21話:神々の権能
王宮の東宮に呼ばれたのは晩夏の頃合いで、メリヤナは宮殿に上がるだけでうっすらと汗が滲んだ。
持参した扇で首元や袖元を扇ぐと、涼しさが体を軽くした。布がたくさんまとわりついているから暑く感じるのだろう。貴族以外は半袖の文化があるので、そこまで暑さが苦ではないという。こんなに暑く感じるのは貴族であるがゆえだと思うと、衣装の布と共に貴族という身分を捨て去りたいと思うくらい、この日は暑かった。
東宮の中庭に辿り着くと、すでに卓の準備がされていた。
メリヤナは、目に入った後ろ姿に、おやと首をかしげる。
「マイラーラさま?」
振り向いた彼女は、甘橙色の衣装を着ていた。明るい色は年頃の令嬢らしく、楚々とした品のある振る舞いの彼女に、似合っている。浮いたそばかすはまだ消えていないけれど、成人をする頃合いには消えるだろう。
「ごきげんよう、メリヤナさま」
マイラーラは、淑女の礼をする。
メリヤナも、同じように礼を返した。
「ごきげんよう。——マイラーラさまも、殿下に?」
確認すれば、彼女は予想とちがって首を振った。
「いいえ、今日は祖母に付いて参ったのです。ぜひいらっしゃい、と。せっかくの婚約者同士の場ですのに、申しわけございません」
マイラーラは目を伏せて、丁寧に言った。
「そんなことありません! マイラーラさまは殿下と従姉妹ではありませんか」
メリヤナは手を、ぶんぶんと振る。
現王妃ルーリエは、サール公位家の出身で、マイラーラの母とは姉妹に当たる。つまり、王太子ルデルアンと、サール公女マイラーラは従姉妹関係にあった。だから、現サール公当主夫人アリエス・ハルヴィスは、マイラーラにとって祖母であり、 ルデルにとっても祖母なのだった。
おそらく、今日の会はアリエス・ハルヴィスが主催なのだろう。とすれば、部外者はメリヤナのほうであるのに、礼儀正しいマイラーラに詫びられてしまうと、それこそ申しわけなかった。
「むしろ、ただの従姉妹ですから」
マイラーラは感じよく、凛と笑った。
どうすれば、そんなに気品を持てるのだろう。メリヤナとはひとつしか変わらないのに。やり直しの分を換算すれば、メリヤナのほうが長く生きている。
思い返せば、あのサレーネも大人の雰囲気のある令嬢だった。計算された動きではあったけれども。
もしかしたら、メリヤナだけが子どもっぽかったのかもしれない。
(そりゃあ、幻滅するに決まっているわよね)
成人して社交界に顔見世を行った人間が、大好き、と連呼していれば。
かつてのルデルの行動は、成人紳士として至って当たり前だったのだろう。
(これからは、もっと大人の女性らしくするのだから!)
