50話:カナンの決断
特使という大任を与ったメリヤナにとっての一番の問題は、未だに侍女が決まっていないことだった。
本来であれば、成人式と共に侍女を付けることが一般貴族での習わしだったが、選考を重ねた結果、季節が移り変わってしまった。
かつてのメリヤナには、シェーラという名の侍女が付いていた。彼女は母スリヤナの選任によるものだったが、メリヤナは選考するに当たって、今生も応募してきた彼女を最終選考前に落とした。
シェーラは等位貴族の娘で、それなりの教養と立ち居振る舞いを持ち合わせて、その点については申し分がなかった。だが、主人の機嫌を取るために口さがなく戯言を囁くことがあった。以前のメリヤナは、その言葉に真偽もたしかめず惑わされ、サレーネをはじめとするルデルにまとわりつく女子たちを貶めていった。
考え直せば、それが公位家の威光を傘に着た讒言であったのは、あきらかなのに。
(もしくは……)
メリヤナがたしなめる道理を持ち合わせていれば、シェーラもそうならなかったのかもしれない。
そう考えると、選考から落としてしまった彼女に悪かったが、かつての生をなぞるような交流関係を持つことは、できれば避けて通りたかった。
(どこかで会えるといいけれど)
そうしたら、シェーラのために何かできるかもしれない。自分の保身のために切り捨ててしまった彼女に、今のメリヤナにはこっそりと心の底から詫びるしか方法を持たなかった。
そうして、決まらない侍女代行として白羽の矢が立ったのは、カナンだった。
「とんでもございませんっ! 無理ですよっ!」
カナンは、スリヤナとメリヤナによって呼び出されて、侍女代行の務めを告げられると、両手を広げて慌てたように拒否した。
「あら、なぜかしら?」
スリヤナがきょとんと首をかしげる。
あれほどカナンを侍女にすることに進まぬ顔をしていた母だったが、メリヤナが外国で長いあいだ、信頼できない者を傍に置くことができない状態となれば、話がちがうらしい。あっさりとカナンを推薦した。
「わ、わたくしは、外国語など一切わかりませんし、社交ができません。お嬢さまに付いて他国に行くなど、滅相もございません」
「まあ、それなら大丈夫よ」
スリヤナは朗らかに言う。
「今回は社交が主ではないわ。むしろ、侍女は黙って静かに付いて回ることのほうが求められる。あなたはいつも通り過ごしてもらえれば、問題がないのよ」
「ですが、奥さま……」
「それに、王宮からも別途侍女が付くというから、あなただけで務めをこなすことではないわ。むしろ、王宮の侍女の仕事は見ていて勉強になることも多いでしょう」
「…………」
「何より、わたくしがあなたに求めるのは、メリヤナの話し相手としての役目よ。侍女代行というのはおまけだと思って欲しいの。……引き受けてくれないかしら?」
冷や汗を浮かべたカナンは、黙ってしまった。沈黙が流れて膠着するなか、メリヤナは口を開いた。
「カナン、わたしからもお願いできない?」
「……お嬢さま」
「あなたに無理なことはお願いしないわ。ただ、傍に付き添ってくれるだけで、わたしは安心できるから……。少しでもほっとできる人が傍にいてほしいの」
特使となれば、常に近衛が付くことになり、見張られることになるだろう。そんななかで気楽に接することができる人がいれば、安心できる気がした。
主人から、じっと懇願されるように見られたカナンは、思案げに目を右往左往させたあと、
「……一晩考えさせてください」
そう言って、腰を折った。
カナンはその夜、地下の休憩室でひっそりと蝋燭の灯火を見つめていた。卓上に揺れる蝋燭は一本で、薄ぼんやりと辺りを照らしている。
「まだ寝ていなかったの?」
「寝不足は、お肌の敵よ」
それぞれ燭台を持って現れたのは、オリガとリリアだった。ふたりとも髪を下ろして就寝の準備ができている。
「……そうね。そろそろ寝ないと」
「悩み事?」
「あたしたちで良ければ、子守唄代わりに聞くわよ」
溜息をついたカナンに、そう言ってくれるふたりの存在がありがたかった。思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、少し聞いてもらおうかな」
