14話:ミラルの香り
一年目のやり直しの冬は落ち着いたものだった。
年末に行われた〈炎の洗礼式〉で、フィルクはメリヤナに先立って大人への階段を一歩踏み出した。
直前に14になった彼に、メリヤナは誕生日の贈り物として、貴公子向けの飾紐を贈った。
公子たちは、洗礼を迎えれば本格的な紳士教育が行われるが、その練習に当たって襯衣に結ぶ飾紐は必需品だった。社交界に顔見世を行えば、胸元の飾紐は礼式として結ばなければならない。
自分が飾紐をもらったから、飾紐を返すというのは、いささか芸がなかったかもしれないが、フィルクはとても喜んでくれた。
「ありがとう。とてもいい色合いだね」
フィルクには薄い色が似合う。色白で、浮かんだ血管や白目の部分が青く見えるから、特に寒色系の淡い色が合っていた。
浅葱色はもしかしたら少し大人っぽすぎたかもしれないと思いつつ、灯に照らしながら織模様を眺めて、「へえ」とつぶやいている様子を見ると、気に入ってくれたようだった。
「せっかくだから、リヤに結んでもらおうかな」
僕も結んであげたし、とフィルクはにっこりと笑う。
「えっ」
辺りを気にするが、フィルクの屋敷の図書室には今はふたりしかいなかった。
外では雨粒が窓枠に跳ね返る音がする。冬になって、雨季に入り、外も寒くなると、メリヤナとフィルクは互いの屋敷を往復することが増えた。
「え、でも、わたし、男の人の飾紐なんて結んだことがないよ」
さすがに胸元までいくとなると距離感的にどうなのだろうかと、焦りを覚える。いくら互いが友だちという認識であっても、節度のある距離というものがある。
「大丈夫。誰も見てないし、適当でいいって」
ね、と言うフィルクは、メリヤナの懸念など思い至ってもいないらしい。
自分ばかりが気にしても仕方がないと、深々と溜息をついてから、メリヤナは応じた。
「仕方ないわね」
もやい結びでもしてやろうかしらと悪戯心を持て余しながら、飾紐を受け取り、フィルクの胸元に結びを施す。
会った頃より、彼の身長は伸びた気がする。そういえば、声も最近はかすれて聞こえて、まるで風邪でも引いたようだった。声変わり、なのかもしれない。
不意に首元から、良い香りを感じた。柑橘のようなすっと鼻のなかを抜けていくようなさわやかな匂いだった。
急に、鼓動が胸を打った。動揺が手に汗を浮かべ、上手く結ぶことが難しい。
なんとかできあがったのは、蝶々結びだった。
「で、できた……」
「ありがとう」
ご機嫌な様子でフィルクは、できあがった蝶部分をちょんちょんと両側に引っ張る。その様子に、さっきまでうるさかった鼓動が落ち着きを取り戻して、メリヤナはくすっと笑ってしまった。
「……かわいい」
「は?」
聞き逃さなかったぞと言わんばかりの形相で、フィルクが詰め寄ってきたので、メリヤナは咄嗟に両手を出して一歩下がった。
「今、僕のこと、かわいいって言った?」
「だって、仕草がかわいかったんだもん。ちなみに言ってなかっただけで、前々から思ってたわよ」
言いわけせずにそういえば、盛大な溜息が聞こえてきた。
「かわいいって言われて嬉しい男なんていないんだけど?」
フィルクが嫌味っぽく言う。
「でも、フィルって会った時から笑顔が御使いさまみたいにかわいかったわよ」
言われて落ち込んだらしい。フィルクは、がっくりと肩を落とす。
「僕はこの顔が嫌いなんだよ」
「そんなことないよ。フィルはたしかにかわいい顔をしているけど、それって大人になったら整った素敵な男性になるってことなんだから!」
自信を持って、と告げれば、彼の変わり身は早かった。
「そうだよね! 僕もそう思っていた。僕ってば、大人になったら絶対甘い顔のいい男になると思う」
「……え、ええ」
そこまでは言っていない。
この人、少し自己陶酔的なところあるのかしら。
けれど、機嫌を取り戻したらしいので、メリヤナはほっとした。話題を変えるために、別のことを口にする。
「そういえば、フィルっていい匂いがするのね」
さっき感じた香りだ。何か香水でも付けているのだろうか。それにしては、自然な匂いで、どこか懐かしさを感じる香りだった。
「ん? ああ。ミラルの葉かな? よく入浴をするから」
「入浴、よくするの?」
いい匂いの正体はミラルという葉らしい。それよりも、メリヤナは入浴の習慣のほうが気になった。
「うん、冬になったから三日に一回くらいに減ったけど、夏は毎日かな。清潔にしておいたほうが、体にいいし、気持ちもいいからね」
なんときれい好きなのだろう。
冬に三日に一回というのは尋常ではない頻度だ。ふつうは、週に一回程度。おそらく十日に一回くらいの人間だっているはずだ。
「そうなんだ。ミラルの葉は何に使っているの?」
「体をこする時だよ。そうすると、汚れを落とすこともできるし、香りもするから」
気分がいいんだよね、とフィルクは言う。
「そうなんだ」
「あ、今、他人事みたいに思ったでしょ?」
もちろん、他人事だ。さすがに、そんな頻度で入浴するのは気が引ける。
「リヤに、僕が教えた皇族秘伝メロメロ大全のこと——」
「覚えてるから、その長ったらしい名前はもっと短くして」
名前にこだわりでもあるのか、とメリヤナは嘆息しつつ、教えられた内容を思い出す。
〝いい匂いをさせよ〟
まちがいなく、これだ。
「いい匂いをさせるって教えよね? 思ったのだけど、なんの役に立つの?」
「リヤは全然わかってない」
すぱっと一刀両断された。
わからないから聞いているというのに。頬を膨らませようとすれば、間髪を入れずにフィルクが解説した。
「少し近寄った時とか、すれちがった時にいい匂いがすると、ついつい後ろを振り返ったりとかして、確認をしたくなるものなんだよ」
ぐうの音も出ない。今さっき、メリヤナはフィルクに確認したばかりだ。
「その匂いが別のところで香った時には、その人のことを思い出したりとか、匂いってそういうものだよ。人に印象付ける効果があるんだ」
言われてみれば、なるほど。
たしかに、ふとした花の香りで昔のことを思い出したりすることがある。
「——だから、リヤもいい匂いをさせるために、入浴の習慣を身に付けないとね」
フィルクは得意そうに笑った。




