2話:出会い
「どうした?」
ルデルアン——ルデルが、そこにいる。
恋して、焦がれて、狂おしく愛した人。
まともに目を見合わせてもらえたのはいつぶりだろう。こんなふうに心配して気づかうな眼差しを向けてくれたのは、もう随分と昔のできごとのような気がする。
「大丈夫か? もしかして、さっきので緊張したのか?」
「え……?」
そう尋ねられてやっと、この場を見渡した。
湖に臨む、王宮庭園。——王妃殿下主催の園遊会。初めて、メリヤナとルデルが婚約者同士として、公然に紹介された場所。
今さきほど、王妃の紹介を受けて発表されたばかりだった。
どうやら、11の歳つきまで戻されたらしい。
昔日の場では、大人たちから拍手を受けて照れくさく、一方で誇らしい気持ちで踊り出したくなったことを覚えている。恥を知らなかったこの頃、その気持ちを直接王太子にぶつけ、大好きと言って抱きついた覚えがある。紹介を受けたこの瞬間に戻されたということは、ここがまず運命の分かれ道ということなのだろうか。
メリヤナは青ざめるのがわかった。もうすでに、ここから間ちがえていたのか。自分が認識しているより以前に、運命の岐路はあったのだ。
「……メリヤナ?」
心底気にかけているように、ルデルが顔を覗き込んでくる。
胸の奥がぎゅっとつかまれるような思いが滲んだ。
「……なんでもありませんわ、——殿下」
そっと笑ってそう言ったのは、防衛反応が働いたからからだった。驚いたように目を皿にする王太子の表情があった。
「ご心配ありがとうございます。たしかに少し緊張したのかもしれませんわ」
「そうか……。そうしたら、庭を見て、気分でも変えるか?」
周囲には、大人の気配と、こっそりとこちらを窺う同年代の貴族子女の姿がある。王妃に紹介をされたばかりで、今はみな、様子を窺っているだけだが、均衡が崩れれば、途端に媚びへつらう者たちが砂糖に群がる蟻のように寄ってくるのは、目に見えていた。
けれど、邪険にするのもあまり良くない。王太子とその婚約者として、そういった者たちも含めて社交をしなければならないのが、互いの務めだ。ルデルとて、それをわかっているから、表情には迷う様子がある。
「そうしましたら……、少しだけ、ひとりでお庭を散策させていただいてもよろしいでしょうか?」
メリヤナの提案に、ルデルが眉をひそめる。
「あなたひとりでというのは……。私も一緒に参ろう」
「殿下にご足労おかけするわけにはいけません。わたくしは、大丈夫です」
ぴしゃりと言うと、ルデルがうろたえる。気づかないふりをして、ぺこりと淑女のお辞儀をすると、メリヤナはすり抜けるように、その場を退いた。
自分の行動が自分らしくないというのは、一番わかっている。この当時のメリヤナであれば、ルデルを無理矢理にでも引っ張って、自分の気分転換に付き合わせただろう。
だが、
(わたくしは……わたしは、殿下に嫌われてはいけない)
あんな侮蔑されるようなことがあってはいけない。
するすると人がいないところを探しながら広大な庭園を進んでいく。園遊会と称しているだけに、どこもかしくも人だらけで、内心メリヤナは焦った。
はやくひとりになりたかった。
頭はまだ、現実を認識していない。処刑され、果てのない絶望をし、冥府へと下るさなか、フリーダの守護神と会ったなど、どんな夢物語だろうか。
メリヤナはずっと悪夢を見ていたのか。あるいは、今この現実が夢で、冷めたら冥界の入口に立っているのだろうか。
もしかしたら、これが罰なのかもしれない。白い希望を見せ、そしてお前は死んでいるのだ、罪を犯したのだ、ということを知らしめるための罰なのかもしれない。
運ぶ足が重たく感じた。大園庭が、行き先を塞いでいる迷路のように思えた。
そうして、生垣を抜けた先には、芝生と城壁越しの湖と、がらんとした空間が広がっていた。
蒼穹には雲が棚引き、初夏の陽光が草花と湖面を照らし、白い花びらが風のなかを舞っている。
メリヤナは突き動かされたように、飛び込むようにして寝転がった。衣装の裾が広がることなんて些末なことは、気にならなかった。そうすると、鬱屈するような悲しみが草を通して地に流れ出ていくようだった。
