24話:橄欖油と灰汁の水
「お嬢さまってば、ほんとうに大好き!」
領地の屋敷に着いて数日。メリヤナがひょっこりと厨房に顔を出すと、居合わせたリリアが今にも抱きつかんばかりの勢いで、そう言った。
「やめなさい」
「お嬢さまに失礼です」
制止したのはオリガ、注意したのはカナンである。
えー、と文句を言うリリアに、カナンは頭を抱え、オリガがメリヤナに詫びた。
「すみません、メリヤナさま。リリアは、領地に連れて来ていただいて嬉しかったようで」
なるほど、とメリヤナは合点がいく。
今回、ドール領に戻るに当たって、王都の屋敷に残る者たちと、領地まで随行する者たちを分けた。その際にメリヤナは母に頼んで、カナンの他に、リリアとオリガの随行を願い出たのだ。
「わたしが、話をする相手が欲しかっただけだよ」
メリヤナは苦笑する。
王都から出たことがないメリヤナには、自領に顔見知りはいない。三ヶ月も滞在するのに、話し相手がいなければ気が塞いでしまいそうだったので、三人の名を挙げたのだ。
「でも、おかげさまで実家に顔を出すことができるんですよ!」
前のめりにリリアはそう言った。
グレスヴィー家で働いている使用人のほとんどは、ドール領に住まう平民の出で、住み込みで奉公に来ている。今回、使用人たちは順繰りに一週間の休みを取ると聞いたから、その機会に里帰りをするのだろう。
「そっか。喜んでもらえて良かった」
はい、と元気よく返事をするリリアを見れば、たまに領地を訪れるのはいいかもしれない、と思う。働いてもらっている皆に里帰りができるような機会を作ることで、恩返しができるのであれば良いことだ。
メリヤナは心の隅に思い留めつつ、厨房にやって来た用件を口にした。
「オリガ、ちょっと聞いてもいい?」
「はい、何なりと」
「お皿洗いって、どんなふうにやっているの?」
メリヤナの問いに、オリガは虚を突かれたらしい。首をかしげた。
「どんなふうに、というのは?」
「どうやって汚れを落としてるのかなって思って」
人肌にふれても大丈夫な石鹸を作るに当たって、ふだんから洗いものをしている台所女中のオリガに聞けば、何か手がかりになるのではないかと思ってのことだ。
メリヤナが期待に満ちた目を向けていると、オリガは首を傾けて少し悩んでから答えた。
「お湯でございますね」
「お湯?」
「はい。お湯と束子で洗います。皿や茶器などは主にお湯頼りですね。銀器などは繊細ですから、あまり束子では強く洗わず、さっとお湯で流してから麻布で汚れを落とします」
「そのきったない布を洗うのが、あたしの仕事ですけどね」
リリアが口を挟んだが、オリガは無視し、カナンはいつものごとく溜息をついた。メリヤナは苦笑しながら礼を口にする。
オリガは続けた。
「鍋などはなかなか汚れが落ちにくいですから、そういう時は灰汁水を使いますね」
「灰汁水も?」
「ええ、草などを燃やして作ったものですけど、そういうのは頑固な汚れにいいんです」
石鹸と同じだ、とメリヤナは思う。
汚れを落とすのには灰が機能する。石鹸には、油と灰が使われるから、油汚れに灰汁水を使うのは妥当な組み合わせかもしれない。
「手が荒れて大変ね」
メリヤナは、石鹸作りを手伝って手荒れがひどくなったことを思い出す。フィルクからもらった蜜蝋軟膏がよく効いているので、すっかり戻りつつあるが、オリガは毎日洗い物をするのなら大変だろう。
メリヤナがそう言った意味を込めて声をかければ、オリガが少し声を低めて笑うように話した。
「実はお嬢さま、たしかに多少の手荒れはあるのですけど、わたくしたち台所女中はそこまでではないのですよ」
「え、どうして?」
オリガはちらっと悪戯っぽく目を光らせる。
「橄欖油を塗っているからです」
「え、橄欖油を手に塗るの?」
こくりとオリガは肯く。橄欖油と言えば、食用に使うものだ。塗るという実感がわかなかった。
(そういえば……)
フィルクが軟膏にも橄欖油を用いていると言っていた。ということは肌にいいのだろうか。
「塗ると、どうなるの?」
メリヤナは尋ねる。
「しっとりするのです。橄欖油はとろりとしているので、洗い物でかさついた肌にはちょうどいいのです。——台所女中のあいだの秘密ですけどね」
オリガはこっそりと付け加えた。厨房を預かっているからこその特権ということだろう。
メリヤナは、ふふっと笑う。
「わかったわ。内緒にしとく」
「お願いします」
オリガと目配せをしながら笑い合った。
「——あー、あたしも、手がかさかさにならないようにできればいいのに」
聞いていたリリアがつぶやく。
「このあいだ、厨房に異動する話があったのに、蹴ったのはあなたじゃない」
オリガがたしなめるように言う。
「だって、洗濯場はあたしの誇りだもの。でも、肌が荒れるのは嫌だわ」
はあ、と溜息をつくリリアの言葉に申しわけなさを感じながら、メリヤナはカナンと共に厨房をあとにする。
三階にある私室へと戻るなかで、メリヤナはオリガの話していた橄欖油のことが頭から離れなかった。
(石鹸を作るのに、橄欖油を用いるのはどうかな)
フリーダ王国内は、全土を通して橄欖の生産が盛んで、その油は安価で手に入りやすく馴染みがある。それに——。
(匂いがほとんどないわ)
とろりとした黄緑色の油は、舌に乗せれば風味はあるけれど、動物油脂のような臭さはない。ならば、石鹸を作る時や使う時に臭わないのではないだろうか。
(もしかしたら、肌にもいいかもしれない)
直接塗布して、肌がなめらかになるのであれば、手で使った時に荒れたりせずに使うことができる可能性がある。
——一度、検証をする必要がある。
メリヤナは、筆記本に今の閃きを記したくてたまらず、私室へと戻る足が早くなった。
「カナン、お願いがあるの」
ひと通り、筆記本に書き付けてから、メリヤナは静かに部屋の掃除をこなすカナンを呼び止めた。
「はい、なんでしょう?」
動きを止めて、なんでもどうぞという雰囲気ですぐに応じることができるのは、さすがカナンである。
「橄欖油を一瓶と、灰汁水を六瓶ほど用意してもらうことできる?」
思い立ったが吉日である。
メリヤナがお願いを口にすれば、カナンは確認するように尋ねた。
「こちらに、でございますか?」
「えーっと、そうね、えと……」
用意してもらったところで、自室で石鹸を作るために火を熾すことはできない。閉口していると、カナンが、くすっと笑った。
「お嬢さまは、もしかして石鹸を作られるつもりですか?」
「えっと……、うん、そうよ。もしかして、ばればれ?」
「最近のお嬢さまの行動を見ていればわかりますよ」
メリヤナが恥ずかしげに上目に見上げれば、カナンは優しい微笑みをたたえて答えた。
「そうであれば、煮炊きをする場所が必要だと思いますから、お部屋ではできませんね」
「うーん、そうなのよねえ……」
「その場所もご都合つけたほうがよろしいでしょうか?」
項垂れたメリヤナに、カナンはあっさりとそう言った。
「できるの⁉」
「そうですね。ちょうど頼めそうな人がいますから、聞いてみます。明日、お答えする形でも大丈夫ですか?」
「もちろんよ」
誰なのだろう。リリアやオリガではないのだろうか。
心当たりはないメリヤナだったが、カナンにそのまま任せて翌日になった。




