23話:別れのあいさつ
これからフィルクと話すことを思うと、メリヤナはどんよりとした鈍色の雲が、自分の胸中を表しているような気がした。
風には、秋暮れの香りと雨の匂いが含まれている。一ヶ月も過ぎれば、また寒い雨の季節が訪れる。陽の出る時間が短くなり、貴重な陽射しが差す時間も雲海が立ち込めるとなれば、気持ちは閉塞するばかりで、メリヤナはあまり冬が好きではなかった。
お待ちください、と通された場所は、レッセル伯ローマン家の図書室だった。吹き抜けの図書室はひとりでいると、がらんとしていて、踵を鳴らせば、コツ、という音が床を振るわすように響く。
「ごめん、お待たせ」
手持ち無沙汰に踵を何度も鳴らしていると、フィルクが笑顔でやって来た。
「大変お待ちいたしましたわ、ローマン公子殿」
メリヤナが以前の意趣返しのように言えば、フィルクは恭しく頭を下げながら応えた。
「姫君をお待たせしてしまうなど、何たる不覚。この上は、私は如何なる行いにて、償えばよろしいでしょうか?」
「そうですね。お茶を一杯と、それからお菓子を所望しますわ」
「大変寛大なるご所望に恐悦至極にございます。すぐに用意を」
頭を上げたフィルクと目が合うと、どちらともなく吹き出した。互いに顔を見合わせてひと通り笑い終えると、肘掛け椅子に腰かける。フィルクはそうしてすぐに鈴を鳴らして女中を呼び付けると、茶と菓子を頼んだ。
間もなくして運ばれてきた茶と菓子は、紅茶と檸檬の砂糖菓子だった。
「これって、買い付けをしたの?」
メリヤナは紅茶と砂糖菓子を口にしながら尋ねる。紅茶や砂糖は、海南諸島を経由しなければ手に入らない貴重な代物だった。ドール領と同じく海に接しているから、どこかから得ているのだろう。
ただの興味で尋ねたが、フィルクは、さあ、と肩を竦めてみせた。
「たぶん、義母上が買ったんだろう。高そうな買い物だよね」
興味がない、というよりは、興醒めしたような空気を感じ取って、メリヤナはそれ以上追求してはいけない気がした。
フィルクに感じるいつもの壁だ。
超えてはいけない壁。
いつまで聳えているのかわからない壁。
もの哀しさを感じながら、メリヤナが紅茶を啜っていると、明るい声が問うた。
「——それよりも、リヤ。今日はどうしたの? 急に、僕に会いたくなった?」
いつものような茶目っ気のある空気からは、さきほどのぴりっとした空気は感じられない。メリヤナはうら寂しさを胸底に追いやってから、返答した。
「あ、えっと、伝えなきゃいけないことができて、それで」
このあいだ、父母に言われたことが頭をよぎる。沈む気持ちを抱えながら来てみたものの、なんと伝えればいいのかまとまっておらず、言葉を詰まらせていると、不意に右手を取られた。
「それって、もしかして、その手のこと?」
ぎょっとする間もなかった。身に付けていた手袋を剥がれて、メリヤナは抗議する。
「ちょっ、ちょっと! フィル!」
最近13になったとはいえ、メリヤナの心は成人している。急に素肌を晒されて、思いっきり、どきっとした。
「——やっぱり」
メリヤナの抗議など意に介さず、フィルクは手の甲を見つめて溜息をついた。
メリヤナは、ゆるんだ力の隙きを突いて、手をすぐに引っ込める。恥ずかしさからうっすら涙が滲んだ目で睨み付けるが、睨まれたフィルクのほうは真面目だった。
「その手、どうしたの?」
「別に、なんでもないよ」
答えると、眼光が鋭くなった。
「なんでもなくないでしょ。そんなに赤くして、かさついているじゃないか」
メリヤナは黙り込む。
貴族の令嬢らしからぬ手になっているのは自覚している。だから、手袋で隠していたのではないか。
自分のかさついた手をさすりながら、メリヤナは内心で思った。
「最近、なんかやっているのは知っている。でも、そんな手になるほど、何をやっているの?」
「…………」
「僕には言えないこと?」
石鹸作りのことや、石鹸工房に通っていることを、メリヤナはフィルクに話していなかった。
言えないわけではない。秘密にしたいわけでもない。ただ、驚かせたいと思ってメリヤナは黙っていた。
いいものを作って、それで友人を驚かせたいという、至って単純な理由だった。まさか石鹸作りを手伝っているうちに荒れてしまった手を、観察されているなんて思っていなかった。
「リヤ、答えて」
フィルクは詰問するように言った。
メリヤナは、ぎゅっと口を引き結ぶ。しばしのちに唇を湿した。
「……答えられないわけじゃないけど、もう少し待って。ちゃんと話すから」
視線を逸らしていると、無言の時間が圧力のように感じた。
フィルクの、はあ、という嘆息が聞こえてきた時は、緊張で心の臓が跳ねた。
「……わかったよ」
メリヤナがおそるおそるフィルクに目線を戻すと、その表情は怒ってなかった。
「あんまり隠し事はしないで。心配になるから」
「……ごめんなさい。あの……、心配してくれて、ありがとう」
いいよ別に、とフィルクは気を緩めた顔で言った。
「——その代わり」
フィルクは何かを探すように、ごそごそと服のなかに手を入れる。
「これ、塗って」
取り出されたのは、小さな白磁の瓶だった。側面には、溝が規則的に彫られて、つまみや縁の部分には、橄欖の葉の彫刻が施されている。
「これは、何?」
卓上に置かれた瓶をメリヤナはまじまじと見つめる。