草花と土の匂い、そして水の匂いが、鼻腔をくすぐる。
生きている。生きねば。生き続けなければ。でも、どうやったら——
「——何してるの?」
見上げると、少年が自分を見下ろしていた。
メリヤナは、ぽかんとした。
とても顔立ちの整った少年だったからだ。ルデルも美形であったが、あちらは美しいという言葉が形容されるのに対して、こちらは少年っぽさのあるかわいい美形だった。少し長めの、薄い金髪が、流れ落ちてくるようだった。白金のような色だ。深海のような青紫の瞳が印象的だった。
メリヤナは自分が置かれている状況はさて置き、しげしげとその顔を眺めること数秒、はたと気が付いた。
(待って。ちょっと、待って)
見下ろされている。
見上げている。
王太子の婚約者として紹介されたばかりの令嬢が、見られていることをかえりみず、解放された気分のまま、衣装の裾を広げてのんびりと草地に転がっているとは、いささか外聞が悪いのではないか。
「——し、失礼いたしましたっ!」
飛び起きると、脱兎のごとく逃げ出すことができたのは、子どもの体がなせるわざであったろう。成人した体つきでは、とてもできない真似だった。
急ぎ来た道を逆走し、人だかりの多い元の場所に戻ると、メリヤナは息を切らしながら、ルデルの隣に並ぶ。
「早かったな。……何かあったのか?」
ルデルはちょうど、公子たちに混ざって歓談をしているなかだった。メリヤナの額にうっすらと浮かんでいる汗を目にして、問いかけた。
公子たちに割り込んでしまったことの失礼を詫びつつ、メリヤナは答える。
「特に何もございませんでしたわ。少し早歩きをしましたら、汗をかいてしまいましたの」
「そうだったのか。これから、馬蹴球をやることになったのだが、あなたも来るか?」
「ええ、ぜひ。殿下を応援させていただきますわ」
好意を込めてにっこりと笑うのは、この頃の自分らしい笑い方だ。あまりにもいつもと違う態度を取ると不審に思われてしまう。いつも通り笑ったつもりだった。
「……そうか」
けれど、ルデルのほうは納得したように返事をしながら、口をへの字に曲げてどこか納得していない様子だった。
「ルデルさま……?」
怪訝に首をかしげれば、ルデルはぱっと顔色を変えた。
「なんでもない。行こう」
背中を向けたルデルは心なしか弾んでいるように思えた。よほど、馬蹴球が楽しみなのだろう。
公子たちとルデルの後ろを追いながら、メリヤナは落ち着いた呼吸と共にさきほどのできごとを思い返す。
(誰なんだろう……)
あの少年は。
記憶を総動員しても、あのような美形は見覚えがなかった。もしかしたら、成人してから会っているのかもしれないが、成長する前の顔立ちから想像するのは難しかった。
(それにしても)
とんでもない姿を見られてしまった。
淑女としての恥である。品がない、みっともない、はしたない。どの言葉で罵られても仕方がない。
かつての自分だったら、まずやらなかっただろうに、どうして、草地に飛び込むような真似をしてしまったのだろう。
思い返せば、恥ずかしくてたまらなくなる。
だが、衝動的だったとはいえ、ひらけた芝生の上を寝転がることが、あんなに気持ちのよいことだとは知らなかった。今まで、やっていなかったことが勿体ないと思えるほどに。
一度目の生でも、芝生の上で過ごす気持ちよさを知っていたら、余裕がなく、追い詰められたような振る舞いをしなくてすんだのかもしれない。
自分のなかに余裕を持つために、たまには野原に寝転び、風に当たることはいいことかもしれない。
——ただし、場所と状況を踏まえてだが。
(もう二度と、あのかわいい美少年と会いませんように)
王国の運命を変えるという使命のもと、メリヤナは切にフリーダ筋肉神に祈った。
だが、あの哄笑する神はそんな祈りを聞き入れるような神ではなかったのである。
「——皆さま、ようこそいらっしゃいました」
(なんで、ここにあの子がいるの)
女主人として歓迎を示す母スリヤナの横で、メリヤナは皮膚の内側を引き攣らせた。