47話:王太子補佐官の鬱屈
王太子宮を抜け、長い透廊を渡ると、本宮に出る。本宮の廻廊を巡り、右へと曲がると、左手のほうが六府の公館へとつながる透廊につながっていた。さらに真っ直ぐに進めば、今度は左に舞踏会場が見え、奥には王妃の管理する庭園、そこを抜ければ西王都に出る西門が構えていた。
小さな行列のようだ、とメリヤナは廻廊を進みながら思う。
ルデルの後ろには侍従が二人、侍女が二人、近衛が二人付き従う。成人して、一人ずつ増えた結果だった。
自分にはまだ侍女が付いていないから身軽に感じるが、ルデルはうっとうしくないのだろうかと見上げれば、ちょうど彼もまたメリヤナを見下ろすところだった。
「メリヤナは、侍女は付けぬのか?」
同じようなことを考えていたらしい。
「まだ選考中なのです。来月には決まるかと」
「そうか。婚約者が侍女を付けずに出歩くのは心配になる」
「痛み入ります。今後は送っていただくようなことがないようにいたしますわ」
「いや、これは、そういうことではなく……」
ルデルが慌てたように言葉を継ごうとして、そのままもごもごとして押し黙ってしまった。メリヤナが疑問を浮かべていると、公館へと続く渡り廊下に差しかかった。
なんとやく目をやって、不意に視界に入った背中に足が止まる。ルデルも止まったメリヤナに気が付いて、歩を止めた。
「どうしたのだ?」
「あの……」
メリヤナがためらっていると、廊下のほうから声が届いた。
「——前々から聞きたかったんだ。なぜ、君は補佐室を希望しなかった?」
クルスの声だった。その声がいつもとちがって詰問じみているのは、きっとメリヤナの気のせいではない。
あまり見てはいけない場面を目にしてしまったようで、メリヤナは進む足を再開させようとする。対する声に再び地面に足が縫い付けられた。
「——それを君に答える道理が僕にはあるのか?」
フィルクだった。透明な声が、水晶のように冷たく尖っていてメリヤナは驚く。
「あるから聞いてる。登用試験では、俺よりもローマン、君のほうが優れた成績だったと聞く。まちがいなく補佐室配属だと噂にもなっていた。なのに、なぜ」
「つまり君は、僕が補佐室を希望しなかったのが不満だと言いたいわけか? 僕が希望していれば、殿下付きの補佐官は僕になっていたとでも?」
「成績から考えるとそうなるだろう。おかげで、俺は……」
くやしそうに拳を握るクルスの背が見えた。
「——ばかばかしいね。繰り上がりだとても言われたのか。そんなこと僕には関係のない話だ」
「なんだと……っ?」
「——なんの騒ぎだ?」
クルスがフィルクに掴みかかった瞬間、隣にいたルデルが低い声で問いかけた。後ろを振り返って驚愕するクルスの顔と、その後ろから飾紐を淡々と直すフィルクの姿が半分目に入る。
透廊のほうに歩みを進めたルデルに付いて、メリヤナもあとを追うと、フィルクの姿がきちんと捉えられた。フィルクのほうでもメリヤナを視認したようで、すると途端に愕然としたように目が見開かれた。
「殿下……」
クルスはあからさまに狼狽した様子で、さきほど執務室で見せた明るく心安い空気はまったく見られなかった。
「クルス、さきほど言っていた噂とやらは、ほんとうか?」
ルデルが再び尋ねると、クルスはばつが悪そうに押し黙る。フィルクもまた口を噤んだ。
このふたりは、これほど仲が悪かったのだろうか。
このあいだ屋敷に招いた時はそんな様子を微塵も感じられなかったというのに。
(そもそも)
ふたりのあいだに、会話は見られなかった。クルスは、フィルクの義兄ケイウスや、ルース辺境伯公子エイヨンと親しげに話していたが、フィルクは茶会のあいだ口数が少なかった。
社交嫌いであるのはもとより知っていた。けれど、それよりもメリヤナが気にかかったのはさきほどの冷淡な口ぶりだ。思わず、ぞくりとするような声。メリヤナは、あんなフィルクを見たことがなかった。
「黙っているようでは、わからぬが?」
「殿下、大変なお耳汚しを……」
クルスが冷や汗を浮かべて、言い訳をするように低頭する。そこに、快活で優秀な青年は見て取れなかった。
フィルクが黙って床を睨むように佇んでいると、ルデルは対象を滑らせた。
「ローマン公子、貴公が答えてくれてもかまわない」
「恐れながら王太子殿下、何も答えることはございません。噂というのも、私自身が耳にしたことがないものですから」
まるで挑むような口調で、フィルクは答えた。
ルデルが眉をひそめる。
「なるほど、わかった。だが、公子、その物言いはいささか人を不快にさせるが?」
「これは失礼いたしました。以後、口を慎みますゆえお許しを」
慇懃無礼とも言えるフィルクの態度にメリヤナは蒼白になった。ルデルもまた憮然とした様子で口を閉じたので、沈黙が痛い。
「——クルスさま」
堪えられずに、メリヤナが口を開いた。呼ばれたクルスがおそるおそる顔を上げる。
「わたくしもどのような噂なのか存じ上げませんが、補佐官とは並大抵の方がなれるものではないと聞き及んでおります」
「…………」
「無論、官吏の登用試験という一面でも優れている必要があるかとは思います。けれど、あくまで一面にすぎません。最終的には殿下が候補になる方とお会いになって選んでいるのです。ならば、クルスさま、意味はお分かりですね?」
はっとしたように、クルスが表情を変えた。まじまじとメリヤナと、それからルデルを見る。
「誰が何を言おうと、あなたはきちんと殿下に選ばれたのです。それを、誇りに思われても良いのではありませんか?」
「メリヤナさま……」
「メリヤナの言う通りだ。私はきちんと評定して、お前を選んでいる。——今後の仕事ぶりにも期待している」
ルデルがそう言えば、クルスが今にも涙しそうな勢いで頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
微笑みを浮かべるルデルを横目に確認して、メリヤナはほっと息をついた。
これでこの主従は大丈夫だ。
(残りは……)
メリヤナは視線をすべらせて、冷めた目のフィルクに焦点を当ててから、ルデルを振り仰いだ。
「ルデルさま、」
「なんだ?」
答えるルデルの目尻がやわらかい。どきどきしそうになる心の臓を諌めながら、メリヤナは言った。
「せっかくのご好意ですが、お見送りはここまででけっこうですわ」
「なぜ……?」
「あとはこちらにいるローマン公子にお願いしようかと思います」
答えれば、ルデルの目元は一転して厳しくなった。
「私では不服なのか?」
「そうではございません。殿下のお時間を取ってしまうことに申しわけなさもありますが、友人として、ローマン公子には申さねばならないことがありますから」
メリヤナが言うと、今度はフィルクのほうが訝しげにメリヤナを見た。
「きちんと礼節をわきまえるよう伝えますわ」
「……わかった」
渋々と絞り出した声で、ルデルが肯いた。
メリヤナは目礼をすると、フィルクに向き直る。
「では、ローマン公子。わたくしを西門まで送り届けていただけますか?」
「……承知しました」
メリヤナは今一度ルデルに体を向けて、一揖する。それから、フィルクを連れたって透廊をあとにした。




