5話:ルデルアンの好き嫌い
フィルクはとても博識で聡明な少年だった。
歳を聞けば、メリヤナよりもふたつしか変わらないというのに、一度人生をやり直した経験があるメリヤナでさえ、知らないことをよく知っていた。
たとえば、遊牧国家アルー=サラルのことだ。
「メリヤナは、外国語は習ってる?」
フィルクは櫂を漕ぎながら、そう尋ねた。
「うん。沖諸島語と、それからトゥーミラ自治語よ」
沖諸島語もトゥーミラ語も高位貴族の教養だった。メリヤナはすでに一度目の生で習得していたが、理解を深めようと基礎からやり直している。
「できれば、サラル語も学んでおいたほうがいいよ」
フィルクがさらりと言うので、メリヤナは首をかしげた。
「どうして?」
「アルー=サラルは知ってる?」
「もちろん、知っているわ」
北西の隊商都市群よりさらに西から新興してきている国だ。遊牧民族から成る国と聞いている。国とは領地があって初めて成立するものと教わったが、遊牧を営んでいるのに、それが国家として成り立つのがなぜなのか、メリヤナは不思議だった。
「僕は、アルー=サラルはそのうち、こちらに侵攻してくるんじゃないかと思ってる」
「えっ!」
「うわっ」
驚いて立ち上がると、小舟がぐわんと大きく傾いだ。驚いたフィルクが慌てて船体を落ち着かせる。喫水線が湖面ぎりぎりでなくなると、ふたりでほっとして息をついた。
「……びっくりした」
フィルクがつぶやく。
「ごめんなさい」
「まあいいや」
気を取り直したように、櫂を握り直したフィルクは、ゆっくりゆっくりと岸辺へ向けて小舟を動かしていく。
「その、それで、アルー=サラルが侵攻してくるって、どういうこと?」
「うーん、あまりこの国には情報は伝わってこないけどね。エストヴァンのほうには、けっこうあの国の噂や情報が、隊商都市を通して色々と伝わってくるんだ」
フィルクは視線を上のほうに向けながら、思い出すように語った。
「たとえば?」
「アルー=サラルの頂点には大帝がいて、まだ若い頑健な男で、軍事面だけでなく、法整備でも有能らしい。僕もまだ詳しくは知らないけど、遊牧という手法を取りながら国家として成立させるための法があるとか。そもそも、騎馬があるから機動力は周辺諸国のなかでも随一。だから、そのうち、接触してくるんじゃないかと仮説を立ててる」
へえ、とメリヤナは思わず感心してしまった。
アルー=サラルのことは知っていたが、そんなことまで知らなかった。新興の巨大遊牧国家ということしか、教師たちには教わらなかった。
「でも、どうして、そこでわたしがサラル語を学ぶことにつながるの?」
サラル語を学ぶ必要性が、メリヤナにはぴんと来なかった。
「君は、このままいくと、王太子妃になるだろう? そうなると、外交の矢面に立たされることになる可能性があるから。知っておくとのちのち役に立つだろうなって」
聞かされた答えは、なるほどと理解できることだった。
「そっか、たしかにそうね。勉強してみようかな? ——フィルクは学んでいるの?」
「……うん。一応、教養でね。王太子殿下も学んでいるんじゃないかな?」
妙な間があったが、すぐに軽やかな返事があった。
「殿下にもお聞きしてみるわ。けど、わたしはフィルクが薦めてくれたから勉強するのよ!」
「……え?」
「だって、友達が言ってくれたことだし。あなたが言ってくれたことは、とても説得力があるもの。お父さまとお母さまに頼んで、すぐに教師を探してもらうわね」
意気込んでそう言うと、ぽかんとしたフィルクが目に入った。
「どうかしたの?」
「……なんでもないよ」
フィルクは何かを隠すようにして俯いてから、すぐに愛嬌のある笑みを浮かべて、櫂を強く漕いだ。
(ほんとかわいいなあ)
年上とは思えない。神の御使いのような微笑みである。
小舟が桟橋に辿り着くと、フィルクは慣れた仕草で舫い綱を橋の一部にくくりつけた。
「行こう」
舟から橋に乗り移る時に手を貸してもらうと、強い力を感じた。こうしてもらえると、男の子であるという実感が湧く。けれど、間近に迫ったフィルクの顔を拝見してしまうと、メリヤナは、
