13話:引いてみた結果
それから数日、メリヤナはカナンに対して何も問いかけることをしなかった。そうすると、カナンはやはり静かなもので、がっくりと落胆する。
(やっぱり上手くいかないのだわ……)
不安にさいなまされて、こちらから問いかけようかしらと思った矢先、変化はあった。
三日目のことだった。
「——お嬢さまは……その、最近どうしてわたくしに話しかけられたのですか?」
眠る準備をしていた最中だった。
飲むと落ち着く香茶を飲んでいた時で、メリヤナは驚いてむせてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てたカナンが、手巾を持ってくる。
「大丈夫よ。こぼれていないわ」
「良かったです」
慌てるカナンもほっとするカナンもはじめて見た気がする。
「申しわけございません。わたくしが変なことをお聞きしたせいですね」
「ちがうのよ! ちがうの! ただ聞いてくれたことにびっくりして、嬉しかっただけなのよ」
メリヤナは思いっきり首を横に振った。
「その……実は、あなたと仲良くなりたいなあ……って思っていて。それで、その、色々知りたかったというか……」
「わたくしと、ですか?」
カナンは目を丸くする。
「えと、わたしはお友だちが少ないから、なんていうか、その……親しく気軽に話せる同性の友だちが欲しいなあと思っていて……」
段々と話していて、恥ずかしくなってきた。いきなり主人からそのようなことを言われたところで、困るに決まっている。
ちらっとカナンの顔を窺ってみれば、やはり困惑した表情を浮かべていた。
「……こんなこと言われても、困るわよね」
押して押して引いてみたはいいものの、このあとどうすればいいのかわからず、メリヤナは言葉に詰まった。
「困るというよりは……お嬢さまには、もっと見合ったご友人がいるのではないかと思います。わたくしとお嬢さまでは、あまりにも身分がちがいます」
平民の娘と位家の娘。身分ちがいも甚だしい。
おおよそ身分を越えた付き合いというのは、婚約関係などの特殊な関係がなければ、存在しない。身分というのは垣根のようなもので、隣の芝生の様子は窺い知ることさえできないのだ。
——けれど。
別に、誰かと親しくなるのに身分など関係ないのではないだろうか。
「たしかに、カナンの言うように、わたしたちには身分差があるけれど、仲良くなっちゃいけないってことにはならないと思うわ。そりゃあ、もしかしたら、お友だちっていうのは難しいかもしれない。でも、仲良くなってもいいはずよ」
「お嬢さま……」
「だから、ちょっと考えてみて。……もし、カナンがいやだったら、それは断ってくれていいから」
「……わかりました」
カナンは少しの間ののち、名状しがたい表情で返事をしてから、香茶と共に下がっていった。
メリヤナは、寝台のなかに潜り込む。
なんとも言えない侘しさが胸中を塞いでいく。
(無理かもしれない)
誰かと仲良くなるなんて、メリヤナにはできないことなのかもしれない。
きっとこれは罰なのだ。以前、女中をはじめとした使用人たちに当たり散らしてばかりいた時の罰。
むしろ、フィルクとあんなに親しくできていることのほうが奇跡なのかもしれない。
もしかしたら、それさえも夢なのかもしれない―—……
夢は、メリヤナを蝕む。
——ああ、これはいつかの宮中舞踏会でのできごとだ。
成人して一年、ルデルの婚約者として招待された舞踏会。この頃だ。彼が、あのサレーネと知り合ったのは。
「——ご覧になってくださいませ、メリヤナさま」
そう言ったのは、メリヤナの取り巻きとも言える令嬢のひとりだった。もう名前を思い出すこともできない、表面的な付き合いだけの彼女。メリヤナのご機嫌を取るためだけに、彼女は囁く。
「先日に引き続き、殿下はまたもやあの娘と話しております。位家でもないのに、なんと無礼なのでしょう」
「位家でないところか、庶子の娘というじゃありませんか」
付け加えたのは、また別の令嬢だった。
メリヤナは、不安だった。明るく無邪気な笑顔を見せる娘と、慕わしい優しげな笑みを浮かべる王太子。メリヤナは最近、ルデルから避けられていた。なぜなのかはわからない。その不安は苛立ちとなって、メリヤナを追い詰め、家財や使用人に八つ当たりをすることで発散するしか術を持っていなかった。
どろりと瀝青のような泥が底で音を立てたのは、限界だったからだろう。
「——庶子の娘風情が生意気だわ」
メリヤナが、遠くにいるサレーネを睨めつけながら言えば、取り巻きの令嬢たちは喜んだ。そうでしょう、そうでしょう、本当に生意気ですわ。
これが、おそらく一番の分岐点。
最大の汚点。
