58話:巡察使ユニル
蜜蝋軟膏をソルアに渡してから〈神々の安息日〉を経て数日後、メリヤナとイーリスがソルアとの待ち合わせ場所に顔を見せると、ソルアは黒曜石の瞳を夜の星々のように輝かせながら、歌声を響かせた。
「これはすごいです、ヤナさん」
興奮していると言っていいかもしれない。
美人は興奮していても絵姿になる、とメリヤナは思った。
「効果がありましたか?」
「はい。ヤナさんの言うように寝る前に塗布したら、数日のうちに肌の乾燥が良くなりました。今まで試したもののなかで一番です。これは何が入っているのです?」
「細かい成分や比率は秘密なのですけども、蜜蝋と橄欖油、それからシルリという羊歯の葉の精油を入れております。シルリには、炎症を抑える効果があるのです」
「炎症ですか……?」
「乾燥する肌には、保湿と言われていて、それはもちろん必要なのですけども、同時に肌は乾燥によって炎症しているので、抑えるものを入れているのです」
感心したようにソルアが声をあげた。
イーリスは眉根を寄せて聞いていた。おそらくサラル語の難解な部分を理解しようとしていたのだろう。メリヤナが補足説明をすると、イーリスはやっと柳眉をやわらげ、それから、メリヤナたちは市場で禁断の食べ歩きをはじめた。
西方の味噌という調味料に浸した肉を、火で炙り、萵苣と一緒に麦粉焼で挟んだ簡易食を、ソルアは食べてみたかったのだという。メリヤナもイーリスも各々の城下で食べたことがあったが、味噌味というのははじめてだった。ソルアに誘われてメリヤナたちも、好奇心で買い求めた。
口に入れた時の味を、きっと二度と忘れないだろう。香ばしい肉の味が、味噌の味によってこれでもかというくらい引き出されている。ちょうど良い塩加減に、発酵した豆の旨みが、麦粉焼と萵苣の食感と合っていた。
メリヤナもイーリスもソルアも、カナンたちもあっという間に平らげて、唸ってしまった。
もうひとつ食べたい、という気持ちを持て余しながら、食後に果実飴を食べて、とにもかくにも幸せな気分に浸った。やるべきことなどどうでも良いという満足感だった。
しばらく他愛のない話をしてから、ソルアが思い出したように言った。
「ヤナさんとイーリスさんに、お礼をさせていただかないと妾の気がすみません」
メリヤナもイーリスもきょとんとする。
「イーリスさんには琴を取り返していただきましたし、ヤナさんは言葉で安心させてくださったうえに、素晴らしい軟膏をいただきました。そして、何よりも異国の地で、おいしいものを食べて、こんな時間をいただけるなんて、思ってもいませんでした。異国の友人ができるとも。——ぜひ、妾が構えている〈包〉に来てくださいな。友人をおもてなしさせてください」
「〈包〉とは……たしか移動式住居だったか?」
「はい。我らは、〈包〉と共にあります。
サラルは、居を構えず、〈包〉にあり、〈包〉と共に去ります。
〈包〉を持たぬものはサラルにあらず、居を持つものはサラルにあらず」
ソルアは、吟遊詩人が謳うように、玲瓏と言葉を紡いだ。独特のサラル語の響きが憂愁と悠久を感じさせるものだった。
「疑問だが、とはいえ、大帝がいるのだろう? 都があるのではないか?」
「それは、〈包ノ宮廷〉ですね。〈包ノ宮廷〉もまた〈包〉ですから、移動するのです」
へえ、と感心したようにイーリスが相槌を打った。
「わたしたちがご招待にあずかるのはうれしいけれど、ご夫君の意向は大丈夫なのですか?」
メリヤナが疑問を呈せば、
「——では、今から確認しに参りましょう」
ソルアが莞爾として笑った。
メリヤナたち六人は市庁舎に向かう石畳を歩いた。煉瓦色の丸屋根は市場から見ても、存在感がある。丸屋根の上にはさらに円頂塔があって、鐘楼の役目を果たしていた。
鐘が鳴る。薄暮の鐘だ。茜色の夕陽が煉瓦色の屋根を照らして、琥珀のように輝いていた。
今日の協議も終わる時間だ。ソルアが市庁舎を目指しているということは、やはり協議に参加する者のひとりなのだろう。
心の臓をどきどきとさせながら、メリヤナは歩を進めた。幾分、イーリスも緊張と期待の入り混じった表情をしていた。
メリヤナたちが市庁舎の前の広場に着くと、ちょうど大扉から人の塊が出てくるところだった。
琥珀の光が広間の噴水に反射して、きらきらと輝いている。眩しさに目をしかめたその先に、ひときわ異彩を放つ男がいた。
褐色の肌に緋色の目。頭被をまとった髪は黒い。刺青が、顎から左頬に向かって彫り込まれているのが強い印象を刻んだ。虎狼を思わせる眼光は、琥珀の輝きをものともせずに鋭く光っている。
背後に筋骨たくましい護衛を従えるこの男こそが、アルー=サラルの巡察使であることはまちがいなかった。
「——ユニル」
「ルゥアか」
その男に、ソルアが親しげに呼びかけるものだから、メリヤナとイーリスはぎょっとしてソルアを見た。
「お疲れさま。あなたにお話が。街で恩を受けたとお伝えした方々を連れてきたの。〈包〉に招待したいわ」
言われて男が、じろりとこちらを睨んだ。背筋が伸びるようだった。
「……その者たちか?」
「ええ」
