伝える。
「で、えと、そのローマンから、公女さま宛に手紙をあずかってきているので、お渡ししたくて」
「手紙?」
「はい」
と、イアンは懐から手紙を差し出す。
受け取った時の姫君の表情を、イアンはどう表現すればいいのかわからなかった。
大切そうに、受け取るのだ。それから、この上なくうれしいという気持ちをありありと出すのではなく、目元をゆるめて表す。そうして、また抱きしめるように両手で包んでいた。
「——ありがとう、ございます……」
言葉から何かが滲み出てくるようだった。
うわあ、とまた声が出そうになった。だが、イアンはもちろん何も言わない。
その場を辞して、身を翻す。
(もしかして、姫君のほうも——)
厄介なことになってるな、とイアンは思った。王太子殿下の顔をこれから見ることができないかもしれない、とも。
とはいえ、イアンは人当たりが良く、それなりに頭がいい。
世渡りの術はもちろん心得ていた。