それから、すべてが歪んでいってしまった。
そんなメリヤナを、冷たさと怨恨を込めた瞳で睨んでいるものがいることなど知らなかった。
寝起きは、最悪だった。目の下には隈ができているかもしれない。
夢を見ると、必ずやり直す前のことを見る。まるで、己の罪を忘れるな、と呪詛をかけられているように。
鏡を覗き込むと、案の定、げっそりとした顔の12歳の姿があった。
疲労感がまるで老婆のようだと思う。一晩で、何十年も年老いたようだった。
「——おはようございます」
時を置かずして、朝の支度に来たカナンが立ち上がっているメリヤナを見て、ぎょっとした。表情に出すことが珍しいカナンは、けれど、いつも通り朝の支度をこなしてみせた。
さすがだなと思いつつ、メリヤナは内心で苦笑する。
カナンがちらちらと横目で窺うように、メリヤナを見ていたからだ。
「わたしの顔、そんなにひどい?」
「は、は……いえ、そんなことはございません」
「いいのよ。はっきり言って。罰したりしないんだから」
以前の当たり散らしていた頃のメリヤナとはちがうのだから。
「……少し疲れたようにお見えになります」
カナンの返答を聞いて、メリヤナは深々と溜息をつく。
「はあ。やっぱりそうよね。今日は外出の予定がないから良かったわ」
「はい……。……あの、もしかして、わたくしのせいでしょうか?」
カナンがおそるおそると言った具合で尋ねた。こんなに気弱な様子の彼女を初めて目にする。
「ちがうわ。ちょっと夢見が悪かったの。ごめんなさい、昨日のことがあったから、勘違いをさせたわね」
「そんなことはございません!」
カナンが大きな声で言うものだから、メリヤナは喫驚して目を見開いた。
昨日今日と、いつもとちがう彼女の姿を目にしてばかりだ。
「恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか?」
カナンは意を決したように申し出た。
「え、ええ」
「……昨晩、自室に戻ってから、お嬢さまから提案されたことを女中仲間に相談したのでございます」
ほんとうに恐縮しきったようにカナンは言う。まるで、濡れてしまったネズミのようだとメリヤナは思った。
「そしたら、仲間たちは、『絶対に仲良くするべきよ! 昇進まちがいなし!』と言うのです。わたくしはそのような気持ちではなかったのですが……、はたから見れば、お嬢さまと仲良くすることは、そのように目に映るのだと思いまして……。いかに、お嬢さまが善意からわたくしに声をかけてくださったとしても、周りは——」
「あなたは一生懸命やって仕事を認められたいけど、わたしに気に入られて昇進するつもりだと思うわけね?」
「…………はい」
今にも死んでしまいそうな小動物の有様だった。
哀れであったが、メリヤナは声を上げて、朗笑した。
「……お嬢さま?」
カナンが怪訝な声で問いかける。
「ご、ごめんなさい。ちょっとおかしかったものだから」
懸命に笑いの発作を抑えながら、メリヤナは続ける。
「やっぱりカナン、わたしはあなたと仲良くなりたいわ」
「……はい?」
「だって、そんな正直に全部のことを話してくれるのであれば、信用できるもの」
メリヤナは、信用できる人が欲しかった。
心に溜まった鬱屈を口にし、聞いてもらえるような人間が。互いに互いの溜まった澱を吐き出せるような信頼できる他者が、メリヤナには必要だった。
軽くでもいい。狂ってしまう前に、諌めて慰めてくれる人が、近くに欲しかった。
煽動することなく、位家の威光を浴びようとするのでもなく、ただ愚痴をこぼし合うことのできる仲良しが。
「——わたしは信用できる仲良しが欲しいのよ」
自分の心が告げていることをメリヤナは言葉に変える。
「——だから、お願い」
仲良くして、と懇願すれば、カナンは、うっ、と言葉を詰まらせた。
幾許かの逡巡があった。
視線はさまよい、指先は落ち着きなく動き、けれど、カナンはどこか観念したよに、ふっと表情を綻ばせると、丁寧な発音で応じた。
「そこまでおっしゃるのであれば、仕事に支障が出ない程度で、お願いいたします」
「——ありがとう!」
興奮して、ぎゅっとカナンの両手を掴むと、彼女は薄く微笑んで肯いた。
晴れやかな気持ちだった。
夢に囚われそうになった。夢の先は沼で、ずぶりと踏み込めば、過去がメリヤナの足を捉えて沼の底に引きずりこもうとする。
けれど、諦めなければ。
諦めなければ、もしかしたらあの過去と未来は遠ざかるかもしれない。
「今度、あなたのお友達の女中たちも紹介してちょうだいね」
メリヤナが明るく言えば、
「……それは勘弁してください」
すでに一日の体力と気力を使い果たしたような声で、カナンが応えたのだった。




