12話:リヤと、フィル
しとしとと雨が落ちる。露台の石に当たった雨音が、窓硝子のあいだをくぐり抜けるように、耳の奥に打つ。
起き抜けの心地よい音だった。
寝衣のまま、寝椅子の上でぼんやりとしていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえてから、私室女中のカナンが入室してきた。
「おはようございます、お嬢さま。今日の朝食は、お部屋でなさいますか? それとも、食堂でなさいますか?」
「おはよう、カナン。そうね……食堂にしようかしら」
かしこまりました、と言いながら、カナンはてきぱきと窓布を開けていく。窓には水滴がいくつもいくつも付いていた。
水の張った盥を持って来られて、メリヤナは出窓部分で顔を洗った。すぐに脇から布が差し出されて、さっぱりとした顔を拭う。
よし、とメリヤナは昨夜心に決めていたことを口にする。
「カナン」
「はい、お嬢さま」
何か用を申し付けられると思ったのだろう。ぴたっと動作を止めたカナンは、メリヤナの言葉を待った。
「いつも何時に起きているの?」
「……はい?」
そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。拍子抜けしたような声が聞こえた。
「えーっと、あなたたちは何時頃に起きるのかしら……?」
フィルクが言っていた。
誰かに好きになってもらうためには、その誰かに興味を持って問いかけること。秘術にも書かれているが、虜にするしない関係なく応用できるらしい。
〝相手のこと(特に好きなもの)を把握するべし〟
メリヤナが以前まったくしていなかったことである。
いきなり好きなものを聞くのは、仲が良くないうちは敷居が高いから、簡単なことから問いかけると良いと、フィルクに助言された。
そこで、メリヤナは生活に関することから質問をしようと思い、行動をしたわけである。
「……5時でございます」
「ご、5時? そんな早いの?」
「はい」
真面目なカナンは無駄なことは話さず、回答した。起きる時間から雑談に広げようと思っていたメリヤナは出鼻を挫かれる。
めげてはいけない。最初はこんなものよと、自分に言い聞かせる。
「そうなのね……。えっと、そしたら、寝る時間は?」
「だいたい12時頃かと思われます」
「えっ! そんなに遅いの? ちゃんと眠れてる?」
「眠れております。慣れておりますので」
きっちりと回答すると、カナンはお辞儀をした。
「わたくしはこれで。厨房長に食堂で召し上がる旨を伝えて参ります」
一切隙を見せない態度で、居室をあとにしていった。
メリヤナは一気に脱力して、寝椅子にだらんと横たわる。
「大丈夫よ。最初なんだから、仕方ない仕方ない」
つぶやいて、念入りに自分に言い聞かせた。
それから数日、メリヤナはカナンに対して、積極的に問いかけた。
「カナン! 今日の朝ごはんは何を食べたの?」
「麦粉焼と卵と薄切り燻製肉です」
「カナン! 非番の日は何しているの?」
「……女中仲間と城下街に出かけたり、一人で散歩に出たりしています」
「カナン! あなたの好きな食べ物ものは?」
「……そうですね。檸檬の凝乳の焼き菓子です」
そして、ついにめげた。
「……もうだめだわ」
アッロ山の草地で、ごろんと横になる。数日雨が降っていないからか、枯れ草がちくちくとする。
ここからは〈緑の湖畔〉を一望することができた。丘よりは高く、山にしては少し低いアッロ山は、一応王都で二番目に高い山だ。
世の中には、もっと高い山があることを知っている。
エストヴァンの東部ヴァンス火山の奥には急峻な山脈が南北に走り、山頂には年中雪が積もっているほど高いのだという。
そんな山々からすれば、アッロ山なんて丘と言われてもおかしくないかもしれない。
なぜだか、山のことを考えていたのにみじめな気持ちになってきた。あまりにもカナンと上手くいかないから考えが後ろ向きになっているのかもしれない。
「女中さんと仲良くするの上手くいってないの?」
隣に座ったフィルクが問いかける。彼は悠然と革袋に入れた水で喉を潤していた。
「全然上手くいってない。もう、どうすればいいのかわからない」
