148話:帰途(4)
街道沿いに順調に帰途を進めるなかで、一度野営をしなければいけなかった。宿場に向かうと遠回りになってしまうことから、野営となった。
数瞬間ぶりのごつごつとした寝床になるものの、行きと異なって、メリヤナの心は弾んでいる。フィルクがいるというだけで、浮かれている。
行きで慣れたのもあって、道中で摘んだ虫よけや蛇よけなどの薬草類を薬研で細かくすると、鉢で樹皮の粉末と混ぜてその粉を周囲に撒いた。つんとした香りが立ち込める。
樹皮の粉末には薬草の香りを長持ちさせ、芳香を拡散させる効果があるのだとグランから習った。
そこからまたグランやフィルクの様子を見て、必要そうなことを手伝う。
「慣れてるね」
「さすがに何回も同じことを目にしてれば、少しはできるようになるわ」
「まさか公位家のお嬢さまが野営の準備ができるなんて、だれも思わないだろうね」
フィルクが言えば、たしかに、とメリヤナは笑った。皇子さまもふつうはないと思うわよ、なんていう話をする。
今後あまり活用することもなさそうな経験と知識ではあるが、非日常の活動というのは楽しいし、わくわくする。行きと異なって安心もあったから、十分に非日常を味わうことができた。
食事を終え、火を囲った就寝の時間になる。メリヤナは炎から少し離れた場所に就寝場所を取ってもらっていた。三人で話をしながら、眠気を覚えて目を閉じる。そのまま、すうっと寝入った。
目が覚めたのは、朝ではなく夜中だった。
ばちっばちっという薪の音がする。営火を挟んで向かいに、グランが立膝をついて座るように眠っていた。グランとメリヤナのあいだに、フィルクが眠っていた。
炎には薪が足されていて、まだ燃え尽きる気配はなく、爆ぜるこわい音だけがする。
野営をする時はいつも疲れ切って朝まで眠っていたが、もしかしたら今日は体が興奮しているのかもしれないと思う。浮かれていたせいだろうか。
炎を見つめるのはやはり怖い。
少し離れていても、自分だけ起きていると思うと、余計に怖く感じた。亜麻布のなかに潜って身動ぎする。赤子のような体勢になって自分を抱え込んだ。
「——どうした、リヤ」
透明な声があって、メリヤナは、はっとした。
ゆっくりと布から顔を出すと、フィルクが目を開いてこちらを見ていた。
「起きてたの?」
それとも起こしてしまっただろうか。
そんなに音は立てていないはずだが、敏感な彼を起こしてしまったのかもしれない。
「半分、寝てたかな。動く気配があって、警戒して目が覚めた」
「ごめん、起こして」
「大丈夫。元からあまり寝なくても平気なタチだから」
「そうなの?」
「うん。三時間くらい眠れれば問題ない」
「すごい。わたしは八時間は寝たいわ」
メリヤナが言えば、フィルクは笑った。
この数週間で、随分とやわらかい表情をするようになった。もとからメリヤナの前では笑っていることが多かったが、なんと言えばいいのだろう。自然な笑みを浮かべることが多くなったように思う。
「じゃあ、僕はメリヤナのかわいい寝顔を五時間は見れるね」
「ええーっ」
そんなことを思っていたら、フィルクから飛んできた台詞に思わず声が出た。
グランを起こしてないかと一瞥したが、動く様子はなかった。ふっと一安心する。
朱が昇った顔は熱い。薄い亜麻布のはずなのに熱かった。
最近こんなことばかりだと思いながら、メリヤナはフィルクを睨むように見やる。
「よくそんなこと言えるわね」
恥ずかしくないのか、とメリヤナは思う。一応グランは寝ているはずだから今はまだ良いのだけれど、最近は、状況構わず会話のなかに平気でそういう話題を入れ込んでくる。
表情がやわらいでいっているのと比例するように、これまでは匂わせるだけだったものを堂々と言い放ってくる。すぐに顔色に出てしまう自分の表情や血流が憎たらしくなるくらい、フィルクは直球でも変化球でも投げてくる。鼓動も落ち着かない。
メリヤナは終始赤面しっぱなしだった。
「思ってることを言ってるだけだよ」
ほら、そうやってのたまう。
メリヤナは顔を見せられなくなって、亜麻布のなかに潜り込むしかなかった。
楽しげな小さく笑う声が聞こえる。その声が立ち上がって、すぐそばまで来た。メリヤナの背後に立って、それから音がして、空気がふんわりと布越しに動くのを感じた。
メリヤナの後ろにフィルクが移ってきたのだとわかって、胸がさらに落ち着かなくなった。
「眠れないなら近くにいるよ」
フィルクはおそらくメリヤナを思いやって行動に移してくれたのだろうが、メリヤナからすれば逆に鼓動が高まってしまって、全然眠れる気がしなかった。耳のなかに心の臓があるかのように、うるさい。
「それとも、もうちょっと近くにいこうか」
やめてよ!