フィルクは橄欖の実を模したつまみを、かた、と持ち上げると、瓶の中身を見せた。
「蜜蝋軟膏だよ」
「蜜蝋? 蝋燭に使うやつ?」
檸檬色の軟膏は、つややかに光っている。蜜蝋と言われれば、あまい蜂蜜の香りのする蝋燭しか思い浮かばなかった。
「うん、その蜜蝋。それを溶かして、橄欖油と薬草油を混ぜて作ったんだ」
「フィルが作ったっていうこと?」
フィルクは、こくりとした。
「そう。——手、出して」
メリヤナは、促されて引っ込めていた右手をおずおずと出す。かさかさになった手に、フィルクは優しく触れると、瓶のなかの軟膏を指ですくって、ゆっくりと撫でるように、メリヤナの手に塗っていく。
「え……、と」
どうしようもない居心地悪さがこみ上げてきて、メリヤナは今にも立ち上がりそうになる衝動を懸命に堪えることになった。
年頃の男女が、こんなふうにふれ合うのはいささか問題があるのではないか。王太子の婚約者としてどうなのだ。こんな簡単に異性にふれさせていいのか。考えてみれば、先日ルデルに額に、口付けをもらったばかりで。あれはいったい。
メリヤナは一人で混乱寸前だった。考えがぐるぐるとして、頭のなかでは四方八方に考えが散り、それに伴う感情が顔を百面相にさせる。
「できた」
頭から湯気が出そうなメリヤナに対し、一方でフィルクは満足げな顔だった。軟膏を塗ってもらって、メリヤナの右手はしっとりとしている。
「あ、ありがとう」
まだ、鼓動はどきどきとしていたが、フィルクはまったく気にしていなそうだった。軟膏の礼を言いつつ、メリヤナは不貞腐れる。
自分だけ距離感を気にしているなんてばかみたいだ。
そろそろ気にしたほうがいい年頃なのに、フィルクは何も違和感を覚えないのだろうか。自分は13で、フィルクはまもなく15だ。あと一年すれば、メリヤナは洗礼を受けるし、フィルクは先立って社交界に顔見世し、大人の仲間入りをする。
いつまで経っても、子どものような距離感でいてはいけないはずなのに——
「それ、誕生日の贈り物だから。寝る前とかに、よく塗ってね」
邪気なく微笑まれて、贈り物と言われてしまうと、メリヤナは観念するしかなかった。
(仕方ないわね)
メリヤナの精神年齢のほうがずっと高いのだ。
まだ声変わりも済み切っていない少年に、理解しろというほうが難しいのかもしれなかった。
「うん、わかった。ありがとう」
メリヤナは肯いて、ありがたく白磁の浅底瓶を受け取った。
「——ところで、話って、その手のことじゃないんだよね? なんの話?」
フィルクがあらためて尋ねる。
「遮ったのはあなたじゃない」
「ごめん。それで、どんな話?」
恨めしくて睨むと、フィルクはしれっとした様子だった。
メリヤナは、一度溜息をつくと、来るまでに胸中を暗くしていた話題を口にした。
「あのね、冬のあいだ、領地に戻ることになったの」
「え?」
フィルクが、驚いた顔をする。
「お父さまとお母さまから、このあいだお話があって。自領の土地は一度きちんと見て回っておいたほうがいいと言われたの。だから、一緒に来いって」
以前の生では、提案されなかったことだ。
メリヤナは結局18年生きたなかで、一度もドール領を訪れたことがなかった。王太子の婚約者として、領地を管理する必要がないと思っていたし、思われていた。グレスヴィー家は、父の代でドール公の役目を終えることになっていたから、メリヤナはドール領のことは自分に関係のないことだと考えていた。
「いつから?」
「数日後には発つつもりよ」
答えると、フィルクは、そっか、と相槌を打ってから、茶を一口飲んだ。そのあとに続けられる言葉はなく、ただ沈黙が流れる。
(なんて答えるかな)
寂しがるのではないか、というのがメリヤナの予想だった。
人懐こいところがあるし、しきりに友だちであることを主張してくるし、会う頻度だって一週間に一回は必ずだ。
ドール領は王都から近く、馬車で二日、一番離れたところでも三日程度の距離だから、遠い場所ではないけれど、冬のあいだとなれば三月会わないことになる。
フィルクは、メリヤナといる以外は孤独を好むのに、どことなく感じる寂しがり屋なところがあった。三月も会えないとなると、どう思うだろう。しばらく会えないとなれば、いやがるのではないかというのが、メリヤナの懸念だった。
窓の外を眺めるフィルクをじっと見ていると、ややもせずに視線がかち合った。
ごくりと息を呑む。
「——わかった。じゃあ、冬のあいだは会えないね」
少しだけ緊張するメリヤナとは裏腹に、フィルクの声は軽かった。
「え? あ、うん」
メリヤナは、あっさりとした様子に、ただ肯くだけになる。
「わざわざそれを言いに来てくれたんだ?」
「あ、えっと、そうよ。言っておこうと思って」
「ありがとう。そしたら、手紙でも書くから」
楽しんで、というのがフィルクの言葉の締めだった。
ローマン家をあとにしながら、メリヤナは拍子抜けした気持ちを持て余す。
フィルクがいやがることをあれほど心配していたというのに、随分と予想とはちがったから、なんだか損をしたような気持ちである。
(もやもやする……)
言いにくいことを言い終えたはずなのに、胸のつかえは取れないどころか、もっと深くなった気がする。
なぜだかわからず、メリヤナはもらった白磁の瓶を撫でながら帰路についた。
そのまま数日後、王都を出発してドール領へと旅立ったのである。




