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殿下、今度はあなたを好きにさせてみせます!——そう思っていた頃もたしかにありました。【本編完結済】  作者: 稿 累華
第10章:巡察使

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56話:異国の美女(2)

「——泥棒っ!」


 混雑している市場の奥から、唐突にサラル語の女性の声が響き渡った。


 メリヤナが、


「エッセン卿!」

と声をかけるのと同時に、隣のイーリスが身を(ひるがえ)した。一瞬でひらりと露天が立ち並ぶ(ほろ)のうえに身を移す。エッセンが瞬時に見極めて足を止めた。イーリスが行くのであれば、エッセンはメリヤナの側を離れるわけにはいかなかった。


「すみません!」


 メリヤナは、幌や屋根の上を進むイーリスに続くように市場の人混みを縫った。あとをカナンとエッセンが追う。イーリスは、まるで蝶のようにひらりひらりと進んでいった。あっという間に置いていかれる。


「なんていう方だ」


 エッセンがぼやいた。


 声がしたであろう方向をかき分けていく。少し先で、悲鳴のような歓声のようなどよめきが起きた。辿り着くと、人々が(まろ)かり群がっている中心にイーリスがいて、地面に男が腹を抱えて転がっていた。イーリスは左手の槍先を男に向けていて、右手で楽器のようなものを抱えている。


 間もなくして、警邏隊(けいらたい)がやって来て、男を引っ立てていった。


「こちらの持ち主はいるか?」


 イーリスが右手の楽器を掲げて群衆に尋ねた。人々が顔を見合わせるなかで、典雅(てんが)なサラル語が空間をふるわした。


「——(わたし)です」


 外套(がいとう)帆布頭巾(はんぷずきん)をかぶった女だった。頭巾の中から、真っ直ぐな黒髪が癖がつくのを恐れるように、ほろりと一束落ちる。


「ありがとう、ございます。妾の命と、同等に、大切なものです」


 音色を奏でているような歌声のような声だった。言葉は変わって、たどたどしいトゥーミラ語だったが、その音色はなんら遜色(そんしょく)のないものであった。


「……それは良かったです。無頼漢(ぶらいかん)は連れていかれましたが、とはいえ、市場ではならずものも多いです。お気を付けください」


 美しい声にイーリスも一瞬虚をつかれたようだった。気を取り戻すと、丁寧でゆっくりとしたトゥーミラ語で返した。

 そうですね、と女は肯く。瞳もまた黒曜石のような黒目で、その場にいるだけで、引き込まれるような異国の美しさだった。だが、そのかんばせは曇っている。


「——どうかしたのですか?」


 メリヤナがサラル語で尋ねると、女がぱっと顔をあげた。黒曜石の輝きが、すーっと胸の中に入り込んでくるような気持ちになった。


「実は一緒に来た侍衛とはぐれてしまったのです。この街もはじめてで、どこに行けばわからずふらふらしていました。夫も今は別の場所にいて……」


 メリヤナは、侍衛というサラル語を聞いて、女がおそらく高貴な身分であることを推測した。もしかしたら、三国協議に参加する重要人物のなかに、夫君がいるかもしれないと考える。


(何かあったら大変だわ)


 協議に支障が出るかもしれない、とメリヤナはルデルの顔を思い浮かべて、女に言った。


「それは大変でしたね。もしよろしければ、わたくしたちとご一緒しませんか? はぐれたと言うのであれば、その方もあなたのことをおさがしのことでしょう。市庁舎に行けば、何かわかるはずですし、この街で一番目立つ……えーっと、〈(ユルト)〉ではなく、建物ですから、そこを目指せばまちがいないはずです」