心の叫びとは裏腹に、メリヤナのなかで期待するものがあった。
背後の気配が近くなって、布の塊ごと包まれる。あたたかくミラルのたくましい体が布ごしに感じられて、鼓動が早くなるのと一緒に安心するような心地を得た。
安心しつつも、胸がどうしようもなくなってしまって、あらがおうと後ろを振り向くと、重なるものがあった。
数瞬、重なって離れる。
フィルクが悪戯に成功したかのような満面の笑みを浮かべていた。
「引っかかった」
「フィルっ」
言って、また重ねられる。
今度はふれるだけのものではなく、深かった。入り込むものがあって、同じものが絡み合う。
はじめて重ねられたものから数えると、もう何度交わしたかわからない。
けれど、毎回どきどきして、新鮮で、気持ちがよく、甘い露のようであった。ふれ合っているところから、胸のなかに、内側にどんどん沁み込んでいくような、そんな心地がする。
ずっと、こうしていたい。この心地を味わっていたい。
いつも、そう思った。
離れると、抱き寄せられた。フィルクの胸元に寄せられる。あまりにも幸せな気持ちに満たされていて、もう何もかも、どうでも良かった。帰ってから片付けなければいけないものがあることも、今はどうでも良かった。
「——少し、落ち着いた?」
そんな声が上からかかる。
案じられているのだとわかった。なにか心配してくれているらしい。
落ち着いたか落ち着いていないかと聞かれれば、今先ほどまでの交歓で、体の状態はあきらかに後者だったが、気持ちは落ち着いている。
「……うん」
「炎が、いやだっただろ?」
確認されて、メリヤナは驚いてフィルクを見上げた。言ってないのに、わかったのだろうか。
「どうしてって顔をしてるけど、わかるよ。僕のためなら何度だって焼かれるって言ってたけど、それでもやっぱり火がこわいのは変わらないだろ? そんなすぐに慣れるような経験じゃないって、わかってる」
「……うん」
「リヤの気持ちはわかっているし、あの言葉が最高にうれしかったからこそ、君を火に追いやるようなことはしない。絶対にしないし、させない。それはこれから誓うよ」
言って、額に口づけられる。
メリヤナはフィルクのそんな気持ちに対して、自分の高まった気持ちの扱いに困った。困って、目の前の唇に自分から軽く唇を寄せる。胸元にすり寄れば、吐息がかかった。甘い息だった。
「リヤ……」
またもや重ねられて、それから今度は唇が輪郭を沿って、耳元に移った。耳朶をやんわりと噛まれ、それから首筋に下がっていく。
「……は……ぁっ」
胸元にうっすらと浮かんだ汗を拭われるように這われて、メリヤナはいつかの時と同じように声が出た。
そうすると、ぎゅっと今度は抱き締められた。あまりにも強い力に、熱せられた感覚が熾火に成り代わっていく。
「……変な声、出さないでよ」
「……出させたのはあなたじゃない」
互いに恨みがましくそう言って、そのあとメリヤナは、フィルクのぬくもりにまどろみを覚えて、気づけば心地よく寝ついていた。
「はあ……」
——フィルクは、自分の胸のなかにあるぬくもりに愛しさを覚えつつも、体の奥に灯ったものを持て余す。
すうすう、と寝息をたてる姿に安心したが、同時にあまりにも無防備すぎて呪わしい。
口のなかに残る彼女の味とふれ合い、今もたちのぼる扁桃のにおいが、体の中心より下を起こしたようだった。体の位置を変える。これ以上の刺激を得ないように位置取った。
眠れる気が、しなかった。
「五時間……か」
うれしいような、拷問のような、長い時間だ。
もう一度溜息をつく。
フィルクの溜息に察するものがあったのか、さっきから起きている様子だったグランがうっすら目を開いて、お疲れさまです、と言わんばかりに頭を一度下げた。