16話:葉の使い方
湯浴みをしたい、とカナンに言うと、手ずから盥で湯を運び入れてくれたのだろう。重労働だったにちがいないが、カナンは、文句ひとつ言わずに、すぐに浴室の準備を整えてくれた。
「悪いわね」
「いえ、とんでもございません。珍しいですね。お嬢さまが三日と置かず、入浴されるのは」
以前と比べて、メリヤナとカナンの雑談は増えた。前だったら、メリヤナは労るような声掛けをしていなかっただろうし、カナンは、とんでもございません、で会話を終えていただろう。そういえば、彼女の堅かった表情も幾分やわらかくなったように思う。
「フィルに、もうちょっと頻度高く入浴するように言われたの。あとは、ちょっと試してみたいことがあって」
「フィルクさまにでございますか?」
「そう。湯浴みをして清潔に保ったほうが、いい匂いがするんですって」
「フィルクさまは、よく湯浴みをされるのでしょうか?」
手際よくメリヤナの寝衣を脱がせながら、カナンは訊いた。
「なんでも夏場は毎日、冬でも三日に一回は入浴するそうよ」
「それは、その……とてもよく入っていらっしゃいますね」
浴室には朝の光が入り、それだけで陶板の床が反射して、明るく室内を照らす。浴室全体がきらきらと輝いているようだった。
「なんというか……、潔癖のようですね」
「潔癖?」
湯に足を入れる。あたたかな水が、体をふるわした。
「ええ。神官さま方のなかには、そういう方がいらっしゃるそうです。神官さま方は毎日沐浴されますから、潔癖な方もいらっしゃるそうで」
「えーっと、汚れを極端に嫌うってこと?」
「そのようですよ」
「ふーん」
たしかに、フィルクには潔癖の気があるかもしれない。外に行く時は、薄い手袋をしていることが多いし、室内で何かをさわった時などは、必ず手を拭っている気がする。
あまり気にしたことはなかったが、今度観察してみようと思いながら、湯を肩からかけてもらった。
「こちらの葉でしたか?」
カナンに台の上から取ってもらったのは、ミラルの葉だった。フィルクからもらい受けたものだ。
柑橘の甘酸っぱさと清涼感のある香りに、期待が高まる。
「うん、それでちょっと背中を擦ってもらってもいい?」
「承知いたしました」
この数日後、メリヤナはフィルクに囂々と文句を垂れることになった。
「——ぜんっぜんっ、気持ちよくなんかなかったわ!」
メリヤナは、フィルクが私室の居間に通された瞬間に、憤然と言った。
「ミラルの葉のこと?」
カナンに外套を優雅に預けながら、フィルクが確認する。
「そうよ。気持ちいいどころか、ひりひりしたし、なんならすーすーして、肌寒かったくらい!」
「リヤは、どうやって使ったの?」
「布の代わりに、直接当てて擦ったの」
答えれば、フィルクは声を立てて腹から笑った。おかしくてたまらないと言った様子で、人の家だというのも構わず、椅子に反り返って笑い転げる。
「ちょっと!」
「あー、いや、それはひりひりにするに決まってるよ」
笑いすぎて目尻に涙が浮かんだらしい。すぐに指で拭うと、その指をさらに手巾で拭っていた。
(そういえば、あの手巾はどうしたんだろう)
フィルクが使っていた手巾は、黄緑色のもので、ファルナ公女に刺繍をしてもらった白いものではなかった。あれから一度も目にしていないような気がしたが、手巾は数十枚持っていておかしくないものだ。メリヤナがただ目にしていないだけだろう。
それよりも。
「決まってるってどういうことよ」
恨めしげにフィルクに視線をやる。
まだ笑いが止まらない様子のフィルクは口元をひくつかせながら、答えた。
「だって、ミラルの葉って直接当てて使うものじゃないから。頭痛とか、痛みを止める時には直接使ってもいいけどね」
「それ、聞いてない!」
「ごめん、使い方を知らないなんて思ってなかった」
ほんとうにごめん、と詫びながら顔は笑っている。
メリヤナが、不機嫌そうな顔を続けていると、香茶を準備したカナンがふふっと笑いながら言った。
「ローマン公子、もしよろしければ、後学のためにも正しい使い方をお教えくださいな」
まさか、カナンがフィルクの前で口を開くとは思っていなかったので、びっくりする。目を丸くしてカナンをまじまじと見つめていると、フィルクのほうがこちらに視線を合わせてから、軽い調子で答えた。
「いいよ」
「ありがとうございます」
盆を下げて参りますね、とカナンが一度居室を下がると、フィルクが囁いた。
「仲良くなれたようで良かったね」
「う、うん」
フィルクが自分事のように嬉しそうに微笑むので、メリヤナはさっきまでの怒りはどこかに吹き飛んでしまった。はにかんで肯くと、フィルクもまたにっこりと笑った。
「お聞きしてもよろしいでしょうか?」
戻ってきたカナンは記帳を手に持っていた。真面目である。
フィルクが語ったのは、まずミラルの葉を水出しするところからだった。井戸から上げたばかりの冷たい水で、三時間程度漬けておき、その水を使って体を拭うのだという。
「綿とか絹じゃなくて、できれば亜麻布がいいかな。そのほうが汚れは落ちやすいから」
「わかりました。湯浴みをしたあとに、ミラル水に浸した亜麻布を使うのですね?」
「そうそう。これは別に湯浴みをしなくても、寝る前に体を拭う時に使うのにもいいよ。僕は入浴しない日はそうしてる」
やっぱり潔癖の気があるのだろう。フィルクは事もなげに付け加えた。
「早速、明日お嬢さまと試してみます」
「うん、そうしてみて」
メリヤナの意見など、まったく無視である。いつの間にか、ふたりのあいだで為されることが決まっていた。
翌日、湯浴みをしたあとに、ミラルの葉を漬けた水で体を拭うと、たしかにさっぱりとしていて気持ちよかった。カナンの力加減も良かったのだろうが、擦ったあとのひりひりとした痛みがなく、少しだけすーっとする爽快感だけが残った。
「良い匂いでございますね」
今、自分の体からは、フィルクと同じ香りがするのだろうか。
そう考えると、胸のあたりがぞわぞわとするような心地がして、メリヤナはかぶりを振って打ち消した。
「そうね」
少し物足りないと思うのは、自分だけだろうか。たしかに気持ちがいいし、いい香りもするのだが、何かもっと気持ち良いものだといいのに。
(……そうだ)
たしか、あの娘——サレーネも、良い香りがすると評判だった。特に男たちからの評判がよく、香水ではない甘い清潔感のある香りがするということで、一時社交界では話題になった。
思い返してみれば、ルデルはサレーネ嬢とすれちがった時、はっとしたように後ろを振り返っていた。あれは、フィルクのいう香りの効果なのかもしれない。
同じような匂いをさせれば、ルデルは自分のことを振り向いてくれるだろうか。サレーネと同じ香りをまとえば、ルデルは自分を選んでくれるだろうか。
悶々と思考を巡らすと、気鬱になってしまう。
メリヤナは一呼吸ののち、考えをあらためた。
ミラルの葉はたしかに気持ちがよく、香りも良い。けれど、もっとやわらかで、ふわふわとした気持ちのよいものがあれば、フィルクのような潔癖の気がなくても、入浴をしたくなるというものだ。
入浴を習慣的に行うためには、もっと心地の好いものが必要だな、とメリヤナはぼんやりと思った。




