38話:マイラが知るメリヤナ
マイラーラ・ハルヴィスは、自分ながら模範的な令嬢だと思っている。
サール公位家の公女として、恥じない挙措を心がけている自負があったし、周囲の令息令嬢からも一目置かれていることを自覚していた。出歩く時は常に“公”を意識して、自らの振る舞いや言動を客観視することを怠らないようにしていた。
だが、そんなマイラーラにもつい数年前まで悩みがあった。
頬に浮かぶそばかすだ。父母や祖母からは愛嬌があってかわいらしいと言われていたけれど、マイラーラにとっては悩みの種だった。
社交界に顔見せを行う前、祖母や母に付いて様々な茶会に顔を出して同年代の子女たちと交流を持つと、
「マイラーラさまは本当に所作がお美しいですね」
「教養もあって、わたくし、尊敬いたしますわ」
そんな声を多数もらうことがあったが、その実、マイラーラがいないところで、
「あのそばかす女」
とやっかみを込めて陰口を叩かれることは、ままあった。
容貌の美しさだけが取り柄ではないと教えられてきたし、マイラーラもそう思っていたけれど、度々容姿のことをなじられると、気持ちが沈んでしまうものだった。美容の教師に相談をし、あれやこれやと試してみたものの、なんの成果も得られず溜息をつかずにはいられなかった。
ひそかな悩みは家の者以外に開示していなかったが、ある時マイラーラはついその悩みを口にしてしまったことがあった。二年前のことだ。
メリヤナ・グレスヴィー。ドール公位家の一人娘にして、従兄弟である王太子ルデルアンの婚約者。
その時、洗礼を受けた彼女は、祖母アリエスの元に修業のため訪れていた。
14で洗礼を受けた貴族の子女は、成人する16までのあいだに、王宮や高名な講師の元で紳士淑女教育を受ける。マイラーラの祖母アリエスは、その高名な講師のひとりで、毎年屋敷に子女を迎え入れていた。
メリヤナも、祖母から神話や歴史などを深く学びにやって来ていたのだった。
彼女と言葉を交わしたのはたしか小休憩の時だったように思う。額の生え際あたりを気にしている様子だった彼女に、マイラーラのほうから声をかけたのだ。
「どうかされましたか?」
まさか仕草を見られていたとは思っていなかったらしい。尋ねられたメリヤナは空色の瞳を丸くしてから、苦笑した。
「みっともないところをごめんなさい。ここ数日、少し吹き出物が気になりまして……」
マイラーラは得心する。14くらいになると急に肌が敏感になるものだ。体の成長に伴って、少し脂っこいものを取ったり、就寝時間が遅くなったりすると、どうしても吹き出物になってしまう。
「それは気になりますね」
「ええ。潰すとあとになるって聞きますし」
困ったな、とつぶやくメリヤナに、マイラーラは自分が知っていることを喋らずにはいられなかった。
「寝る前に、湿らせてあたためた布で患部を少し蒸らすと良いかと思います。そのあとに、イランの根を煮出した湯で少し拭ってやると、治りが早いですよ」
「そうなのですか?」
「はい、ぜひ今夜からお試しになってくださいな」
マイラーラがそう告げると、メリヤナは喜色を浮かべて手を合わせた。
「ありがとうございます。必ずやってみます!」
笑顔のメリヤナは明るく、春の陽に輝いているようだった。
魅力的な人だな、と思う。いつの頃からかそう感じるようになった。
以前は、感情的すぎていささか公位家の令嬢として眉をひそめるものがあった。公の場で、婚約者である王太子に抱きつくこともあれば、辺り憚らず「大好き」と連呼するようなこともあった。それがいつしかなくなり、代わりに大人びた品位を見せるようになった。婚約者同士で親しい空気は出すが、距離を保ちながら付き合っている様子で、時折、従兄弟のほうが名残り惜しそうにしているように見受けられた。
他方で今回のように、喜びなどの感情は華やかに表現するところが、好感を持てる理由だった。
「マイラーラさまは、お肌の手入れにお詳しいのですか?」
邪気なくそう聞かれてしまえば、マイラーラは答えるしかない。
「ほんの少しです。……その、恥ずかしながらそばかすを消したくて」
いらえると、メリヤナはきょとんとした様子だった。
「大丈夫だと思いますわ。きっとあと一、二年したら消えますから」
「え?」
「なんとなく、そう思います。マイラーラさまはそばかすがあってもなくても、とても綺麗な方ですから、消えたら貴公子たちが押しかけますね」
自信があるようにメリヤナはそう言った。
この時、根拠もなく不思議なことを言うものだとマイラーラは思ったが、現に17にならないうちに、あれほどはっきりとしていた斑点は薄くなってしまった。
以来、マイラーラとメリヤナの交流は次第に親しいものとなり、いつしか敬語は消え、メリヤナはマイラと略称を用いて話すような関係になっていった。
「お嬢さま、ドール公位家のお屋敷に到着いたしました」
「ありがとう。またのちほどお願いします」
御者に礼を告げると、マイラは馬車から足を下ろした。
その親しい友人に、マイラは今日苦言を呈さなければいけない。いやな役目だなと思いつつ、友人であり、同列の位家の人間でなければ言えないことだから、致し方ない。
マイラは扉の前で小さく溜息をついてから、メリヤナの屋敷の扉をくぐった。応接間でしばらく待っていると、上から慌てたような音が鳴り響く。早足の音が上から下へと降りてくると、ややもせずにメリヤナが現れた。
