17話:やわらかくてふわふわしたもの
北部のほうで雪がちらついたらしいという噂を耳にしたけれど、王都には春の訪いがすぐ近くのところまでやって来ていた。扁桃の桃色の花や、ミモザの黄色い花が、王都の街中で目にするようになった。
時折雨は降るが、海南諸島のほうからやってくる南の風が吹く日もあり、風が桃や黄の花びらを散らしていくさまは、春を感じさせた。
メリヤナがやり直しを初めて、間もなく一年が経とうとしている。
子どもの頃の一年はとても長く感じていたというのに、精神の年齢が19くらいになると、一年なんてあっという間だ。
しばらく以前の夢を見なくなったけれど、メリヤナの奥底には、あの苦痛と絶望が澱となって沈んでいる。石が投げられれば、沈殿していたものは再び舞い上がり、水は澱むことになるだろう。
これは、メリヤナが一生をかけて償わなければいけない罪。
成さなければいけない使命。
誰に頼ることなく、抱え続けなければならない。たとえ、飛ぶように月日が過ぎ去っていこうとも、メリヤナは婚約破棄を回避し、王国滅亡の運命を変えなければならない。
左肩の刻印は、メリヤナにしか見えないものだったが、だからこそ、思い出させてくれるものだった。
「こんなんでいいのかな」
一人でやっていると、それが正解なのかどうか、いつもわからなくなってしまう。定期的に不安になる。
神さまなのだから、合っているよと星を輝かせるくらいの反応はして欲しい。もしまた、メリヤナが誤った道に進んでいたらどうしてくれるというのだ。
——おそらく。
この印に描かれた橄欖の実に願えば、あの筋肉神と再びまみえることができるにちがいない。あの神はそう言っていた。
けれど、その機会は一度のみ。
漠然とした不安があるからと言って、使っていい代物ではないことはわかっている。
もし使うとなったら、ほんとうに追い詰められた時。やり尽くしてどうしようもなくなって、次の手を打ちようがなかった時。
そうなったら、神にまみえる機会を使おう。
だから今は、己の精神の修養と思って、自分が正しいと思った道をいくしかない。
「はあ……」
溜息がこぼれる。行き先は不安だらけの航海だ。
「——どうしたんだい?」
冬の一ヶ月のあいだ領地に戻っていた両親は、つい数日前に王都の屋敷に戻ってきていた。またどっさりと土産を持参して、娘に甘い両親だった。
今回は海藻が含まれないことに安心しつつ、土産のひとつである甘橙の砂糖漬けを麦粉焼に塗って、かじりつく。こんがりと焼かれた麦粉焼の香ばしさに、甘橙のさっぱりとした甘さはとても相性がよくて、メリヤナは目を細めた。
もぐもぐとよく噛んでから呑み込むと、父に返答した。
「やわらかくてふわふわしたものって何かなって思っていたの」
「やわらかくて、ふわふわしたもの?」
なんだそれは、と父ファッセルが怪訝な顔をする。
父に続いてすぐに食堂に入ってきたスリヤナが続きを受けた。
「それが何なの?」
「何かそういうものを思いついたら、うちの名産にならないかなって考えていたの」
考えていたことは全然別のことだったが、やわらかくてふわふわしたものについて考えていたことも事実だ。抽象的な答えなので、両親がわからないのは当たり前だった。
スリヤナは眉をひそめたが、すぐに問いを変えた。
「あなたは商人にでもなりたいの?」
「ちがうの。うちで売っている名産が増えたら、もっと領地が潤うでしょう? そうしたら、領民も幸せだしわたしたちも幸せだから、いいなあって」
メリヤナはミラルの葉の一件から、ずっとやわらかくてふわふわしたものについて考えていたが、それが何か良い形で商品化することができたら、ドールの特産品として商いを行うことができると考えていた。
自分自身の気持ちも叶えられて、領地や父母のためになるのであれば、一石二鳥だと思っていたのだ。
「……なるほどねえ」
「やわらかくてふわふわしたものをとりあえず言っていけばいいのか?」
と父ファッセル。メリヤナは首を縦に振った。
「であれば、この麦粉焼のなかはどうだろう?」
たしかに、やわらかくてふわふわである。麦の味と牛酪の香りが合わさって、口の中に入れると甘みがある最高の主食だ。
「あとは、羽毛とかもあるな」
