25話:海草の灰
煮炊きできる場所を確保できる、というカナンの言葉を受けてから一週間後、雨上がりの日に、メリヤナはその場所で石鹸を作ることにした。
カナンに連れて来られたのは、屋敷の敷地内にある厩舎だった。隣に木造の小屋があり、そこを使っていいのだという。小屋にいたのは、馬丁見習いのサンデルという青年で、カナンの当てとはどうやらこの青年らしかった。
「こんな汚いところですみません、お嬢さま」
金髪を短く刈り込んだサンデルは、おっとりした雰囲気を持っていた。いかにも馬の世話をしていますという空気を持っており、尋ねてみれば成人する前からずっと領地で馬丁見習いをしているのだという。
カナンとはどういう関係なのだろうか、と当て推量をしようとふたりの様子をちらちらと見てみたが、窺い知ることはできなかった。
(この人が、結婚相手だったりしないかな)
カナンはあと数年すれば、どこかに嫁いでいってしまう。それは、前の生で知っているできごとだ。せっかく仲良くなれたというのに、カナンがいなくなってしまうことを考えると、ぎゅっと胸が縮まる思いだった。
もし、相手が同じ使用人同士であれば、カナンは去らずに済むかもしれないと思うと、どうか結婚相手がサンデルでありますように、と内心で祈らずにはいられなかった。
「いいえ、貸してくれてありがとう」
メリヤナは、ちょこんと頭を下げる。そうすると、サンデルは照れたように頭をかいた。
「火を熾す必要があると聞いたんですが、お嬢さまは火熾しをされたことはありますか?」
「えっと、それがないの。もし、あなたができるならお願いをしたいのだけど」
「承知しました。カナンから聞いているので、大丈夫ですよ。準備もできています」
サンデルは小屋のほうを指差した。
「ありがとう。助かるわ」
メリヤナが言うと、サンデルは早速、小屋のすぐ外の風下を選んで、小枝や小石などで小さな焚き火を作った。あっという間もないうちに火を熾すと、馬丁の仕事に戻ると言って去っていった。
すぐにカナンが鍋を抱えてやって来て、メリヤナはそのなかに瓶に入った橄欖油を、とぽっとぽっ、と注ぐ。そこに今度は、濾した灰汁水を注ぎ入れる。油が一で、灰の水が五・五。鍋を火にかけた。
持ってきた木匙でぐるぐると鍋をかき回しながら、ぐつっぐつっ、と煮込む。
「臭いませんね」
途中、カナンが言った。橄欖油は焚いても予想通り臭うことがなかった。
「うん。全然臭くない」
そこから数時間、メリヤナとカナンは交代交代で、鍋をかき混ぜた。途中、サンデルにも手伝ってもらい、休憩を挟みながら鍋を見守った。
気が付けば、陽がすでに遠景の丘に沈むところだった。茜色になった陽が眩しい。
「これで、あとは冷ませば大丈夫ね」
メリヤナは、ふうっと息を吐き出す。肩に力が入っていた。
「——お嬢さま、ちょっと見てみてください」
メリヤナが手ずから鍋を持ち上げようとしたところで、カナンが止める。じっと、鍋の表面を見て、それから指を差した。
「固まっているように見えませんか?」
「え?」
指摘されてから、メリヤナはまじまじと鍋の表面を見た。橄欖油の色で檸檬色になった表面は、やわらかい凝乳のようになっている。言われてみれば、アズムのところで見た石鹸よりもだいぶ固さがあるような気がした。
「ほんとうね。橄欖油を使ったから、かな?」
「わかりません。けれど、お嬢さまが求めている固形石鹸に近いものができるかもしれませんね」
「そうね」
先日カナンが行動の理由を言い当てた時に、メリヤナはどんな石鹸を作ろうと思っているのか打ち明けてある。臭わない、固い石鹸だ。
「このまま鍋ごと小屋に置かせてもらって、経過を見てみる?」
