36話:フィルクの問い
黎明の光が窓布の隙間を縫って差す頃、おのずと瞼が持ち上がった。薄明かりは白く、窓布を持ち上げてみれば、〈緑の湖畔〉は白んでいて見えなかった。厚い霧が窓の外に満ちている。
メリヤナは、ぼうっとその景色をしばらく眺め、思い至ったように、寝台から足を下ろして居室を出た。
屋敷のなかは、地下の物音が漏れ聞こえてくる以外、静かだった。階段を降り、玄関間の扉の施錠を外しても、誰にも見咎められずにすんだ。そのままするりと外に出ると、メリヤナは屋敷の前に広がる林に分け入る。
寒いとか、冷たいという感覚が、次第に感じられるようになってきたが、どこか他人事だった。
このまま凍え死んでもいいかもしれない。ふとそう思った。
(もう、疲れた……)
擦り切れてしまっていた。これまで、この二年間、がむしゃらに走り続けていた力は、あの洗礼の日を境に燃え尽きてしまった。
メリヤナは、思い出してしまったのだ。
処刑された日のことを。悲しみに満ち、一瞬にしてたとえようのない絶望を覚えた日のできごとを。
なぜ、あの感情を忘れることができていたのだろう。
記憶として残っていたし、覚えていた。けれど、焼けつくあの痛み。苦しみ。呻吟し、喘鳴するほどの痛苦を、どうして忘れることができていたのだろうか。
——否。思い出しても良かった。
あの処刑の日の真相さえ知らなければ、メリヤナはたとえ思い出しても、身と心を奮い立たせて前に進むことができていただろう。陰謀の真実さえ知らなければ、なんでも良かった。
ぴんっ、と張っていた機の糸が切れてしまった。
この二年、なんの標も示してくれなかったというのに、〈運命の乙女〉という神託のみを下した神や、その神との契約などどうでも良かった。
メリヤナはただ消えてしまいたかった。王国の運命を背負わされた二年、一人で抱え続けていた二年で、気付かないうちに降り積もるように疲れてしまった。
——けれど。
(無駄……ではなかった……)
ルデルの言葉。
『あなたも、私に心の内を打ち明けてはもらえないだろうか?』
メリヤナのことを労ってくれた。心の底からの言葉だった。
『愚かな……』
かつての生で最後まで忌まわしく思われていたことに比べたら、十分だった。大好きな人が、わざわざ人目を忍んでまで自分の元を訪れてくれたのだ。なんて嬉しいことだろう。ありがたいことだろう。
少なくとも、今までメリヤナがやって来たことはまちがっていなかった。
——それだけで、もう満足だった。
はあっ、はあっ、と息が漏れる。露と霧で寝衣はしっとりと濡れ、体が足元から冷えてきた。ぶるっ、と震えが起こる。
(もう……、十分)
ルデルの言葉に救われた。
だが、メリヤナの患う悩みと苦しみを吐露するわけにはいかなかった。言ったところで、信じてもらえるはずなどないのだから。
〝悪い夢を見たのだ〟
〝婚約者としての心労が祟ったのだ〟
そう言って、優しくメリヤナを否定するのだろう。今のメリヤナには、それはあまりにも残酷だ。
信じてもらえない可能性がある以上、打ち明けるという危険を犯す気には、どうしてもなれなかった。
残酷に否定されてこれ以上傷つくのであれば、メリヤナは今の苦しみを持ったまま、ひっそりと霧の彼方にとけてしまいたかった。
身の中心から、寒さが血の流れに乗ってきた。裸足の足は土と湿気で黒くなり、寝衣の裾は露でぐっしょりとしていた。足首や膝がおそろしく冷えている。鼻には水が溜まり、進む足が鉛のようだった。急勾配を登る一歩一歩が、じんっと骨身にしみた。
ずるっ、と足が滑ったのは疲労を感じてすぐのことだった。受け身を取って、木々のあいだに体が倒れると、草木の雫が顔にかかった。胴回りの寝衣に冷たい感覚が押し寄せる。
間もなくして体にどろりとした眠気が訪れた。目の前が次第に暗くなっていく。
(これでいい)
左肩の刻印は寒さで感じられなかった。神との契約は果たせないが、無念ではなかった。メリヤナに必要なのは安息だった。神との誓いは守れなくても、冥界の安らぎが得られるのであれば、後悔することはなかった。
(さようなら)
瞼の裏に、残してしまう友人の顔がおぼろに浮かぶ。それだけが、一抹の悔いだった。
遠い場所で、自分を呼ぶ声がした。寒さがぬくもりに変わり、ぬくもりと共に震動と鼓動が伝わる。心地好さに包まれていると、次第に体の奥から激しい熱が生じて、どっと汗が滲んだ。そうしていると、今度は冷たい手が癒やしてくれる。代わる代わる足音や話し声が夢うつつに流れ込んできて、メリヤナがうっすらと視界を開くと、よく見知った天井があらわになった。
(生きて、る……?)
