32話:過去の陰謀(2)
洗礼式の日が近付いてくると、ドール公の屋敷のなかは日を追うごとに落ち着きがなくなっていった。
洗礼式と言えば、平民から貴族を問わず、家の一大行事である。
エスカテ教を信仰する国々では、生まれてから健やかに育たないことはそう珍しいことではない。産まれてすぐに死ぬ赤ん坊もいるし、4、5歳で風邪をこじらせて死ぬ子もいる。洗礼式の直前に流行り病で死ぬ者もいた。14年を通して健やかに育ち、大人への一歩を踏み出す門出の日は、入念に準備を重ねられるのが常だった。
特に重要視されるのは、この日のためだけに用意される衣装だ。衣装は、どの家でも必ず母と子で手ずから織られた布であつらえる。白糸で丹精に織られた布に鋏を入れ、刺繍を施し、数ヶ月という期間を越えて、一着の洗礼着ができあがるのだった。
メリヤナの屋敷でもまた、衣装の布を織るための機織りの音が響く。
かたんっ、ことんっ、と経糸と緯糸が重ねる音が、メリヤナの朝を呼ぶ。
「——お母さま?」
寝衣のまま母スリヤナの私室を覗き込むと、すでに着替えを済ませた母が機を織っていた。衣装の準備に入ってからスリヤナの朝は早く、社交の予定の入らない時間に機の時間を作ってくれている。
「まあ、メリヤナ。洗礼を受けたら、そのような格好でお部屋を出てはだめよ」
杼を送る手を止めたスリヤナが手招きして、私室に呼び入れた。メリヤナは無言で空いている椅子に腰を下ろす。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
スリヤナは冷や汗を浮かべた娘を思案して、体をメリヤナのほうに向けた。
——夢を見た。
処刑される直前の、ルノワ宮中伯が訪れてきた日の夢だ。最近、幾度となく同じ日の夢を見る。まるでメリヤナに早くしろ、と急き立てるように。何度も何度も、罪を言い渡された日を夢見る。
初めてあの日の夢を見てから、メリヤナは何もできていなかった。〈盟約の証となる報せ〉の存在を思い出して、それについて調べなければいけないことはわかっていたが、どう調べればいいのか皆目検討が付かず、ずっと進まないまま。
囃し立てるように、夢が、メリヤナを蝕んでいた。
「熱はなさそうね」
ひやりとした母の手が、額にさわった。メリヤナは、ぼうっと上目で母の手を見る。
「何か、悪い夢でも見たの?」
母という人は、どうしてこんなに察しがいいのだろう。
メリヤナは気が付けば、スリヤナの膝に顔を寄せていた。
「メリヤナ?」
ひとりで抱え続けていることに、限界を感じていた。もういっそ、自分の役割を放棄してしまいたいと思うくらいに。
誰かに打ち明けたいと思うのは、いけないことなのだろうか。荒唐無稽な話を聞き入れてくれるとは思えないのに、縋り付きたくなる。
——わたしは一度死んだの。
——王国が滅びるのよ。
母は、信じてくれるだろうか。言えば、娘の絶望と悲しみを理解してくれるだろうか。
優しい母は、きっと最後まで聞き入れてくれるだろう。つらかったわねと慰めてくれるにちがいない。けれど、悪い夢を見たのよ、と諭されるのは目に見えるようだった。洗礼式前で気が騒いでいるのね、と。
言えるはずが、なかった。
「お母さま」
「まあ、なあに?」
呼ぶと、母の優しい声が応じる。
「お母さまは……、〈盟約の証となる報せ〉をご存知?」
口からついて出てきたのは、真実の苦しみではなかった。
顔を上げて見上げれば、そこには驚いた母の表情があった。言われた言葉の意味を解すと、スリヤナはすぐに私室の鍵を後ろ手に閉めて、小声でメリヤナに尋ねた。
「——どこで、それを聞いたの?」
「……殿下から、お聞きしたの」
メリヤナに今吐き出すことができるのは、これしかできなかった。ほんとうは何も聞いていない。母に嘘を言っているようで心が痛んだが、だが、こう言うしかなかった。
〈盟約の証となる報せ〉のことを調べること。自分自身と王国の運命を回避するための方策。
結局、前に進むことしかできないのだ。
「……そう、殿下から」
スリヤナは溜息をつくように、織り機の腰掛けに戻った。そうすると、どっと腰掛けが重たくなったように見えて、メリヤナは母の次の台詞を待った。