肯いたオリガとリリアに、カナンは昼間スリヤナとメリヤナに乞われたことを伝えた。リリアは、聞き終えてすぐに反応を示した。
「それは受けるべき! あたしだったら、絶対に受ける!」
卓上の蝋燭を押し倒す勢いのリリアに対し、オリガはあくまでも落ち着いていた。
「いい話じゃない。逆に、カナンは何に迷っているの?」
カナン自身も、自分が何に悩んでいるのか判然としていなかった。強いて言えば、これ以上先に進んだら普通の生活に戻れなくなるのではないか、という未知の不安だった。
カナンが、ドール公位家で女中をはじめたのは、家族に楽をさせたかったからだ。もちろん、平民の一般家庭がなべてそうであるように、行儀見習いも兼ねていた。
カナンの実家は大家族だ。父母で麦粉焼屋を営んで、やっと弟妹たちを養っている状態で、カナンは14で洗礼を受けてすぐに住み込みで女中をはじめた。幸いに幼少期から家の手伝いをしていたカナンは、その機転の良さを買われて、メリヤナ付きの私室女中となった。
そこからこうして仲間ができ、メリヤナに慕われるようになって、約五年。楽しく充実した日々だったので忘れていたが、カナンはすでに20歳だった。平民のなかでは嫁き遅れに近い年頃だ。近頃、実家の父母からは、そろそろどこかに嫁いで落ち着かないかという便りが来ていた。もう仕送りは十分だから、いい人を紹介する、と。
ここが引き際なのではないか、とカナンは思っていた。メリヤナのおかげで行儀見習いの経験は十分に得ることができた。仕送りで一番大変な時期の弟妹たちの面倒も見ることができた。夢のような生活を送ることができたのだから、そろそろ安定したあたたかい家族を持つことを考えても良いように思えた。
——けれど。
メリヤナの笑顔を思い出してしまうと、どうしても踏ん切りがつかなかった。
昼間、彼女から付いてきてくれないか、とお願いをされたことを思い出す。そうすると、ぼんやりと浮かべていたあたたかな家族像が霧散してしまうのだ。
訥々と、そんなことをリリアとオリガに話すと、ふたりは顔を見合わせてから笑った。
「なあんだ、ちゃんと心は決まってるじゃない」
「まとまっていなかっただけで、自分のなかで答えははっきりしてるようね」
「……どういうこと?」
なぜか、自分のことなのに、ふたりのほうが自信を持ってわかっているようだった。
「ようは、お嬢さまに付いていきたいんでしょ?」
リリアがびしっと指を突き出して言い切った。
「だけど、実家のことを考えるとちょっと気が引けるって感じね」
オリガがそう言葉を継いだ。
「……結婚もしなきゃっていうのは、ちゃんと考えてるわ」
断言されてしまうと抵抗したくなるものらしい。苦し紛れに言うと、リリアは呆れたような顔をした。
「あんたってほんと真面目よねえ」
「うるさい」
カナンは思わず悪態をついた。
「だったら、今回お嬢さまに付いていっているあいだに、自分で考えて決着をつけちゃいなさいよ」
「決着?」
「ここに残るか、実家から薦められた相手と結婚するか。移動時間も滞在時間もたっぷりあるんだから、考える暇なんてたくさんあるでしょ」
ねえ? とリリアがオリガに同意を求める。
「私もそう思う。せっかくだから、その機会にすればいいのよ。そうすれば、お嬢さまにとってもカナンにとってもいいじゃない」
「そうそう。それに、ほうら、今回はサンデルも随行するみたいだし。なんなら、いい人を紹介してもらわなくても、ねえ?」
にやり、とリリアが人の悪そうな笑みを浮かべた。
「リリアっ!」
カナンが顔を真っ赤にすると、オリガがカナンの肩に手を置いた。
「良きように考えなさい。うじうじしていると、いい考えは思いついたりしないの」
そうかも、しれない。
気づかないうちに気負っていたのだろう。
うんうん、と横で肯くリリアを睨みつけて、カナンは肩からほっと力を抜いた。
「そうね」
カナンは自分の心が定まったことをゆっくりと感じた。三本の燭台が、三人の顔を明るく照らした。
「ありがとう。——お嬢さまに付いて行ってみる」