「そうしましょう。サンデルに言伝して参りますね」
カナンが厩舎に行くのを見送ってから、メリヤナはしゃがんで鍋のなかをあらためて覗き込む。
橄欖油の効果なのだろうか。塩が入っていないのに、塩析が進んで固くなったのだろうか。それとも、別の要因なのか。
メリヤナは固まった理由にまったく思い至らなかった。考えてみれば、固形石鹸を作る場面を一度も見たことがなく、知識として知っているだけだ。
(アズムに聞いてみたほうがいいかもしれないわ)
もしかしたら、要因がわかるかもしれない。
偶然できたのはありがたいが、偶然で終わらせたままでは、意図的に固形石鹸を作り出すことは叶わないだろう。
メリヤナは、戻ってきたカナンと共に私室に戻り、急ぎアズムへと手紙を綴った。
*
一週間後、アズムからの返信には、灰汁水の成分を調べてみろ、と書かれていた。とてつもなく読みにくい、すべての文字がひとつなぎになったような字は、何を燃やしてできた灰なのか調べるといいと助言されていた。
「灰汁水かあ」
灰であれば、なんでも大丈夫だろうくらいにメリヤナは考えていた。だから、灰の成分まで影響する可能性があることは盲点だった。
たしか、アズム親方の工房では、王都の草木を燃やしてできた灰が用いられていた覚えがある。ここ、ドールでは、王都とは少し植生がちがうから、燃やしている草木がちがう可能性は充分にあった。
ドールの景色を窓から眺める。
窓に弾ける雨滴が、硝子に筋を作っていく。雨の丘陵地は、枯れ草の色と緑が混じってぼんやりとしていて、馬車道の糸杉だけがはっきりとした緑を浮かべていた。道のずっと先には、橄欖や葡萄農家の家々が、ぽつぽつ、とある。西に進めば海岸線で、赤や黄色や青などに塗られた漆喰の家が並び、港が栄えていると言うが、今は冬であまり活気づいていないと聞いた。
(今度は、夏に来てみたいわ)
冬は、雨が多いからどうもどんよりとしてしまう。人々が溢れた元気な港を見てみたかった。
メリヤナは今一度アズムの手紙を読み返してから、カナンを呼んだ。
「——灰汁水、でございますか?」
手紙に書かれたことを伝えると、カナンが確認するように尋ねた。
「ええ。正確には、灰みたいなのだけど」
「灰ですか」
「うん。——あの灰汁水は、どうやって作ったの?」
メリヤナのもとに運ばれてきた時点で、透き通った灰汁水はすでに瓶のなかに収められていた。
「あれは、厨房からもらい受けたものなのです」
なるほど、とメリヤナは得心がいく。
オリガが洗い物に使うと言っていた。たしかに、厨房なら常備してあってもおかしくはない。
「オリガに確認してみましょうか?」
「うん、お願い」
頼めばカナンの仕事は早かった。夕闇が迫る頃合いには、確認した内容を報告しにやって来た。
「——あれは、バリラとケルプの灰だそうです」
「バリラ? ケルプはえーっと、あれよね……お母さまたちがよくお土産で持ってくる……」
ケルプは、ドールの特産のひとつである海藻だった。たまに酢に漬け込んだものが食卓に並ぶが、メリヤナはこれが大の苦手で、思い出すと顔が少し引きつった。
「お嬢さまはご覧になったことがないかもしれませんが、バリラは、海岸によく生えている植物です。海の側で生えているから、かじると塩気を感じるんですよ」
バリラに関するカナンの解説を聞いた。塩気、という言葉が額の裏で光る。
「そっか! そういうことだったのね!」
メリヤナは血流が上がるのと同時に立ち上がった。
塩析をやらなくても固まった理由。
急に視界が開けたように、メリヤナは自分がするべきことが鮮明になるのがわかった。
——これで、臭いのしない固い石鹸ができる!
喜々として、メリヤナはアズムへの返信を書き綴った。