「あなたは、どこまで聞いたの?」
スリヤナはどこか不安げに問うた。
どこまでも何もルデルからは何も聞いていない。そう言っておけば、母が秘匿してくれるからだろうと思って告げたのだ。
「そういうものがあるっていうことだけ聞いたわ」
メリヤナが答えると、スリヤナは、そう、と相槌を打って黙り込む。メリヤナは次の質問を重ねた。
「ねえ、どういうものなの? ルデル殿下は、誰にも言ってはならないと言っていたけれど、どういうものなのかわかっていないと、うっかり喋ってしまいそうで……」
「……それが心配だったのね」
娘の顔色の悪さが何によるものなのかわかったように、スリヤナは言った。
「……うん、そうなの」
メリヤナは合わせるように肯いた。
母を騙しているようで、申しわけがなかった。
「——わたくしも、お母さまから聞いたことしか知らないのよ」
切り出すように、スリヤナは祖母から聞いたことを語った。
「遥か昔、エストヴァンの皇族とフリーダの王族のあいだで交わされた盟約によって、遠い異国の地同士をつなぐことができる、それが〈盟約の証となる報せ〉だと言うわ。特殊な聖神術が施されていて、皇族と王族しか使用ができないそうよ」
「じゃあ、高祖母——トリヤナさまの血を引くわたしたちも使えるってこと?」
「使えないわ」
え、とメリヤナは絶句した。
「王族や皇族の血を引いていても、王籍や皇籍に入っていなければ使えない。皇籍に入っていてもトリヤナさまのように、臣籍に降嫁してしまえば使えなくなる、とそう聞いたわ」
そんなばかな。
メリヤナは口から出そうになる言葉を呑み込んだ。
「あなたの場合、皇族の血を引くという条件はあるから、ルデルアン殿下と結婚をすれば、装置を使うことができるようになるんじゃないかしら。だから、殿下は話されたのかもしれないわね」
「そう、かもしれない……」
顔色がさらに悪くなるメリヤナに、スリヤナは慌てたように言葉を付け足した。
「でも、大丈夫よ。長らく使われたことがないとお祖母さまは言っていたわ。あなたが使うような事態になることなんて、ないと思うわ。だから、そんなに重荷に感じなくても大丈夫よ」
ね? と母がメリヤナを引き寄せて背中をさすった。あやすように慰めるように背を行き来する母の手はあたたかったけれど、メリヤナの胸中は荒れ狂ったままだった。
スリヤナが言ったことが真実ならば、メリヤナにはそもそも〈盟約の証となる報せ〉の使用権限がなかったことになる。それなのに、ルノワ宮中伯は、メリヤナを罪人として祭り上げたというのだろうか。
——あんまりではないか。
宮中伯の出す執行書に最後に許可を出すのは、国王の御璽だ。ならば、国王その人や王妃ルーリエ、あるいは王太子ルデルアンも、その罪状に目を通したはず。メリヤナにはもとよりできないはずの罪で、火刑に処されるという執行書に。
そうして、許可を出したのだ。
(かつてのわたしは、それほど嫌われていたの?)
罪を押し付けられるほどに。
この娘ならば致し方ない、と。王宮の設計図を盗み、隣国に流した犯人が見つからない以上、見せしめのために必要な罪人。メリヤナ・グレスヴィーであれば、罪を押し付けられて当然だ、と。
——なんて、残酷なのだろう。
そんなふうに処刑されてもなお、王国の運命を救うために、メリヤナはひとり苦しみ続けなければいけないのか。
たしかに、メリヤナは一等貴族の娘サレーネに対して、嫌がらせよりも悪質なことを行った。ルデルとサレーネが親しくならないよう妨害した。
だが、火刑に処されるほどのことだっただろうか。それほどの罪だったのだろうか。
メリヤナにはわからなかった。
心が、軋むようだった。
(だけど、それでも、わたしは)
ルデルが好きなのだ。
エスト神の権能を宿すこの血がそう言っている。
(ルデルさまが、好き)
——ならば、メリヤナは。
たとえ、自分の心が悲鳴を上げようとも、王国滅亡の未来を救うために、為すべきことをするしかないのだ。
母に背をさすられながら、メリヤナは己の運命を強く強く噛み締めた。