(やっぱりかわいい)
と感じ入るのだった。
*
王宮から見える王都フリーダが、一番この世で美しい景色だろう。王都は、湖が低い山稜に囲まれて形成されている。〈緑の湖畔〉と称されるように、畔には、貴族の屋敷を連ね、中心部には街が連なっていた。王宮はその中心にあり、天然の要塞だった。
王都は、王国で唯一とも言える山稜を抱き、四季の色合いを見せ、一年を通して気候が穏やかで花々が舞っている。 以前からメリヤナはこの景色を心から愛していた。
「このあいだは、ゆっくり話すことができなくて失礼したわ」
王妃は葡萄酒を口に含んでから、そう言った。
メリヤナは、いいえ、と断ってから硝子杯に注がれた葡萄果汁を同じように、一口飲む。ルデルもまた果汁を口にした。
「あなたたちふたりのことは言わずと知れたことだったけれど、ああして発表をしたことで、これからは婚約関係にあるふたりとして、見られることになるわ。くれぐれも振る舞いには注意されてね」
「はい」
「心得ております、母上」
返事を聞くと、満足したように王妃は朗らかに微笑んだ。
「さあ、お食事を楽しみましょうか」
王妃から、私的な昼食の場に誘われたのはつい数日前のできごとだった。何事か、もしかして園遊会での失態が何かの拍子に耳に入ったのかと気もそぞろで——もちろん、フィルクがもらしたなんて疑っていないけれど——、王宮に上がると、そこにはルデルも呼ばれていた。
ただゆっくりと話したかったからというのが理由だったらしいが、その実はメリヤナとルデルの今後の行動について、釘を刺したかったらしい。王妃としての当然の務めを行ったということだろう。
「——コモナの塩漬けの葡萄酒蒸しでございます」
給仕係がそう告げて持ってきた皿には、〈緑の湖畔〉の名産であるコモナが用意されていた。
メリヤナは、これがとても好きだった。
コモナは湖に生息する淡水魚で、そのままでは泥臭くとても食べられたものではないと聞いたことがあるが、内臓を取り去り、なかに香草と塩を入れて寝かせると、風味の利いた良い魚になるのだ。
王都の名物として、平民から、王族まで愛されているのがコモナ料理だった。
メリヤナも好きで、数日に一回は口にしている。それを葡萄酒蒸しにしたというのだから、たまらないに決まっている。
一口の大きさに切って、そっと口に運ぶ。おそるおそる噛むと、葡萄の芳香と香草の味が、口の中を瞬く間に広がって、白身に凝縮された旨味が舌をふるわした。
(幸せ……)
うっとりと噛みしめていると、目の前にはその皿をじっと見つめるルデルの姿が映った。
「殿下?」
皿に羽虫でも入っているのだろうか。少し身を乗り出して覗いてみるが、もちろん王太子に出される皿に羽虫など入っていようがない。
きょとんとしていると、横から王妃の声が割った。
「この子は、コモナが嫌いなのよ」
「えっ!」
言われて、メリヤナはまじまじとルデルを見つめる。
「……コモナは臭いんだ」
ぶすっとした表情で答えるルデルに、メリヤナはそれが真実なのだとわかった。
(知らなかった……)
十数年も一緒にいたというのに、メリヤナはルデルの好みを知らなかったということになる。
自分が、好物だったからまさかそんなことを想像したことがなかった。尋ねたこともなかったし、フリーダの人間であればコモナは好きに決まっているという思い込みさえ、あったように思う。
——ずっと共にいたというのに。
自分の好意だけ押し付け、相手の好みさえ知らなかった以前の自分は、ほんとうに視野が狭かったのだ。
知ろうとしていなかったのだろう。彼が何を考え、何を好み、何に関心があるのか。自分のことを好きでいてくれるかどうかが関心事だった。
(……嫌われて当たり前だったのね)
自嘲の笑みがこぼれた。
「——ルデルアン」
メリヤナの思考を止めたのは、王妃の厳しい声だった。
「食に、好き嫌いがあるのは仕方がないでしょう。私にも、苦手とするものがあります。けれど、それを食べないという選択肢はあなたにはないわ」
なぜそのようなことを、とメリヤナが内心でおろおろしていると、王妃は続けた。
