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殿下、今度はあなたを好きにさせてみせます!——そう思っていた頃もたしかにありました。【本編完結済】  作者: 稿 累華
第6章:炎の洗礼

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36話:フィルクの問い

 黎明の光が窓布(カーテン)の隙間を縫って差す頃、おのずと(まぶた)が持ち上がった。薄明かりは白く、窓布を持ち上げてみれば、〈緑の湖畔〉は白んでいて見えなかった。厚い霧が窓の外に満ちている。


 メリヤナは、ぼうっとその景色をしばらく眺め、思い至ったように、寝台から足を下ろして居室を出た。

 屋敷のなかは、地下の物音が漏れ聞こえてくる以外、静かだった。階段を降り、玄関間の扉の施錠を外しても、誰にも見咎められずにすんだ。そのままするりと外に出ると、メリヤナは屋敷の前に広がる林に分け入る。


 寒いとか、冷たいという感覚が、次第に感じられるようになってきたが、どこか他人事(ひとごと)だった。

 このまま凍え死んでもいいかもしれない。ふとそう思った。


(もう、疲れた……)


 擦り切れてしまっていた。これまで、この二年間、がむしゃらに走り続けていた力は、あの洗礼の日を境に燃え尽きてしまった。


 メリヤナは、思い出してしまったのだ。


 処刑された日のことを。悲しみに満ち、一瞬にしてたとえようのない絶望を覚えた日のできごとを。

 なぜ、あの感情を忘れることができていたのだろう。


 記憶として残っていたし、覚えていた。けれど、焼けつくあの痛み。苦しみ。呻吟(しんぎん)し、喘鳴(ぜいめい)するほどの痛苦を、どうして忘れることができていたのだろうか。


 ——否。思い出しても良かった。


 あの処刑の日の真相さえ知らなければ、メリヤナはたとえ思い出しても、身と心を奮い立たせて前に進むことができていただろう。陰謀の真実さえ知らなければ、なんでも良かった。


 ぴんっ、と張っていた機の糸が切れてしまった。

 この二年、なんの(しるべ)も示してくれなかったというのに、〈運命の乙女〉という神託のみを下した神や、その神との契約などどうでも良かった。


 メリヤナはただ消えてしまいたかった。王国の運命を背負わされた二年、一人で抱え続けていた二年で、気付かないうちに降り積もるように疲れてしまった。


 ——けれど。


(無駄……ではなかった……)


 ルデルの言葉。



『あなたも、私に心の内を打ち明けてはもらえないだろうか?』



 メリヤナのことを労ってくれた。心の底からの言葉だった。


『愚かな……』


 かつての生で最後まで忌まわしく思われていたことに比べたら、十分だった。大好きな人が、わざわざ人目を忍んでまで自分の元を訪れてくれたのだ。なんて嬉しいことだろう。ありがたいことだろう。

 少なくとも、今までメリヤナがやって来たことはまちがっていなかった。


 ——それだけで、もう満足だった。


 はあっ、はあっ、と息が漏れる。露と霧で寝衣はしっとりと濡れ、体が足元から冷えてきた。ぶるっ、と震えが起こる。


(もう……、十分)


 ルデルの言葉に救われた。

 だが、メリヤナの患う悩みと苦しみを吐露するわけにはいかなかった。言ったところで、信じてもらえるはずなどないのだから。


 〝悪い夢を見たのだ〟


 〝婚約者としての心労が祟ったのだ〟


 そう言って、優しくメリヤナを否定するのだろう。今のメリヤナには、それはあまりにも残酷だ。

 信じてもらえない可能性がある以上、打ち明けるという危険を犯す気には、どうしてもなれなかった。

 残酷に否定されてこれ以上傷つくのであれば、メリヤナは今の苦しみを持ったまま、ひっそりと霧の彼方にとけてしまいたかった。


 身の中心から、寒さが血の流れに乗ってきた。裸足の足は土と湿気で黒くなり、寝衣の裾は露でぐっしょりとしていた。足首や膝がおそろしく冷えている。鼻には水が溜まり、進む足が鉛のようだった。急勾配を登る一歩一歩が、じんっと骨身(ほねみ)にしみた。


 ずるっ、と足が滑ったのは疲労を感じてすぐのことだった。受け身を取って、木々のあいだに体が倒れると、草木の雫が顔にかかった。胴回りの寝衣に冷たい感覚が押し寄せる。

 間もなくして体にどろりとした眠気が訪れた。目の前が次第に暗くなっていく。


(これでいい)