 メリヤナがうっかり言いまちがえると、きれいな音色がころころと笑った。


「とてもわかりやすいサラルの言葉で、ありがとうございます。そうしましたら、お言葉に甘えさせてくださいませ。——妾は、ソルア、と申します」


 ソルア。歌声のような声に、ぬばたまのような輝き、そして、なんて美しい名前だろう。〈ソォ・ルゥア〉——〈草原に吹く風〉。


 メリヤナは心から感嘆して、うっそりと応じた。


「わたくしは、メリヤナです。どうぞ、ヤナ、と。そのほうがきっと発音がしやすいはずですから」


 一瞬、リヤ、と略すのもひらめいたが、それはやめた。なんとなく、嫌だった。


「イーリスです。

 ……うーん、メリヤナ、わたしの名前は、発音しづらかったりするか?」


 イーリスがエスカテ語で確認する。メリヤナは首を振って、ソルアに確かめた。


「イーリスという名は発音しづらいですか?」


「いいえ、問題のうございます。感謝を、ヤナさん、イーリスさん」


 ソルアの美しい笑いに叫び出しそうになるのを、メリヤナは懸命に心の中で呑みこんだ。

 混雑している市場を抜けて、五人は市庁舎への道をゆっくりと歩む。並ぶメリヤナ、イーリス、ソルアの後ろに、エッセンとカナンが控えた。


「あー、たしか……その、楽器は、()()、ですか?」


 言葉を思い出しながら、イーリスがサラル語で尋ねた。ソルアは歌うように応える。


「馬頭琴にございます。サラルでは、女は物心つかないうちからこれにふれます。これは、妾が長年愛用しているものです」


 ソルアは馬頭琴を掲げてみせる。先端の(さお)の形から、そうであろうとメリヤナは推察していたが、本物をはじめて目にした。全体的に提琴(ヴァイオリン)のようだが、(つる)が提琴のそれとは違い、二本しかない。

 どうやって弾くのだろう、と不思議に思った。


「馬頭琴……メリヤナが話していた()のですね! ()()()()に馬の頭をしているのですね」


「はい。これは、妾が昔愛でていた馬を模したもので、この弦や弓も愛馬のものです」


 ソルアがもの哀しげに、馬頭琴を撫でた。命と同等、とも話していた。それらの言葉と様子で、メリヤナとイーリスは察するものがあった。思い出が詰まっている物なのだろう、と。


「ですから、さきほどは取り返していただき、ありがとうございました。本当に感謝申し上げます」


 ソルアが立ち止まってイーリスに頭を下げると、イーリスは首を振った。


「そんな……えーっと、すまない、メリヤナ、訳して欲しい。大それたことはしていない。面映いからやめて欲しいと伝えてくれ」


 メリヤナは肯いて、ソルアに向く。


「大したことはしていないし、恥ずかしいから頭を下げるのはやめて欲しい、とイーリスは言っています」


 ソルアはメリヤナの言葉を聞いて、一瞬きょとんとしてから、イーリスの表情を見て、奏でるように笑った。


「謙遜されるのですね。サラルとは大ちがいですわ。サラルでは、自分がやったことを誇張はしませんが、堂々と伝えるものです。国を挙げた自慢大会があるくらいですよ。夫が聞いたら、驚きそうです」


 イーリスは、喋るのは苦手らしいが、聞くことはできているようだった。ソルアの言葉を聞くと、謙遜したつもりはないのだが、とエスカテ語で呟いていた。


 市庁舎近くで、ソルアは侍衛の男と再会することができた。侍衛が面目たたないことをソルアに詫び、ソルアからさらなる事情を聞くと、その場で平身低頭して詫び、メリヤナたちに何度も感謝するものだから、メリヤナたちのほうが恐縮してしまい、立つように促した。


 ソルアと侍衛を見送ると、イーリスがぽつりと言った。


「はあ……今更ながら、もう少し語学をやっておけば良かったと思います。どうもわたしは、頭を使ったものは苦手で……体を使うほうが性に合っている」


「語学も、口を動かして体を使いますよ」


 メリヤナが冗談を込めて言うと、


「言うなあ」


とイーリスが笑った。

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