「これからあなたは、王太子として、国の顔を担うような場に出ることが増えます。他国の賓客をもてなす際には、自国の名産をふるまうことが多いわ。そうなったら、あなた、コモナは臭いからと言って自分だけ食べないつもり?」
「…………」
「そんなわけにはいかないでしょう。無論、コモナだけではないわ。異国の、口に入れたことがない名産だって、食べる機会だってある。それを食べないというのは、王太子としてありえないことなのよ」
「……わかっております」
ルデルが目に見えて、落ち込んだ様子を見せる。
「わかったら、食べなさい」
畳みかけるようにして告げた王妃が、メリヤナには非情に見えた。
(でも、王妃殿下がおっしゃることは、真実だわ)
今自分たちは11。けれど、三年が経ち、14になって互いに〈炎の洗礼〉を受ければ、子どもの時代は卒業し、成人を迎える前の大人として扱われることになる。
そうなれば、王太子としての公務は増えることになる。何度か、王太子とその婚約者として役目が回ってきたことを覚えている。そこには、外交も含まれていた。
だから、王妃の言っていることがひどいとは、メリヤナは一概に言えなかった。
(ルデルさまがどうやって嫌いなものを食べられるようになるか、考えたほうがいいのよね)
今もルデルは苦々しい顔で、コモナに突き匙を差して格闘している。
その姿を目にしながら、メリヤナは自分の記憶を遡る。過去の、けれど未来の記憶を。
不意にぱっと一場面が思い浮かんだのは、数分した頃合いだ。
「——すみません」
給仕係を呼び寄せると、メリヤナは小声で注文をした。これこれとこれこれと告げると、給仕係は心得たように食堂をあとにする。
「メリヤナ、どうしたの?」
「すぐにわかりますわ、王妃殿下」
にっこりと笑うと、メリヤナはルデルに視線を移した。嫌いなコモナを一口、口に放り込んだ——含んだとは言いがたい——ところだった。
目を瞑って咀嚼するさまは、なんとも哀れだった。
(こんな嫌そうなのに、わたしってばほんとうに盲目だったのね)
これからは、ルデルをつぶさに観察して、好き嫌いを完璧に把握しようと心に決める。
間もなくして戻ってきた給仕係は、手に硝子の器を持参していた。礼を言うと、メリヤナは提案をする。
「——殿下、もしよろしければ、こちらをおかけになってお召し上がりになったらいかがでしょう?」
「……それはなんだ?」
「かけてのお楽しみです」
メリヤナは給仕係に目顔で合図を送ると、王太子の皿に橙色の液体を少し注いでもらった。
「どうぞ、お召し上がりになってくださいませ」
訝しむルデルと、興味深そうに静観している王妃の横顔を目にしながら、メリヤナは促した。
ルデルはおそるおそる橙色の液体がかかったコモナを一口、今一度放り込んだ。ぎゅっと目を閉じるところは変わらない。しばらく、もぐもぐとすると、目を見開いた。
「……うまい」
ぽつりと、ルデルが呆然としたようにつぶやく。
「良かった……!」
メリヤナがふっと微笑めば、ルデルが慌てたように視線を下に向ける。
「そろそろ種明かしをしてちょうだい。あれは、何なの?」
様子を見ていた王妃がそう急かした。
「檸檬と甘橙の果汁ですわ、王妃殿下」
「果汁?」
「ええ、果肉と一緒に絞ってもらったものです」
メリヤナは、コモナが好きではあったが、さすがにずっと食べ続けていれば飽きがくる。以前、そのようなことを社交の場で漏らすと、ある貴婦人が、
「甘橙と檸檬の果汁をかけると、とてもさっぱりして風味がまた変わりますわよ」
と教えてくれたのだ。
早速試したメリヤナは、たしかに果汁をかけると、塩気と香草の味がまろやかになり、後味がさっぱりしたので、しばらく楽しんだことを覚えている。
そんな記憶を引っ張り出して、提案をしたのだ。
「お気に召しましたか、殿下?」
「ああ。これなら、コモナも食べられる気がする」
「それは良かったですわ」
これで、少しは名誉を挽回することができただろうか。いや、嫌われてしまう未来を回避することができただろうか。
メリヤナがそうでありますようと祈りを捧げているのを、王妃のほうはたいそう満悦した様子で見つめていた。