なんで、と疑問がもたげるより前に、飛び込む姿があった。
「メリヤナ!」
母だった。ぎゅっと抱きしめる匂いが、何よりも母スリヤナだった。
「良かった……! 目が覚めたのね……!」
何がどうなっているのか言葉を発そうとして、額にふれたのは父の手だった。
「三日眠っていたんだぞ」
ファッセルは、汗で張り付いた髪を梳いてくれる。内心でうろたえていると、今度は、ばたばた、という足音を響かせて、三人の女中が部屋の入口に顔を見せた。
「お嬢さま……っ」
カナンとリリア、オリガが、メリヤナの姿を見て感極まったように声を上げ、涙をうるませた。良かったという声が続けられる。
次第に屋敷中の人間が、自分の部屋を訪れて、ほっとしたように息をついていった。最後に母だけが、寝台の横に残った。
「——ローマン公子が見つけてくれたのよ」
メリヤナの頭を撫でながら、スリヤナはそう言った。
「林のなかで倒れていたあなたを見つけて、急斜面を背負って屋敷まで運んでくれたのよ。見つけるのが遅くなっていたら、危なかったって医者が言っていたわ」
「…………」
「あなたがどうして、部屋からいなくなったかは聞かないわ。でも、ローマン公子にはきちんとお礼を言うのよ。今日の夜、いらっしゃるそうだから」
言い終えると、母はあたたかな笑みを浮かべて出て行った。
横たわったメリヤナは、夜までの時間を窓の外を眺めて過ごした。陽が山の端に沈み、やがて空が茜色から群青色へと移り変わった。星々がまたたき、叢雲に包まれた上弦の月が東王都の街明かりを裾にして輝いていた。
間もなくして、こんっこんっ、という控えめな音と共に、フィルクが姿を現した。
「——リヤ」
寝台の横にかけて、優しげな声がメリヤナを呼ぶ。
「目が覚めたっていう報せを聞いたよ。熱も少し下がったようで良かった」
冷たい手が、額にふれられる。夢のなかでふれてきた手だった。
フィルクは、他愛のないことを喋った。社交界に顔見せしたこと、文官として王宮で働くことになったこと、最近職務や本を通して学んだことなど、反応がないメリヤナに対して、驚くほどいつも通りだった。
だから、痺れを切らして、口火を切ったのはメリヤナのほうだった。
「——なんで」
唇が震えた。震えるのと当時に、感情が溢れた。
「なんで、助けたのっ?」
ぐっと噛み締めながら、フィルクの瞳を覗き込むと、驚いたように目を見開いた。
「どうして、わたしなんかを助けたのよ!」
拳を握り締める。見つめれば、フィルクは穏やかに答えた。
「助けるに決まってるよ」
「なんで——」
「君は大切な友人だ。助けるのが当たり前だ」
「わたしは死にたかったのよっ!」
叫べば、奥底でごぽっと泡が浮かんだ。浮かんだ泡は雫となって、メリヤナの目から零れ落ちる。
「どうして、死なせてくれなかったの……」
あのまま、死んでしまいたかったのに。
俯けば、掛布にぼたぼたと涙が落ちた。
「——逆に、質問をさせて欲しい」
落ち着きを通りすぎた冷静な声が言った。
「リヤは、どうして死にたかったの?」




