1話:かつての所業
「——私の〈唯一〉を、ドール公が娘メリヤナ・グレスヴィーに。この愛を彼女に、最愛を、彼女にささげます」
彼の、痛いほどの強い視線、熱、情が言葉にともなって、メリヤナのなかに注ぎ込まれるようであった。
あらゆるざわめき、人々の視線が、気にならなくなる。
深い海に呑まれるように、注がれる熱に火照るように胸が早鐘を打つ。メリヤナの目尻に水が浮かぶ。
返事は? と聞くあまりにも優しくおだやかな声音、そして答えを知っていながらも期待を欲望する低すぎない低音。それだけでメリヤナにはあふれるものがあった。不安を帯びているものをすべて払拭し、満たしたくなる。
両目からは、何度見せたかわからないものがこぼれ落ちた。空から、いつまでも澄んだ春の空が雨をこぼす。
答えはもちろん、決まっていた。
「——はい。わたくしも……、わたくしの血に通う愛の女神に誓って、〈唯一〉をあなたに。わたしの一生の愛を、あなたに——」
刹那に抱き寄せられ、体をかかげられる。薄紅色の裾が舞う。見上げられて見下ろして、そうすると彼が、かつてないほどの幸福を噛みしめたような笑みを浮かべた。
メリヤナも幸せを満面にたたえると、ふたりの唇が重なる。互いの誓いを胸に刻んだ口づけを受けて、会場からは割れんばかりの拍手が起きた。
思い込みも、勘ちがいも、すれちがいも、あった。
けれど今は、互いを想う。
——これは、わたしと、彼の、〈唯一〉を巡る物語。
*
そもそもの事の発端は、メリヤナ・グレスヴィーが一度死んだことにある。そう、死んだ。
処刑されたのだ。売国罪で。
ドール公の嫡子として生まれたメリヤナは、王太子ルデルアンの婚約者だった。生まれてすぐに婚約関係にあった二人は、幼い頃から一緒にいた。遊ぶ時も、学ぶ時も、時には寝る時も。メリヤナは、生まれたての雛のようにルデルアンに懐いたし、ルデルアンもメリヤナの面倒を見た。互いがなくてはならない存在かのように。
いつの頃合いだろう。それが、恋心に変わったのは。
気が付けば、メリヤナはルデルアンにぞっこんだった。それはもう、大、大、大好きだった。思い返しても、言える。
大好き。
これだ。
周りが見えなくなるほど、メリヤナは王太子に夢中だった。
子どもの頃はそれでも良かった。
問題になったのは、ふたりが成人し、社交界に出てからだ。
相も変わらずメリヤナは王太子を追い回していたが、王太子は、ある時からメリヤナを遠ざけるようになった。メリヤナが姿を見せれば、蝿でも直視したかのように顔をしかめて見せ、あからさまに避けるようになった。
これに、メリヤナは驚いた。
今まで押せば、満更でもなそうだったのに、急に距離を空けられたのだ。とてつもなく、不安になった。
不安を落ち着かせるための方法を、メリヤナは周囲への威嚇という形で表出させた。当たり散らし、わめき散らし、罵倒した。
王太子の近くに少しでも妙齢の令嬢の姿がちらつこうものなら、公位家の権力をもって牽制をかけた。
今考えてみれば、そんな姿を見たら、百年の恋も冷めるに決まっている。王太子からは、ますます嫌悪されるようになった。
そのくらいの頃合いだろう。王太子が、とある成り上がりの下位貴族の令嬢と頻繁に接するようになったのは。
今までの令嬢たちと、その令嬢との関係はまるで違っていた。夜会では、婚約者であるメリヤナよりも先に円舞をともにし、ひっそりと露台で言葉を交わす。
明るく天真爛漫を絵に描いたようなかわいらしい、されど大人っぽさもある令嬢に、王太子が夢中なのは明らかだった。
嫉妬に狂ったメリヤナは、その令嬢にとにもかくにも嫌がらせをした。地位や生い立ちを見下すようなありとあらゆる罵詈雑言を吐き、ならず者をけしかけてほんの少し脅すような真似もした。
今考えてみれば、なんと愚かな真似をしたのか。メリヤナの心は、ほんとうに幼かったのだ。
だから、断罪された。
新年を祝う夜会の折に、衆目の前で婚約破棄を申し渡された。
メリヤナは目の前が真っ暗になった。その場では理由は明らかにされなかったが、誰もがメリヤナの行いを知っており、暗黙の了解がその場を占めていた。
婚約破棄だけなら、まだ良かった。父公によって蟄居を命じられたメリヤナのもとに、新たに降りかかったのは売国罪だった。曰く、メリヤナは隣国エストヴァン国に、フリーダ王国の重大な機密を漏洩させ、王国から逃亡しようとした疑いがある、と。
身に覚えのない罪だった。抵抗する間もなく、あれよあれよと言うままに、王室裁判にかけられ、有罪が言い渡された。
処刑法として言い渡されたのは、火刑だった。
大罪人への一番むごたらしい処刑法である。火に炙られ、苦しみ抜いて死ぬ。
メリヤナは、最後まで泣き叫んで暴れた。その足元に火が届いた時、メリヤナは絶叫した。
そうして、火が肌を炙っていく、耐えがたい苦しみのなか、メリヤナは神に許しを求めた。もう二度と、恥ずべき行いはするまい、と。もう一度、同じ人生を歩めるようなら、二度と、人として悖らない行いをすることを誓い、絶命した。