フィルクに教えてもらっているメロメロの術で、ルデルの心を虜にし、そして、大人の女性らしい振る舞いをすることが成人までの目標だ。
今日もまた意気込みながら、メリヤナは顔を引き締める。
「——待たせてすまない」
訪れたルデルは、後ろにアリエスを伴っていた。
メリヤナとマイラーラは、共に淑女の最敬礼を行うと、ルデルから座るように促された。腰かける時には、侍女や侍従たちが手伝いをしてくれる。メリヤナが目礼した横で、ルデルもまた腰かけ、老婦人もゆっくりと座した。
「今日は、サール公夫人と歓談をしながら、午後の時間を楽しもう」
ルデルが、会の趣旨を説明するようにメリヤナに言った。
予想は、外れていなかったらしい。
アリエス・ハルヴィスの歓談という名を取った教育の時間ということだろう。証明するように、アリエスが続きの言葉を発した。
「今日は、皆さまと神々についてお話をしようと思っていたのです」
アリエスが提案した話題は、フリーダとエストヴァンの主神の話だった。
フリーダ王国や、エストヴァン国、トゥーミラ自治都市群は、同じ多神教を信仰しているが、それぞれの主神はちがう。
フリーダは、炎と運命の神フリーダを、エストヴァンは、愛と戦いの神エストと闇と炎と冥界の神ヴァンニテを信じ、トゥーミラでは商いと職の神トゥーメルを主神として仰いでいた。
「皆さまは、フリーダ神の炎と、ヴァンニテ神の炎の権能にはちがいがあることをご存知ですか?」
アリエスは、思考を促すように問いかける。
ヴァンニテ神と言えば、広く知られているのは冥府の神としての存在だ。人は死すれば、冥界へと続く階段を下る。そこで冥府の長ヴァンニテ神の元で魂を癒やし、再び現世に生まれ変わるための修養を行うのだという。
メリヤナが処刑され、魂だけの存在になった時、下った階段は冥界への道のりだ。まみえるはずだった神とは会わずにまだ今生の生をやり直しているのが、別の神の御業ゆえかと思うと、自分の肉体が自分のものではないように思えた。
「フリーダ神の炎は、〈浄火〉の力と聞いております」
馳せていた思いを断ち切るかのように、ルデルの声が響いた。
「ヴァンニテ神とフリーダ神の権能にちがいがあるということは、ヴァンニテ女神の炎は浄化ではない、ということですか?」
マイラーラが続けた。
たしかに、そういうことになるだろう。ヴァンニテ神の火には浄化の力がない。では、どのような権能が隠されているのか。
「……闇?」
メリヤナは、ぽつりとつぶやいた。
「そう。闇、ですよ」
アリエスが肯定した。
「闇、というのは、ヴァンニテ女神のそもそもの権能ではないのですか?」
ルデルが訴えるように確認すると、アリエスは微笑んだ。
「ええ、そうですよ。その闇が、炎にも通じているのです。——メリヤナさまは、どうして闇だとお分かりに?」
訊かれて、メリヤナは単純な考えだと答える。
「フリーダ神が、浄める力を持つのであれば、対立するものはなんだろうと考えたのです。そもそも、わたくしたちが仰ぐフリーダ神は、神代の折に、戦いで爛れた大地を新たな炎で焼き払い、そこから緑の芽吹きがあったことから、浄めの力を持ったとされます」
「そうね」
面白そうにアリエスは肯く。
「一方で、ヴァンニテ神は、今のエストヴァンの東方にあるヴァンス火山を噴火させ、戦いに明け暮れる人間と、姉女神エストを諌めたと言われていますから、そこにあるのは罰と怒り……良くない感情ではないかと思ったのです。ですから、元々有していた闇の権能が炎にも転化しているのではないかと……」
ルデルとマイラーラの視線が突き刺さるようにメリヤナに向けられるので、段々と声が萎んでいった。
13歳の位家の娘であれば、これくらいの知識を有していてもおかしくはない。何か変なことを言っていただろうか。焦りを滲ませていると、アリエスの落ち着いた老いた声が笑った。
「良い推察ですね、メリヤナさま。——マイラも見習うように」
「はい、お祖母さま」
神妙なマイラーラの声がそう答える。
わけがわかっていないのはどうやらメリヤナひとりだけで、ルデルはメリヤナのほうを不思議な目で見つめていた。
「神話に対する知識だけでなく、そこから推察をする力がおありですね」
