56話:異国の美女(2)
「——泥棒っ!」
混雑している市場の奥から、唐突にサラル語の女性の声が響き渡った。
メリヤナが、
「エッセン卿!」
と声をかけるのと同時に、隣のイーリスが身を翻した。一瞬でひらりと露天が立ち並ぶ幌のうえに身を移す。エッセンが瞬時に見極めて足を止めた。イーリスが行くのであれば、エッセンはメリヤナの側を離れるわけにはいかなかった。
「すみません!」
メリヤナは、幌や屋根の上を進むイーリスに続くように市場の人混みを縫った。あとをカナンとエッセンが追う。イーリスは、まるで蝶のようにひらりひらりと進んでいった。あっという間に置いていかれる。
「なんていう方だ」
エッセンがぼやいた。
声がしたであろう方向をかき分けていく。少し先で、悲鳴のような歓声のようなどよめきが起きた。辿り着くと、人々が円かり群がっている中心にイーリスがいて、地面に男が腹を抱えて転がっていた。イーリスは左手の槍先を男に向けていて、右手で楽器のようなものを抱えている。
間もなくして、警邏隊がやって来て、男を引っ立てていった。
「こちらの持ち主はいるか?」
イーリスが右手の楽器を掲げて群衆に尋ねた。人々が顔を見合わせるなかで、典雅なサラル語が空間をふるわした。
「——妾です」
外套に帆布頭巾をかぶった女だった。頭巾の中から、真っ直ぐな黒髪が癖がつくのを恐れるように、ほろりと一束落ちる。
「ありがとう、ございます。妾の命と、同等に、大切なものです」
音色を奏でているような歌声のような声だった。言葉は変わって、たどたどしいトゥーミラ語だったが、その音色はなんら遜色のないものであった。
「……それは良かったです。無頼漢は連れていかれましたが、とはいえ、市場ではならずものも多いです。お気を付けください」
美しい声にイーリスも一瞬虚をつかれたようだった。気を取り戻すと、丁寧でゆっくりとしたトゥーミラ語で返した。
そうですね、と女は肯く。瞳もまた黒曜石のような黒目で、その場にいるだけで、引き込まれるような異国の美しさだった。だが、そのかんばせは曇っている。
「——どうかしたのですか?」
メリヤナがサラル語で尋ねると、女がぱっと顔をあげた。黒曜石の輝きが、すーっと胸の中に入り込んでくるような気持ちになった。
「実は一緒に来た侍衛とはぐれてしまったのです。この街もはじめてで、どこに行けばわからずふらふらしていました。夫も今は別の場所にいて……」
メリヤナは、侍衛というサラル語を聞いて、女がおそらく高貴な身分であることを推測した。もしかしたら、三国協議に参加する重要人物のなかに、夫君がいるかもしれないと考える。
(何かあったら大変だわ)
協議に支障が出るかもしれない、とメリヤナはルデルの顔を思い浮かべて、女に言った。
「それは大変でしたね。もしよろしければ、わたくしたちとご一緒しませんか? はぐれたと言うのであれば、その方もあなたのことをおさがしのことでしょう。市庁舎に行けば、何かわかるはずですし、この街で一番目立つ……えーっと、〈包〉ではなく、建物ですから、そこを目指せばまちがいないはずです」
メリヤナがうっかり言いまちがえると、きれいな音色がころころと笑った。
「とてもわかりやすいサラルの言葉で、ありがとうございます。そうしましたら、お言葉に甘えさせてくださいませ。——妾は、ソルア、と申します」
ソルア。歌声のような声に、ぬばたまのような輝き、そして、なんて美しい名前だろう。〈ソォ・ルゥア〉——〈草原に吹く風〉。
メリヤナは心から感嘆して、うっそりと応じた。
「わたくしは、メリヤナです。どうぞ、ヤナ、と。そのほうがきっと発音がしやすいはずですから」
一瞬、リヤ、と略すのもひらめいたが、それはやめた。なんとなく、嫌だった。
「イーリスです。
……うーん、メリヤナ、わたしの名前は、発音しづらかったりするか?」
イーリスがエスカテ語で確認する。メリヤナは首を振って、ソルアに確かめた。
「イーリスという名は発音しづらいですか?」
「いいえ、問題のうございます。感謝を、ヤナさん、イーリスさん」
ソルアの美しい笑いに叫び出しそうになるのを、メリヤナは懸命に心の中で呑みこんだ。
混雑している市場を抜けて、五人は市庁舎への道をゆっくりと歩む。並ぶメリヤナ、イーリス、ソルアの後ろに、エッセンとカナンが控えた。
「あー、たしか……その、楽器は、なん、ですか?」
言葉を思い出しながら、イーリスがサラル語で尋ねた。ソルアは歌うように応える。
「馬頭琴にございます。サラルでは、女は物心つかないうちからこれにふれます。これは、妾が長年愛用しているものです」
ソルアは馬頭琴を掲げてみせる。先端の棹の形から、そうであろうとメリヤナは推察していたが、本物をはじめて目にした。全体的に提琴のようだが、弦が提琴のそれとは違い、二本しかない。
どうやって弾くのだろう、と不思議に思った。
「馬頭琴……メリヤナが話していたいのですね! ほん、とに馬の頭をしているのですね」
「はい。これは、妾が昔愛でていた馬を模したもので、この弦や弓も愛馬のものです」
ソルアがもの哀しげに、馬頭琴を撫でた。命と同等、とも話していた。それらの言葉と様子で、メリヤナとイーリスは察するものがあった。思い出が詰まっている物なのだろう、と。
「ですから、さきほどは取り返していただき、ありがとうございました。本当に感謝申し上げます」
ソルアが立ち止まってイーリスに頭を下げると、イーリスは首を振った。
「そんな……えーっと、すまない、メリヤナ、訳して欲しい。大それたことはしていない。面映いからやめて欲しいと伝えてくれ」
メリヤナは肯いて、ソルアに向く。
「大したことはしていないし、恥ずかしいから頭を下げるのはやめて欲しい、とイーリスは言っています」
ソルアはメリヤナの言葉を聞いて、一瞬きょとんとしてから、イーリスの表情を見て、奏でるように笑った。
「謙遜されるのですね。サラルとは大ちがいですわ。サラルでは、自分がやったことを誇張はしませんが、堂々と伝えるものです。国を挙げた自慢大会があるくらいですよ。夫が聞いたら、驚きそうです」
イーリスは、喋るのは苦手らしいが、聞くことはできているようだった。ソルアの言葉を聞くと、謙遜したつもりはないのだが、とエスカテ語で呟いていた。
市庁舎近くで、ソルアは侍衛の男と再会することができた。侍衛が面目たたないことをソルアに詫び、ソルアからさらなる事情を聞くと、その場で平身低頭して詫び、メリヤナたちに何度も感謝するものだから、メリヤナたちのほうが恐縮してしまい、立つように促した。
ソルアと侍衛を見送ると、イーリスがぽつりと言った。
「はあ……今更ながら、もう少し語学をやっておけば良かったと思います。どうもわたしは、頭を使ったものは苦手で……体を使うほうが性に合っている」
「語学も、口を動かして体を使いますよ」
メリヤナが冗談を込めて言うと、
「言うなあ」
とイーリスが笑った。