「具体的にメリヤナは何をやったの?」
フィルクにこの数日でやったことを説明すれば、彼はなるほどと唸った。
「そこまで押して、くだけないカナンという女中さんもまあ珍しいけど、メリヤナは少し押しすぎかもしれないね」
「押しすぎ……?」
「うん。僕が教えた皇族秘伝メロメロ大全の内容覚えてる?」
その通称はどうにかならないものなのか。
教えてもらう身なので、メリヤナは内心で考えたことは黙っておく。
教わったもののなかで、どれだろうと考えを巡らす。ひとつずつ思い出しながら、耳に残っていたものをメリヤナは口にした。
「もしかして、〝押して押して引け〟のこと?」
「そうそう! 何度か押したら、少し引くってこと。押してもなびかないなら、引いてみると意外と向こうから近寄ってきたりするんだよ」
「……ほんとうに?」
思い返してみれば、メリヤナは基本的に押してばかりだ。前の生の時は、ルデルに大好き大好き言ってばかり言って、引くということを知らなかった。引いたら、向こうが寄ってこないのではないかと考えていた。
カナンに対してもそうだ。ここで質問することをやめてしまったら、一時的なお嬢さまの気まぐれで終わってしまって、仲良くなれないのではないかと不安だった。
「ファルナ公女なんかそうだったよ」
事実を以って言われると、試してみようと思えるのだから、不思議だった。
「そういえば、ファルナ公女とはあれからどうなったの?」
「ああ……、別にどうもなってないよ。適度に付き合っている感じかな」
興味がなさそうに、心底つまらなさそうに平淡にフィルクは答えた。
「そう。わたし、彼女には申しわけない。なんか利用したみたいで……。けっこうあなたにぼーってなっていたから、あまりこれ以上は引っ張らないようにお願い」
フィルクは、もしかしたらメリヤナのためだけにやったことかもしれない。けれど、ファルナ公女の立場からすれば、弄ばれたことになる。ただ、秘術の効果を実証するだけのために彼女を使ったと言うなら、人として悖る行為だと思えた。
「……うん、わかった」
言わんとしていることが伝わったのかはわからない。
フィルクは、メリヤナの瞳をじっと見てからそう答えた。
「メリヤナのほうはどうなの?」
「何が?」
「王太子とは上手くいってる?」
「おそらく今のところは嫌われていないと思うけど……、そういえば、このあいだ変なことがあったわ」
メリヤナは狩猟の時のことを思い起こす。
「殿下が、名前で呼べっておっしゃったの」
「名前?」
「うん。最近、気を付けて名前で呼ばずに、殿下って呼ぶようにしていたのだけど、急に名前で呼べですって。何か違和感でも感じられたのかしら」
「……へえ」
フィルクはそう言って、顎に手をやる。視線を上にやって何か考えていそうだったが、メリヤナはそのまま続けた。
「報告しなきゃって思っていたのだけど、あの時、少しだけフィルクに教わったことを実践してみたの」
「どれを?」
「好意は視線や仕草で伝えろってやつよ。実際にやったら、ルデルさまは照れていたから、効果抜群だったと思うわ!」
「じゃあ、上手くいっているってことだね。——メリヤナは、元から殿下のことをルデルさまって呼んでたの?」
問われて、メリヤナは肯く。
「そうね。そういえば、略称でお呼びしていたわ」
「ふーん。王太子のほうはなんて呼ぶの?」
「メリヤナよ。略すほどの名前でもないし」
王族や一部の貴族の名前はとても長く、そういう場合は略称を用いた。
「なるほどね。そしたら、僕たちは愛称で呼ぼうか」
フィルクの突発的な提案に、メリヤナは小首をかしげた。
「愛称?」
「うん、エストヴァンでは身内とか親しい間柄にある者同士は、愛称で呼んだりするんだ。メリヤナだったら、たとえば、メルとか、リヤとか、ヤナとか、そんな感じ」
「フィルクだったら?」
「フィルとか、ルークとか、あとはルクスもあるかな?」
「ルクスはちょっとわからないけれど……、フィルはたしかに呼びやすそうね」
「じゃあ、メリヤナはフィルって呼んで。僕は、リヤとかどうだろう?」
「いいわ。響きも好きよ」
「今度から、互いに愛称で呼ぼうね」
うん、とメリヤナは肯いた。
フィルクとまた親しくなれた気がした。