「そんなことは……」
褒められているらしいとわかると、メリヤナは体中がかゆくなるようで鼻白んだ。
アリエスは、そんなメリヤナに微笑ましい視線を送りながら、けれど、と言葉を続けた。
「メリヤナさまの推察は、少しちがいますわ。ヴァンニテ女神が炎の権能を持つのは、火山をあやつるゆえ。闇の権能もまた同じです。炎の山は大地に通じ、大地は地母神とつながりを持ち、母とは闇を孕むものです。ですから、ヴァンニテの火は闇の権能を持つのですよ」
なるほど、と相槌を打ちたいところだったが、難しい説明にメリヤナは少し頭が混乱した。ルデルやマイラーラも同じらしい。ぽかんとした顔をしている。
アリエスは、
「あら、いけない」
と自分自身の言動を訂正した。
「少し難しいお話をしすぎてしまいましたね。ですが、皆さま、神話のことを知ることで、自国のことも他国のことも知ることができますわ。歴史だけでなく、神々のこともお知りになってくださいな」
アリエスは、未来の国を担う子女に教育をしたかった、というよりはただ神話の話がしたかっただけかもしれない。
「ちなみに、メリヤナさま」
「はい」
まだ語るのに物足りないのか、とメリヤナが身構えていると、アリエスは今度こそ教育者の顔で告げた。
「罰と怒りは、良くない感情というわけではないのですよ」
「え?」
「たしかに抱けば、自分自身を苦しめはしますが……感情が良くないとされるのは、その行いによってです。感情、それ自体には良いも悪いもない。それは、闇も同じですわ。穏やかで安らぎのある闇もあれば、暗く澱んだ闇もあるのです」
お忘れにならないでくださいね、とアリエスは言葉を結んだ。
感情にいいも悪いもない。
それは、メリヤナには新しい視点だった。考えれば、思考が尽きそうになかったが、ひとまず礼を返す。
「ありがとうございます。覚えておきます」
アリエスによる談義が終わったのち、ルデルに付き添われて西の城門へと向かう。
王城には東と西に城門があり、東の城門は東王都——平民街に通じ、西の城門は西王都——貴族街に通じている。貴族が王城に参内する時は専ら西の城門から出入りするのが常だった。
メリヤナは歩きながら、さきほどのサール公夫人アリエスの言葉を思い返す。
メリヤナは、喜びや幸せ、感謝などの感情は良いものと考え、怒りや妬み、憎しみなどは良くない感情だと思っていた。だから、かつての自分が抱いていた感情は醜く、捨て去らなければいけないものだと、そう信じていた。
だが、アリエスは、感情が良くないとされるのはその行いによってだと言う。
今のメリヤナには、しっくりと来る言葉だった。
嫉妬からあの娘——サレーネに害をなしたのは、良くない行いだった。けれど、誰かを羨んだり、妬んでしまっても、暗い感情自体を持つことは悪くないのだ、と言われれば、少しだけメリヤナは免罪符を与えられたような気持ちになった。
巻き戻し前の自分を、少し許せるような気がした。
「——メリヤナ」
ルデルに名前を呼ばれて、はっとする。
いけない。彼と一緒に歩いていた。
メリヤナは社交的な笑みを浮かべながら、日傘越しにルデルに答える。
「はい。なんですか、ルデルさま」
ルデルは足を止めた。城門へと続く大園庭では虫の鳴き声が多く聞こえた。日光が眩しく、夏の終わりの緑を映え映えしくさせる。
「あなたは、その……大人になられたな」
「……はい?」
ルデルの突拍子のない発言に、メリヤナは目を点にする。
「なんというか……。以前のような無邪気さが薄れたというか、その、悪い意味ではないのだが、とても大人の女性に近付いているような気がする」
「それは……ありがとうございます」
何せ、そうあろうと努めているのだから。
フィルクに教えてもらったことが活きているのだろう。メリヤナは少し嬉しかった。
「私も頑張らねばな」
そう言ったルデルが、メリヤナの手を引いて日傘のなかに入り込んだのはすぐだった。驚く間もないうちに、額にふれた感触が遠ざかっていく。
「——良い香りだ」
優しく笑むルデルに、以前の大人になった彼の面影が見えたのは気のせいではないだろう。
メリヤナは、赤らむ顔を押さえながら、やたらと長く感じる城門までの道中を進んた。




