35話:茫漠
眠りから覚めると、世界が灰色に塗りつぶされていた。色鮮やかなのに、感じるのは無味乾燥とした砂礫のようだった。貝殻と珊瑚が途方もない時間のなかですり潰された一面の砂浜に立っている——それが、メリヤナの認識した世界だった。
洗礼式から二週間。
それだけの時間が経ったのだ、と一番早くに心配してメリヤナの部屋を訪れたのは父母だった。
父ファッセルは、一足も部屋から出ないのは体に悪いことを告げ、お父さまがどこか郊外に連れて行ってあげよう、よほど緊張したんだね、と労る言葉を投げかけてきた。
母スリヤナは、お告げなんか神さまの気まぐれのようなものよ、と言った。〈運命の乙女〉なんて仰々しいわねと軽やかに笑った。
だが、メリヤナが、ええ、そうね、たしかに、と相槌しか見せないのを見て、両親共に消沈したように出て行った。
次にやって来たのは、カナン、リリア、オリガの三人の女中たちだった。自室にこもりただ窓の外を眺める主人を見かねたカナンが、スリヤナの許可を取ってリリアとオリガを招き入れた。
三人は、メリヤナの横で、かしましく喋った。
神託が下ったのは実に百年ぶりで、洗礼式直後に、王都の西から東を噂がかけ巡ったのだという。巷間では、王太子の婚約者である令嬢は絶世の美女にして才女で、これから王国には良き風が吹くだろう、と語られているという。百年前に失った領土を回復するに至るかもしれない、と隣国が聞いたら怒り狂うにちがいない憶測まで人の口に上っている、と。
リリアを中心に明るくお喋りが展開したが、メリヤナはそれにも相槌しか返さなかった。三人は最後には表情を曇らせて、部屋を辞して行った。
数日後、グレスヴィー家の屋敷を訪問した客に、屋敷は上から下まで大騒ぎになった。
訪れたのは、王太子ルデルアンだった。王太子が、公位家の屋敷を訪れるなど前代未聞の話である。王や王妃に次ぐ身分たる王太子は、たとえ用があるのが王太子であっても呼び出す側であり、訪れを待つ側だ。自らが訪問するなどとは考えられない話だった。
だから、お忍びという体で、最低限の近侍を伴い、王家の印が刻まれていない簡素な車体の馬車でやって来た。
「——突然の訪問で驚かせてすまない」
「いいえ。殿下におかれましては、我が娘のためにご足労をおかけしまして、誠に申しわけが立ちませぬ」
「婚約者が臥せっているというならば、私のほうから顔を見せて当然のことだ」
邪魔する、と言って屋敷の扉を跨いだルデルは、ドール公に案内されてメリヤナの部屋に入った。
洗礼式で神託を受けたメリヤナが炎に包まれたのは、ルデルの目の前で起きたことだった。火炎の勢いに驚いたのだろう。悲鳴を上げて、意識を失った彼女に慌てて駆け寄ったが、傷ひとつなくほっとしたことを覚えている。
一方で、ほぼ同時に大扉から駆け上がってきたレッセル辺境侯の次男に、ざらついた気持ちを感じたことも。
新年の夜会で顔見世が控えているはずの身なりで、なぜ、このようなところにいるのか。
違和感は、懸命にメリヤナに呼びかけている姿に感じたが、それ以前に一度、宝石商の店で出会った時に感じたことがあった。
メリヤナと親しくしているという令息は、常なる貴族の子息同様、礼儀に則ったものだった。彼女と視線を交わすさまは、見ていて和やかそのもので、良い友人がいるのだなと思ったものだ。
だが、すぐにそれは違和感に変じた。宝石商が石の説明をしているあいだ、耳を傾けているかと思えば、彼女のほうをさりげなく、けれど熱心に窺っていた。そして、ルデルが説明に気を戻していると、今度はこちらのほうを注意深く、睨むように窺ってくるのだった。
メリヤナはまるで気付いていないようだったが、ルデルには違和感と不快感になって、強く印象に残っていた。