 左肩の刻印は寒さで感じられなかった。神との契約は果たせないが、無念ではなかった。メリヤナに必要なのは安息だった。神との誓いは守れなくても、冥界の安らぎが得られるのであれば、後悔することはなかった。


(さようなら)


 瞼の裏に、残してしまう友人の顔がおぼろに浮かぶ。それだけが、一抹の悔いだった。






 遠い場所で、自分を呼ぶ声がした。寒さがぬくもりに変わり、ぬくもりと共に震動と鼓動が伝わる。心地好さに包まれていると、次第に体の奥から激しい熱が生じて、どっと汗が滲んだ。そうしていると、今度は冷たい手が癒やしてくれる。代わる代わる足音や話し声が夢うつつに流れ込んできて、メリヤナがうっすらと視界を開くと、よく見知った天井があらわになった。


(生きて、る……?)


 なんで、と疑問がもたげるより前に、飛び込む姿があった。


「メリヤナ!」


 母だった。ぎゅっと抱きしめる匂いが、何よりも母スリヤナだった。


「良かった……! 目が覚めたのね……!」


 何がどうなっているのか言葉を発そうとして、額にふれたのは父の手だった。


「三日眠っていたんだぞ」


 ファッセルは、汗で張り付いた髪を梳いてくれる。内心でうろたえていると、今度は、ばたばた、という足音を響かせて、三人の女中が部屋の入口に顔を見せた。


「お嬢さま……っ」


 カナンとリリア、オリガが、メリヤナの姿を見て感極まったように声を上げ、涙をうるませた。良かったという声が続けられる。

 次第に屋敷中の人間が、自分の部屋を訪れて、ほっとしたように息をついていった。最後に母だけが、寝台の横に残った。



「——ローマン公子が見つけてくれたのよ」



 メリヤナの頭を撫でながら、スリヤナはそう言った。


「林のなかで倒れていたあなたを見つけて、急斜面を背負って屋敷まで運んでくれたのよ。見つけるのが遅くなっていたら、危なかったって医者が言っていたわ」


「…………」


「あなたがどうして、部屋からいなくなったかは聞かないわ。でも、ローマン公子にはきちんとお礼を言うのよ。今日の夜、いらっしゃるそうだから」


 言い終えると、母はあたたかな笑みを浮かべて出て行った。


 横たわったメリヤナは、夜までの時間を窓の外を眺めて過ごした。陽が山の端に沈み、やがて空が茜色から群青色へと移り変わった。星々がまたたき、叢雲(むらくも)に包まれた上弦の月が東王都の街明かりを裾にして輝いていた。


 間もなくして、こんっこんっ、という控えめな音と共に、フィルクが姿を現した。



「——リヤ」



 寝台の横にかけて、優しげな声がメリヤナを呼ぶ。


「目が覚めたっていう報せを聞いたよ。熱も少し下がったようで良かった」


 冷たい手が、額にふれられる。夢のなかでふれてきた手だった。

 フィルクは、他愛のないことを喋った。社交界に顔見せしたこと、文官として王宮で働くことになったこと、最近職務や本を通して学んだことなど、反応がないメリヤナに対して、驚くほどいつも通りだった。


 だから、痺れを切らして、口火を切ったのはメリヤナのほうだった。


「——なんで」


 唇が震えた。震えるのと当時に、感情が溢れた。


「なんで、助けたのっ?」


 ぐっと噛み締めながら、フィルクの瞳を覗き込むと、驚いたように目を見開いた。


「どうして、わたしなんかを助けたのよ!」


 拳を握り締める。見つめれば、フィルクは穏やかに答えた。


「助けるに決まってるよ」

「なんで——」

「君は大切な友人だ。助けるのが当たり前だ」

「わたしは死にたかったのよっ!」


 叫べば、奥底でごぽっと泡が浮かんだ。浮かんだ泡は雫となって、メリヤナの目から零れ落ちる。


「どうして、死なせてくれなかったの……」


 あのまま、死んでしまいたかったのに。 

 俯けば、掛布にぼたぼたと涙が落ちた。


「——逆に、質問をさせて欲しい」


 落ち着きを通りすぎた冷静な声が言った。



「リヤは、どうして死にたかったの?」

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