男は見極めるように、メリヤナとイーリスを交互に見やった。赤い瞳が刺すようだった。
「——メリヤナ……?」
異国の集団の背後から、ルデルとユステルたちが顔を覗かせたのは次の瞬間だった。
「お、イーリス?」
間の抜けたユステルの声が、緊迫した空気を解かすように響いた。
「——ほう」
男の眉が面白いものを目にしたと言わんばかりに持ち上がった。
「この者たちは、ユステル皇太子とルデルアン王太子の知り合いか?」
サラル語の問いに、近くのタルノーが訳してふたりに伝えた。
「知り合いも何も妃だ、巡察使殿」
「婚約者です」
ユステルはエスカテ語で、ルデルアンはサラル語で答えた。
答えを聞くと、男——巡察使ユニルは大きく一笑した。
「なるほどな。縁がある、というのはそういうことか、ルゥア」
「ええ」
「そろそろ飽いていたところだ。まとめて招待するといい。酒宴が良かろう」
「ありがとう、助かるわ」
ソルアが、メリヤナたちに向き直る。
「ということです。夫の許可が出ましたので、明日の夜あなた方をサラルの宴に招待します」
にっこりと黒曜石が笑った。巡察使夫妻だけがその場で笑っていた。
*
「——巡察使の夫人と知らずに知り合った?」
ユステルの驚愕に、メリヤナもイーリスもこくりと肯く。
「たしかにサラル人の女と知り合ったと聞いていたが、まさか夫人だとはな……」
「ユニル殿も驚いていたようですね」
喫驚するユステルに、ルデルが続けた。
「あれは驚いているというよりは、楽しんでいたぞ」
「あんな様子のユニル殿は、はじめてでしたね」
「いつもつまらなそうな顔でいたからな。とは言え、イーリス、メリヤナ嬢、でかしたぞ。夫人と知り合いになって、酒宴に招待されたのであれば、協議にとって良い兆しだ」
ユステルの言葉に、イーリスは前向きに返す。
「そうだな。偶然だが、せっかくだから、この縁は利用させてもらうに越したことはない。この際、腹を割って話せれば良いな」
助けて良かった、とイーリスは締め括った。
メリヤナだけが、前向きな気持ちになれなかった。散会となったのち、用意された部屋に戻る道のりも足が重かった。
「——どうかしたか?」
無言をつらぬいていたからだろう。隣のルデルが思案するように尋ねた。
メリヤナは顔を上げる。ルデルの意図を覗く。
いつか二年前に、
『あなたも、私に心の内を打ち明けてはもらえないだろうか?』
と言われたことを思い出す。
(あの時は……言えなかった)
勇気がなくて言えなかった。けれど、今であれば、とメリヤナは思う。
迷った末、口火を切った。
「……わたくしは利用しようと思って、ソルア夫人と仲良くしようと思ったわけではありません」
青い瞳がメリヤナを見つめる。
「振る舞いや発言から、きっとアルー=サラルの高貴な方だろうとは思っていました。困ったことになれば、三国協議やルデルさまにも支障が出るだろう、と」
「……ああ」
「けれど、利用しようと思って、夫人に近付いたわけではありません。ただ、困っていたからわたくしにできることをして……、とても素敵な方だったから、仲良くなりたいと思っただけなのです」
気持ちを言葉にすると、少しだけ楽になったような気がした。
ソルアから何か情報を得たいと思っていたのはたしかだ。情報を得て何か良きに働けばいいと思っていたのも。それがたくらみでないのか、利用することにならないのか、と聞かれればメリヤナが思っていたことは嘘になるかもしれない。
けれど、ソルアを利用しようとかその縁をたくらみに使おうとか、メリヤナは一掬の考えもなかった。
ルデルが口を開く。
「メリヤナは……優しいのだな」
婚約者は微笑する。
「この立場になれば、あらゆる関係に利用するかしないかが含まれてくる。それは己が考えておらずとも、周りがそう考える。私もかつて、メリヤナのように考えたことがあったが、今では開き直っている」
廊下に、長靴の音が響く。重たい音が。
「優しくあれば、つらいだろう。私のように開き直るのもひとつだが……、メリヤナにはそのままであって欲しいと思う。立場に伴うしがらみやつらさは、——私が受け止める」
その言葉に、強い意志が載っているような気がした。立ち止まった足音が、胸の奥まで響いてくるようだった。
ああ、とメリヤナは思う。眩しかった。硝子窓を透かして、琥珀色の光を受けて輝く髪が、黄金のように眩しかった。
(この人が……、好き)
裡なる自分が言う。こういうかっこいいところが、メリヤナは好きだった。
——ただ……
今の自分が首を振る。
ちがう。わたしは優しいわけではない。
ただ、自分が昔の自分に戻ってしまったようで、いやだった。回帰する前の、自分のことしか考えていない利己的な人間に戻ってしまったようでいやだったのだ。
ルデルのことばかり考えて周りを見ていなかった自分。人のことを思いやれなかった自分。思い通りにいかなかったら周囲に当たり散らしていた自分。
そんな人間に戻ってしまっているのではないか、と不安だったのだ。
決して、きれいな言葉で片付けられるものではない。
優しいわけでは、なかった。