そのうえ、先日のできごとだ。
倒れたメリヤナを強く案ずる姿は、果たして友人の姿なのだろうか。違和感はしこりとなってルデルのなかに残り、そうしてメリヤナの部屋にまで足を運ぶ原動力となった。
「メリヤナ、殿下がいらっしゃったぞ。お前の身を心配して、忍んで来てくださった」
挨拶なさい、とドール公から促された彼女の姿は、あたかも蝋人形のようで、ルデルは虚を突かれた。彼女は淑女の礼をするものの、なんの色も映していなかった。ざわっ、と肌に粟が生ずるのを感じた。
「——メリヤナ、大丈夫か? 洗礼式から姿を見せないから心配になって訪ねた」
「……はい」
「眠れているか?」
「はい」
「あれから、あまり体調が良くないと聞いている」
「……そうですね」
「……実は眠れてないのではないか」
「……ええ」
返事しかないさまに、そらぞらしいものを覚えた。
「ドール公、」
「はい、殿下」
「少しのあいだ、彼女と私のふたりだけにしてはもらえぬか?」
「それは……」
このまま多くの視線に晒された状態では、メリヤナは心を開いてくれないような気がした。
ドール公ファッセルが言葉を濁す。洗礼を終えたばかりとはいえ、未婚の娘とその婚約者をふたりだけにしてはならないと考えているのであろう。
ルデルはそう判断して口を開いた。
「私の近衛と、そちらの女中を扉の前に控えさせていただいてかまわない」
「……承知いたしました」
ドール公が頭を下げると、皆が寸暇を置かずに部屋をあとにした。メリヤナの居室には、ルデルとメリヤナのみが残された。
「神託を受けたことが重荷になっているのか?」
「…………」
返事はなかった。空色の双眸は、ここではない虚ろな場所を眺めているように見えた。そのさまにやるせなさが浮かんで、ルデルは腰かけるメリヤナの手を取った。
「あなたは言ったな。今後、互いの不安や悩みを打ち明けるのはどうか、と。私はその言葉に救われたのだ」
ルデルは己の思いを語った。
「私には、自分の弱みを見せる相手がいなかった」
「…………」
「不平をエッセンに漏らすことはあったが、だが、自分の感じる恐怖や不安を誰かに話すことはなかった。王太子として、それは感じてはならぬものだったし、見せてはならぬものだったからだ」
王太子とは、王族とは、感情を見せてはならないものだと教師たちから教わってきた。王族の〈高貴なる責務〉として、常に公であることを意識することを刷り込まれてきた。
現に父である国王、母である王妃は、常に冷静沈着であり、感情的なさまは一度たりとて目にしたことがなかった。もしかすれば、父と母ふたりだけの時はちがうのかもしれないが、ルデルは感情的な、つまり私的な場面に遭遇することはなかった。
「……だから、あなたが提案してくれたことに、とてもほっとしたのだ。そうか、悩みや不安を吐き出してもいいのだな、と。そういう相手がいていいのだと。何かあれば、いつでも聞いてくれる相手がいるというだけで、心が安定するのだと初めて知った」
それが、ルデルの胸中の思いだった。メリヤナに対する感謝と、そして——。
「あなたも、私に心の内を打ち明けてはもらえないだろうか?」
瞳を覗き込んだ。茫漠とした地平線を眺めていた視線は、空虚なままルデルに向けられた。一瞬光りが戻ってきたように見えたが、すぐに俯いて、小さな声が返ってきた。
「……ありがとう、ございます……」
しばらく待った。だが、伏せられた目はルデルに戻ってこなかった。
「……また、来る」
響いたのか、そうでなかったのか、判然としなかった。
ルデルは、待機していたエッセン卿を伴うと、ドール公夫妻に礼を告げてメリヤナの屋敷を去ったのだった。