その呪いとも言える言葉が、神に届いたのだろう。
冥府へと下る階段の最中、光が差した。
運命の神にして、王国の守護神であると自称する神は、かく語った。
「お前のせいで、おれは賭けに負けちまった!」
知るかである。
メリヤナは現世での苦痛によってその魂は疲弊し、絶望していた。そもそも守護神にして運命の神とは、美しく気高い女神のはずだ。中年男を思わせるような野太い声ではないはず。
相手にせず冥界への道を進もうとしたところで、慌てた神が言った。
「待て待て落ち着け。そのまま冥府にいっちまったら、おれでもなんとかできん。ここは交渉しよう」
「……こう、しょう?」
「もう一度、人生をやり直す機会を与えてやろう!」
頭を持ち上げると、そこには、見事な筋肉を構えた偉丈夫が佇立していた。
今まで、許しを乞うていたのは、こんな神だったのか。信仰していた神は、美しい女神ではなかったのか。運命の神とは、こんな筋肉男だったのか。
メリヤナは目眩がする思いだった。
そんなメリヤナの心中の思いなどつゆしらず、男神は悠々と語る。
「盤上をひっくり返すことで、もう一度、初手からはじめる機会をお前に与える」
「盤上……?」
「そうだ。おれの神としての、権能。〈運命の盤〉をもってして、お前に機会を与えてやる。今度こそ、生きろ。そして、我が国フリーダを救え」
「……何をおっしゃるのやら」
「お前が処刑されたあと、王国がどうなったか知っているか? エストヴァンの血筋の者を処刑したとして、やつらがフリーダに攻め入ってきたのさ」
メリヤナの高祖母が、エストヴァン国の皇女であることは言わずと知れている。だから、メリヤナにもわずかながら、隣国の皇家の血が流れていた。
思い至れば、ふと自嘲の笑みが溢れた。
(そう。わたくしの死を利用したのね)
エストヴァンは、ずっとフリーダに攻め入る理由を探していた。そういうことなのだろう。
「結果、王国は敗戦し、王族に連なる者は惨殺され、属国となった。おれが、負けた結果とも言える」
だからお前、と運命の神は告げる。
「生きろ。生きて、国を救え」
「……ルデルさまも殺されたのですか」
「そうだ」
愛した人間を救いたいだろう、という問いに、メリヤナはわずかな間ののち、こくりと肯いた。
「だったら、交渉——契約成立だ。おれの〈運命の盤〉の力を使って、この悲劇を巻き戻す。お前は、おれが負けないよう使命を果たせ」
「……ひとつ、よろしいですか」
今にも巻き戻そうとするのを止めて、メリヤナは言った。
「おう。なんでも聞け聞け。神に会えることなんて滅多にないからな!」
「……わたくしは、非道なことを行ったとして、処刑をされた身。戻った先で、自分の使命を忘れてしまうかもしれません。このような口約束で、よろしいのですか」
「ほう」
無精髭の筋肉神は、自分の髭を撫でながらその目をすがめた。
「お前はすでに〈浄火〉された身。そのようなことあるまいに」
「忘れてしまうのではないかと不安なのでございます」
時は、かつてあった感情を摩耗させる。
それは、メリヤナが王太子の姿を目にして、実感したこと。たしかに、自分たちのあいだにあったはずの親愛の情。時と、そして自分の愚かな行いによって尽きてしまった感情だ。
メリヤナは、国を救うという重大な使命を果たさなければいけない。愚かな自分は、時の流れに負けて忘却の沼へとその使命を沈めてしまうかもしれない。そうなっては、元のもくあみだ。忘れないための何か。使命を刻んだ何か。
この契約の確たる印が、欲しかった。
「——良かろう」
野太い声が言った。
「お前がそこまで言うのであれば、証として、刻印を授けてやろう」
刻印? と疑問を覚えるまでもなかった。左肩にひりつくような痛みを覚えて、咄嗟に手でふれる。肉体は焼かれ、もう痛みは感じないはずなのに、体が感じているかのような痛みが、左肩に疼いた。
「それは、魂の刻印。神との契約の証。体が戻れば同じ場所に印が表れ、契約が成されれば、印は消えよう」
「印……?」
「神の象徴として、橄欖の葉が二枚。それから特別に実を付けてやった。実は一度のみ、おれに会うための符として使えるぞ」
感謝しろ、と得意げに男神が言った。
ひりつく痛みでそれどころではなかったが、メリヤナは首肯した。
「では、〈運命の盤〉を使おうか」
太い声が念押しするように言って、巻き戻しがはじまった。視界に映る像が、遡って展開していく。メリヤナの体から時が吸い上げられていく。
(葉が、二枚……)
遡及する視界のなかでぼんやりと考えていると、火刑に処せられた尋常ではない痛みが再び訪れて、思考どころではなかった。叫ぶ間もないうちに終わり、そうして、新年の夜会、舞踏会、王宮、公位家の屋敷、社交界への顔見世まで巻き戻ってから、しばらくして唐突に終わりを告げた。
はっとすると、目の前に心配そうに首をかしげる少年の姿があった。
「——メリヤナ?」
声変わりもまだすんでいない王太子ルデルアンの姿が、そこにはあった。