「——待たせてごめんなさい」
「いえ、来たばかりよ。そんなに待っていないわ」
お茶を淹れるわね、とメリヤナ自らが茶器を手に取る。ドール家では、女主人が茶を手ずから淹れるのが習わしなのだという。マイラもすでにスリヤナ夫人から何度か歓待を受けていたが、娘のメリヤナにもそれは引き継がれている。
「今日は忙しかった?」
マイラが茶を口にしてから尋ねれば、メリヤナは、少し、と答えた。
「来週の成人式で着る衣装の最後の直しをね」
「メリヤナもいよいよ社交界顔見せね」
「そうね。早いものだわ。つい最近、洗礼を受けたばかりなのに」
「神託を受けた〈運命の乙女〉の顔見世だから、殿下の成人も合わさってきっとみんな期待しているでしょう」
「もう。やめてよ」
メリヤナがあまり嬉しくなさそうに言った。
神託のことは彼女にとって重荷であるのは、洗礼式後に一月ほど倒れてしまったという噂から慮ることができる。
配慮にかけた自身の発言にマイラは侘びた。
「ごめんなさい、気分を害したわね」
「大丈夫よ、ありがとう」
メリヤナは優美な笑顔でそう言った。
この二年で彼女は、ますます魅力的な人物となった。ゆるやかな巻き毛に空の青の瞳は清楚な華やかさを漂わせ、佇まいは内面の知性と教養の深さを窺わせる。祖母アリエスもメリヤナの神話や歴史に対する知識と解釈には太鼓判を押していた。語学では、沖諸島語やトゥーミラ語だけに限らず、難しいとされるサラル語も堪能だというのだから、聞いた時はびっくりしたものだ。
この数年で、アルー=サラルはきな臭い噂を耳にする。サラル語が話せる婚約者がいるだけで、従兄弟殿下も安心だろう。
「ねえ、マイラ。相談なのだけど、その成人式で身につける胸飾りは何色がいいと思う?」
「悩んでいるの?」
「そうなの! 紺色か水色で悩んでいて……」
「衣装はどんな感じなの? それから他の装飾品は?」
細々とした内容を聞き出すと、マイラは即座に判断した。
「水色一択ね」
「どうして?」
「成人を祝福する舞踏会なのだから、明るい色のほうがいいのはまちがいないのだけど、衣装や装飾品とも兼ね合わせがあるから。けれど、聞いてみたら水色で大丈夫そうだわ」
なるほどね、メリヤナは相槌を打った。
「良かった。マイラがそういうのなら安心できるわ。フィルも、水色がいいって言っていたし」
嬉しそうに顔をほころばせるメリヤナに、マイラは乗っかるようにして来訪の話題を切り出した。
「メリヤナ、そのローマン公子のことであなたに話があるの」
「フィル……えっと、フィルクのことで?」
「ええ」
まさかそんな話が持ち出されるとは思っていなかったらしい。メリヤナが首をかしげる。
「——率直に言うわ。もうあなたも成人するのだし、ローマン公子とのお付き合いはなるべくやめたほうがいいと思うの」
え、とメリヤナは驚いたように言葉を詰まらせる。
「これからは、王太子殿下の婚約者として、あなたの振る舞いは見られる。なのに、あまりにも親しい異性の友人がいると、後ろ指を差されることになる。あなたたちが随分と前から仲がいいのは知っているけれど、社交界の噂になる前に、今後お付き合いはほどほどにしたほうがいいと思う」
言い切ってしまうと胸のつかえが取れたようで、少しほっとした。
実はすでに少し噂になっていることは伏せておく。余計な不安を煽っても仕方がない。
「……ほどほどって、どれくらい?」
「せいぜい、月に一度くらい。できれば、数ヶ月に一度がいいかもしれない」
「えっ」
彼女とローマン公子がおよそ週に一回の頻度で会っていることは、もちろん理解している。そのうえで、マイラはそう言った。
「……考えてみるわ。フィルクにも相談をしないと……」
どんよりとした様子のメリヤナに、マイラは申しわけないと思いつつ、さらに付け加える。
「それから、エオラさまに気を付けたほうがいいわ」
「エオラさま……?」
誰だろうとメリヤナが思い巡らせているので、マイラはすぐに答えた。
「ファルナ伯令嬢。長女のエオラさまは現在、伯位を継承してくれる結婚相手探し真っ只中」
「ファルナ公女……」
「どうやら、エオラさまはローマン公子をお慕いしているそうなのよ」
伝聞調で伝えたが、ほんとうのことだった。
レッセル辺境侯をいただくローマン家の兄弟のうち、次男のフィルクが養子なのは有名な話だった。しかし、その不利な立場があっても、秀麗な容姿や官吏としての評判の高さから、令嬢たちからは人気を博していた。特に、ファルナ公女エオラが、洗礼より前からローマン公子を慕っているというのは、そこはかとない噂だった。
それが事実だとマイラが知ったのは、エオラに呼び出されて嫌な目に遭ったという別の令嬢から相談を受けたからだ。社交の場でローマン公子と一曲踊っただけで嫌がらせを受けたのだという。
その令嬢も少し話を盛るところがあるから真に受けてはいないが、一部事実であることは他の令嬢からの話から推測することができた。
ローマン公子と特別親しくしているメリヤナが社交界に顔見せをすれば、エオラに標的にされるのは当然起きうることだ。
メリヤナにそう説明すれば、彼女は神妙に肯いた。
「……わかったわ。その件は、わたしにも責任があるから、気を付ける」
責任とはなんのことだろうか。
マイラは疑問符を浮かべたが、メリヤナはそれ以上何も言わなかった。
しばらくメリヤナとの午後の時間を楽しむと、マイラは帰途についた。