「羽毛のなかに飛び込むことができたら幸せよね」
母スリヤナが同意した。
羽毛は寝具や寝台に使われるものなので、あまり羽毛が固まっているところを目にしたことはないけれど、想像すると、ふわふわとして心地が好さそうだと思う。
「野ウサギの毛皮も、ふわふわしていてやわらかいわ」
「あたたかいしな」
「あとは羊毛もそうね。刈ったばかりの毛はとても気持ちがいいもの」
「たしかに羊自体がふわふわしているからな。——お、メリヤナ、まだあったぞ」
心地がよいものというのは、女性のほうが思いつきやすいのだろうかと考えていると、父ファッセルが膝を打った。
「麦酒だ!」
メリヤナと母スリヤナの冷たい視線が父に当てられる。
酒好きの父らしい発想に、がっくりと項垂れた。
「麦酒なんて、ただの液体じゃない。全然やわらかくてふわふわしてないわ」
「お前は酒を飲まないからわかっていないな。麦酒の表面の泡が、やわらかくてふわふわしているのだよ」
お酒くらい飲んだことあるわよ、と内心で毒づく。巻き戻される前の話ではあるけれど。
「泡が口周りにつくと、とてもやわからかい感触なんだ。ふわふわしていてそこから、金色の水が流れてくると、空の上を歩いているような気分になる」
「泡……ねえ」
父の続く酒談義は耳から耳へと流し、メリヤナは泡について思う。
麦粉焼や、羽毛、毛皮や羊毛は、水に浸してしまうと、そのやわらかさとふわふわ感はなくなってしまうかもしれないが、泡であれば。
入浴もまた水や湯などを使うから、多くの泡に囲まれて肌を包むことができたら、たしかに気持ちがよく、心地いいかもしれない。
そうしたら、もう少し多く湯浴みをできるかもしれないなと考えていると、思考を中断させるように、金属音が鳴り響いた。
「ちょっと、あなた何をしているのよ」
スリヤナが父を咎める声が聞こえる。
ファッセルが茶器に入った茶をひっくり返したらしいというのは、見てすぐにわかった。白い卓布が紅色に染まっていたのだ。
「すまないすまない」
「お酒の話ばかりしているからですわ。まったく、もう」
言いながら、父を溺愛しているスリヤナは一切怒ってない。なんならそんな失敗だって魅力のひとつだと言い出しそうである。
メリヤナは、こっそりと溜息をついた。
「——すぐにお取り替えいたします」
すかさずやって来たのは、客間女中のひとりだった。さっと卓布を新しいものに変えるさまは手際が良い。
「その汚れた布はどうするの?」
メリヤナが興味本位で尋ねると、女中は笑顔で答えた。
「洗濯室に持って行ってすぐに洗いますわ、お嬢さま」
「そう。お仕事を増やしちゃって、ごめんなさい」
いいのですよ、と朗らかに答えるさまはさすが客間女中だった。何事もなかったかのように片付けを終えて、新しく茶を運び入れると去っていった。
「——ねえ、お母さま」
静かに朝食の続きを再会したスリヤナに、メリヤナは声をかけた。
「わたしって、洗濯室を見学することできる?」
「どうしたの、突然」
スリヤナが驚いたように食器を動かす手を止める。
「さっきみたいな時って、みんなに迷惑がかかるでしょう? 一応、わたしはこの家の娘だし、自分に仕えてくれている人がどういう仕事をしているか見ておこうと思って」
思いつきではあったが、少なからず以前から、女中たち使用人がどのように働いているのか興味があった。かつてのメリヤナは、使用人たちをまるで物のように思っていたけれど、彼らもまた一人ひとり人間だ。今のメリヤナには知る必要があることだった。
母は感心したように、手を口元にやる。
「まあ」
「お母さまは、この家の女主人だし、女中たちを束ねる役割があるでしょう? どうにかしてもらえない?」
両手を揃えてお願いの仕草をすると、スリヤナはにこにこと笑みを浮かべた。
「良い心がけね、メリヤナ。さすがは、未来の王太子妃というところかしら?」
「……まだ決まってないわ」
「いいわ。わたくしが、洗濯室に声をかけておきましょう。見学をしていらっしゃい」
「ありがとう、お母さま!」
母は慈愛を込めた笑みを浮かべ、父もまたさきほどの騒ぎはどこ吹く風で、明朗な笑みをたたえて、メリヤナを見つめていた。




